は じ め に



  永い歴史と傳統を持つ民族や國家においては、その傳統文化を身につけることが、人間形成の基本です。國際社會での交際關係が密度を増せば増すほど、各國民における傳統的教養の重要性は増すばかりです。
  文化の中心をなすのは言葉・文字・文學・歴史などで、これらを包括してゐるのが古典です。古典の中でも比較的平易なものを義務教育の段階で教へるべきなのですが、今の教育は、むしろ古典的な文章を教材から排除しようとしてゐます。
  我々はその状態を憂慮し、若い人達を中心に各年代の人々が古典に親しむ端緒になればと、遠い昔から傳承されてゐる秀歌を百人一首の形で樂しんで頂くことにしました。
  百人一首と言へば、藤原定家の選んだ『小倉百人一首』があります。廣く永く親しまれた歌ではありますが、その選擇範圍は相聞歌、則ち戀の歌を中心とする王朝三百年ほどの間の作品に限られてゐました。このたびの新しい『平成新選百人一首』は、萬葉から昭和まで、二千年の歴史が生んだ秀歌の中から、あらゆる題材・歌風・作者を網羅した百首を選んだものであります。
  和歌の文獻といへば敕撰の歌集、結社や同人の詞華集、個人の家集と、記録に殘る歌の數は厖大なもので、この中から百首を嚴選することは容易ではありませんでした。國民文化研究會、日本會議をはじめ、國語問題協議會等の關係各位から、候補の歌人と名歌を推薦して頂き、候補歌人は約二百人、歌は千首近く集りました。これを更に、銓衡の討議を重ねること二年に及びました。
  歌を選ぶに當っては、多くの人に知られてゐるもの、解り易いもの、語調がよく朗誦しやすいもの、歴史との關はりの深いものを基準にしました。『小倉百人一首』の歌は除きましたが、その中の代表的歌人については、別の歌を選に入れました。但し、まだ評價の定らない現存の歌人の作は除きました。
  解説文の執筆は、各界で活躍中の多數の方々にお願ひしました。それぞれの味をお樂しみ頂けると存じます。
  二千年もの間、五七五七七の三十一文字といふ歌の形が變ることなく、絶えることなく續いてゐるのは、世界の文學史に於ても極めて珍しく、貴重な事實です。然し、最近の歌壇の一部には、歌ごころの乏しい、單なる三十一文字の羅列に過ぎないものや、奇矯な發想を衒ふ傾向も見られるので、この『平成新選百人一首』によって和歌の本來あるべき姿に觸れ、傳統文化の遺産を次代へ引繼ぎ、永く繼承させるよすがともして頂きたいと願ふ次第です。
  和歌は勿論のこと、國語の美しさを支へる基本的要素の一つが、正漢字・正假名遣による正統表記です。我々がこの百人一首の解説文を全て正統表記で記述してゐるのは、殊に若い讀者が、この「傳統的表記」の言語的正確さと美しさを理解し、その復活・實踐を志して下さる動機ともなれば――と願ふゆゑんであります。



平成十四年四月      國語問題協議會會長  宇野 精一