作文・独立教科宣言
作文革命=作文王・三部作の完成によせて------------------工藤順一
○「作文」はそれのみで独立した一教科にするべき重要科目です。頭の良い子、優秀な子どもというのは、生まれつきのものではなく、以下のような意識的な4段階の言語技術の訓練を通して、結果として作られていくものです。それを「作文」練習と呼びます。
○作文王・三部作は、小学生の発達段階(とりわけ3〜4年生での訓練が功を奏します)を考慮しながら、意識的な作文練習を体系的に学習できる教材=システムです。
作文王の「作文」の意味は以下の通りです。
作文とは***********************************
1、書き言葉を使い(=つまり客観的視点で)
2、書き慣れ(=つまり量をこなし)つつ
3、文章と発想の型をマスターすることを通して
4、「言葉で考える力」を養成する教科です。
************************************************************
大きく変貌しつつある世界の未来を生きなければならない子どもたちのことを考えるとき、いままでのようにひからびた知識の暗記一辺倒の学力観は大幅かつ早急に変更を迫られているはずです。しかるに、教育界でも塾業界でも、それに対する具体的な方策は何ひとつなされていません。
未来の教育を考えるとき、作文というのは、独立して学ぶべき1教科に加えてもよいくらい重要な科目でしょう。もちろん、ここで言う作文という言葉は、これまでの学校作文のような蔑称としての意味ではありません。上に述べたように、いくつかの段階を通して、「言葉で考える力」を養う強力なパワーを持つ教科なのです。たとえるなら、生きるためのエンジンを自分の中に作る教科とも言えるでしょう。
エンジンがついていない車を走らすくらい無駄な労力のかかることはないでしょう。あらゆる教科の学習は言葉で考えるというエンジンがついていることが前提であり、その上ではじめて学習成果がでてきます。
現代は、サッカー少年の養成ですら、言語技術の勉強をとりいれている時代です。体力だけではサッカーすらできない。キック力がどんなにあっても、状況を見てどこへ、だれにキックするかが問題だからです。同じようにせっかく暗記した知識も整理し、更新しつつ論理的に展開することができなければ何の役にもたちません。
作文=「文章を書く」ということは、言葉に現実と論理をきちんと絡ませて物事を描写したり、説明したり、自分の意見を主張したりすることです。つまり、それは私たちの「コミュニケーションをしながら現実社会を生きる」ことや学習そのものとあまりにも深くそして密接に絡まっています。
これは、そう簡単には教えることのできない、そして、正解のない世界であり、これまでの細切れの知識伝授=教育という教師自身の教育観を根本から変えないとたちゆかないことです。
しかも、それなりの体系的なプログラムの下での訓練が必要です。安易すぎる学校の国語でも受験のテクニック国語でもなく、「生きるための=リテラシーとしての国語教育」を体系的にしなければなりません。
しかしながら、日本の国語教育は漢字習得の負担が大きく、ほとんどの学校国語の時間がこれに費やされてしまうのではないでしょうか。大切なはずの作文教育は、書けることが前提になってしまっていて、何も教えられないまま、親の代筆した感想文の提出ということでごまかされてしまっています。
その結果、ないがしろにされつづけてきた「作文」という言葉が現実社会でどのように使われているかというと、ほとんどの場合、「官僚的作文=現実と乖離したつじつまあわせの嘘、あるいは言質を取られないための言い逃れ」のような蔑称としてです。そして、この国の宰相すら官僚の書いた作文をホッチキスで止めたものを棒読みしている。日本はますます二流国・三流国になりつつあります。
ですから、従来の意味での作文なんか書けなくても、書かなくてもよいのです。それはあまりにも長い間に渡って、間違った国語教育の咲かせた徒花のようなものでしかないでしょう。それができたところで実社会では何の役にもたたない代物、かえって軽蔑されてしまうような代物なのですから。
未来の子どもたちは、これからもっと大変な時代の現実をシリアスに言葉と論理を使って生き抜いていかなければなりません。言葉が生きることと絡み合わないなら、言葉でどう未来を構築していくのでしょうか。
ここに完成した作文王の三部作は、それを小学校の六年間を使い、文科省の学習指導要領を全く無視して、発達段階に応じて学ぶべきことをきちんと整理して教えるために考えられ作られた教材です。
また、おそらくは日本ではじめて思考と一体になったリテラシー教育としての国語教育を実現したものでもあるでしょう。このドリルによって従来は蔑称であった「作文」という言葉の意味が、本来的で普遍的な「文章制作」に変わることを願っています。
