10年余り前、米国の著名な人文誌に、ある物理学者が投稿した哲学論文が採用された。タイトルは「境界侵犯」。物理学者らしく、小難しい科学用語や数式をふんだんに使っていた。
ところが後日、驚くべき事実が判明する。実は論文で使われた科学用語や数式はでたらめ。論文は物理学者のイタズラだったのだ。専門知識があれば一目で分かるレベルだったが、編集者は疑わなかったらしい。数式なんて理解できなかったのだろう。
これは笑い話ではない。グラフや専門用語を並べて「血液がサラサラになる」と言われて信じたら、悪徳商法だったりする。効果が定かでないのに、「マイナスイオン」の宣伝に乗せられる。そこに根本的な違いはない。
それらしい演出に「科学」という権威付けがなされると、人はたちまち思考停止し、「真理」だと信じ込む癖がある。一度信じれば、わずかな疑念には目をつぶる。科学の落とし穴だ。
さらに厄介なことに、科学は進歩する。ある時代に正しいとされたことが、いつまでも正しいとは限らない。天動説と地動説がそうだったし、1990年代初めのDNA鑑定も最先端の科学だったが、今から見れば幼稚なレベルだった。
足利事件で男性を有罪にしたのも救い出したのも、「科学」だった。もし裁判員に選ばれたら、専門知識があろうとなかろうと、こうした「科学」と向き合う機会が訪れるかもしれない。「間違ったでは済まない」と憤る男性にうなずきながら、気は重くなるばかりだ。