○プライマリー----1〜3年生
言葉が現実そのものから立ち上がってくることを感覚=五感を使って教え、実感することからスタートします。手近にある実物をふんだんに使用します。
その後、いつ・どこで・だれが・という型である5W1Hを使ってきちんとした一文を成立させることを学びます。それを使えば、物語も説明も書けることを学んでいきます。
○スタンダード-----3,4年生〜5,6年生
言葉は思考と一体であり、思考と生活の中で言葉は鍛えられ覚えられていくものです。言葉の学習は、思考練習とともになければならない理由がそこにあります。しかも、その思考とは論理的思考でなければならず、従来の国語のように「情緒=気持ち」を重視したものではありません。
ここでは、それをまず、<観察・分類・比較>という論理的思考のための基本的な軸を作ることからはじめました。そのような基本的な思考練習として作文の学習をしていくのです。
知性というものの基本は、そのような文章の構築作業からできていく思考の習慣のようなものでしょう。
具体的な課題は、教科を横断するような内容です。「あれ、これは算数の問題かな」と思いきや、たとえ答そのものが分かっても、それを導く過程をきちんと説明するのは言語による論理的な説明の必要な作文になります。
たくさんの付録を使って、ゲーム感覚で楽しい作文ができる工夫がされています。
公立の中高一貫校の入試問題には、同一問題や類似問題が頻出しています。
○トップレベル-----5,6年生〜中学
普段、私たち日本人は、文章を書く際に段落は意識しても、中心文までは意識しないことが多いのではないでしょうか。この本の導入編で学ぶことは、中心文をはじめに置くことを意識的にするということです。中心文を設定するということは、それと関係のないものが排除されるという構造を発生させます。それが「雑音を排除する」という考え方です。そして、同じような文章なのに、何を中心文に持ってくるかで、何が雑音になるかも異なってきます。そして、この、「雑音を排除する」という作業が段落に統一感をもたらします。
基本編は、展開文のもって行き方で、さまざまなタイプの文章が可能ということを示したものです。
発展編では、中心文のみをたどって読む技法、そして、応用編では
「クレーム・ワラント・データ」で展開するトゥールミン・ロジックを学ぶことにより、要約文や意見文を書くことを学習していく本格的な学習参考書でもあります。
作文革命=作文王・三部作の完成によせて------------------工藤順一
○「作文」はそれのみで独立した一教科にするべき重要科目です。頭の良い子、優秀な子どもというのは、生まれつきのものではなく、以下のような意識的な4段階の言語技術の訓練を通して、結果として作られていくものです。それを「作文」練習と呼びます。
○作文王・三部作は、小学生の発達段階(とりわけ3〜4年生での訓練が功を奏します)を考慮しながら、意識的な作文練習を体系的に学習できる教材=システムです。
作文王の「作文」の意味は以下の通りです。
作文とは***********************************
1、書き言葉を使い(=つまり客観的視点で)
2、書き慣れ(=つまり量をこなし)つつ
3、文章と発想の型をマスターすることを通して
4、「言葉で考える力」を養成する教科です。
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大きく変貌しつつある世界の未来を生きなければならない子どもたちのことを考えるとき、いままでのようにひからびた知識の暗記一辺倒の学力観は大幅かつ早急に変更を迫られているはずです。しかるに、教育界でも塾業界でも、それに対する具体的な方策は何ひとつなされていません。
未来の教育を考えるとき、作文というのは、独立して学ぶべき1教科に加えてもよいくらい重要な科目でしょう。もちろん、ここで言う作文という言葉は、これまでの学校作文のような蔑称としての意味ではありません。上に述べたように、いくつかの段階を通して、「言葉で考える力」を養う強力なパワーを持つ教科なのです。たとえるなら、生きるためのエンジンを自分の中に作る教科とも言えるでしょう。
エンジンがついていない車を走らすくらい無駄な労力のかかることはないでしょう。あらゆる教科の学習は言葉で考えるというエンジンがついていることが前提であり、その上ではじめて学習成果がでてきます。
現代は、サッカー少年の養成ですら、言語技術の勉強をとりいれている時代です。体力だけではサッカーすらできない。キック力がどんなにあっても、状況を見てどこへ、だれにキックするかが問題だからです。同じようにせっかく暗記した知識も整理し、更新しつつ論理的に展開することができなければ何の役にもたちません。
作文=「文章を書く」ということは、言葉に現実と論理をきちんと絡ませて物事を描写したり、説明したり、自分の意見を主張したりすることです。つまり、それは私たちの「コミュニケーションをしながら現実社会を生きる」ことや学習そのものとあまりにも深くそして密接に絡まっています。
これは、そう簡単には教えることのできない、そして、正解のない世界であり、これまでの細切れの知識伝授=教育という教師自身の教育観を根本から変えないとたちゆかないことです。
しかも、それなりの体系的なプログラムの下での訓練が必要です。安易すぎる学校の国語でも受験のテクニック国語でもなく、「生きるための=リテラシーとしての国語教育」を体系的にしなければなりません。
しかしながら、日本の国語教育は漢字習得の負担が大きく、ほとんどの学校国語の時間がこれに費やされてしまうのではないでしょうか。大切なはずの作文教育は、書けることが前提になってしまっていて、何も教えられないまま、親の代筆した感想文の提出ということでごまかされてしまっています。
その結果、ないがしろにされつづけてきた「作文」という言葉が現実社会でどのように使われているかというと、ほとんどの場合、「官僚的作文=現実と乖離したつじつまあわせの嘘、あるいは言質を取られないための言い逃れ」のような蔑称としてです。そして、この国の宰相すら官僚の書いた作文をホッチキスで止めたものを棒読みしている。日本はますます二流国・三流国になりつつあります。
ですから、従来の意味での作文なんか書けなくても、書かなくてもよいのです。それはあまりにも長い間に渡って、間違った国語教育の咲かせた徒花のようなものでしかないでしょう。それができたところで実社会では何の役にもたたない代物、かえって軽蔑されてしまうような代物なのですから。
未来の子どもたちは、これからもっと大変な時代の現実をシリアスに言葉と論理を使って生き抜いていかなければなりません。言葉が生きることと絡み合わないなら、言葉でどう未来を構築していくのでしょうか。
ここに完成した作文王の三部作は、それを小学校の六年間を使い、文科省の学習指導要領を全く無視して、発達段階に応じて学ぶべきことをきちんと整理して教えるために考えられ作られた教材です。
また、おそらくは日本ではじめて思考と一体になったリテラシー教育としての国語教育を実現したものでもあるでしょう。このドリルによって従来は蔑称であった「作文」という言葉の意味が、本来的で普遍的な「文章制作」に変わることを願っています。
○プライマリー----1〜3年生
言葉が現実そのものから立ち上がってくることを感覚=五感を使って教え、実感することからスタートします。手近にある実物をふんだんに使用します。
その後、いつ・どこで・だれが・という型である5W1Hを使ってきちんとした一文を成立させることを学びます。それを使えば、物語も説明も書けることを学んでいきます。
○スタンダード-----3,4年生〜5,6年生
言葉は思考と一体であり、思考と生活の中で言葉は鍛えられ覚えられていくものです。言葉の学習は、思考練習とともになければならない理由がそこにあります。しかも、その思考とは論理的思考でなければならず、従来の国語のように「情緒=気持ち」を重視したものではありません。
ここでは、それをまず、<観察・分類・比較>という論理的思考のための基本的な軸を作ることからはじめました。そのような基本的な思考練習として作文の学習をしていくのです。
知性というものの基本は、そのような文章の構築作業からできていく思考の習慣のようなものでしょう。
具体的な課題は、教科を横断するような内容です。「あれ、これは算数の問題かな」と思いきや、たとえ答そのものが分かっても、それを導く過程をきちんと説明するのは言語による論理的な説明の必要な作文になります。
たくさんの付録を使って、ゲーム感覚で楽しい作文ができる工夫がされています。
公立の中高一貫校の入試問題には、同一問題や類似問題が頻出しています。
○トップレベル-----5,6年生〜中学
普段、私たち日本人は、文章を書く際に段落は意識しても、中心文までは意識しないことが多いのではないでしょうか。この本の導入編で学ぶことは、中心文をはじめに置くことを意識的にするということです。中心文を設定するということは、それと関係のないものが排除されるという構造を発生させます。それが「雑音を排除する」という考え方です。そして、同じような文章なのに、何を中心文に持ってくるかで、何が雑音になるかも異なってきます。そして、この、「雑音を排除する」という作業が段落に統一感をもたらします。
基本編は、展開文のもって行き方で、さまざまなタイプの文章が可能ということを示したものです。
発展編では、中心文のみをたどって読む技法、そして、応用編では
「クレーム・ワラント・データ」で展開するトゥールミン・ロジックを学ぶことにより、要約文や意見文を書くことを学習していく本格的な学習参考書でもあります。