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すべりひゆノート

2009-09-12

信仰と親子関係

| 09:33

子供の頃からの環境との関連で、信仰とのかかわり方に苦しんでいる方の日記と、それに対して書かれたあんとに庵さんのエントリに、キリスト教信仰を持っている親の立場からいろいろと考えさせられた。うまくまとまるかわからないけれど、書き留めておこうと思う。

まずは、苦しい気持ちを見つめてwebという場に書き綴ってくれた増田さんに感謝したい。

物心つかないうちから親にキリスト教信じさせられて苦しい人、いませんか。

子供にキリスト教信じさせてる親の方。

子供が本当にどうおもってるか、言うと思いますか。

あるいは、「神様信じてるよ」って言う言葉だけを真実として拾ってませんか。

嗚呼。

ちょっとドキッとした。私は自分では子供(現在12歳)に「信じさせる」のではなくて「自分が信仰している姿を見せる」という姿勢を心がけているつもりなのだけれど、ミサへの参加とか、祈りの習慣とか、日常における様々な出来事についての分析、判断、決定などを通して、子供は「信じさせられている」と感じているかもしれない、と、いうよりは多分そう感じているだろう。

今はちょうど彼にとって「親や周囲の大人たちが言うことを丸ごと素直に受け取る子供の信仰」から「自分自身の体験や考え、感情をベースに悩み、苦しみ、反発し、喜びながら深めてゆく大人の信仰」へと移り行く時期であるようだ。


「子供の信仰から大人の信仰への移行過程」に関してはあんとに庵さんの【信仰で苦しんでる増田さんがいたからちょっとお返事してみる】に共感できる部分が沢山ある。

アンダーラインを引きたい部分がてんこ盛りなのだけれど、特に

律法的に教えを守るのではなく、まず以て「教え」そのものにいったん懐疑していく必要はあると思う。鵜呑にせず、まず疑え。「何故?」と思う事で、それについて考える。それが大切であって、鵜呑にしてただ守ることだけが大切ではないと思っていますよ。

それでも生きていて辛かったら愚痴聞いてくれるんだよ。神は。

ゲッセマネのイエスの時みたいに愚痴聞くだけで何もしてくれなくてむかつくんだけどな。

は、親としても、一信者としても座右の銘(ちょっと長いけど)にしたいくらいだ。

あと、

「神」を偶像化するな。と聖書は言う。

偶像化するというのは、なにも「彫像を造るのがいけない」とかそんなレベルの話ではない。神という超越する存在であり「真」であり「善」であり「美」である存在を、己の限界性に基づく価値で卑小なものとしてしまうことだ。増田さんは親との関係性を神に無意識に投影しているんじゃないかと。まとわりつく母親=神というそのようなペルソナを神に付与してしまっているのではないか?と考える。だから「親」からの自立が必要ではあるとは思ったが。親という像から自立した時に見る「神」というのは別の相貌を持つかもしれない。

も、いつも座の右においておくにはとんでもなく長いけど、心の引き出しにしまっておいて、時々取り出して愛でたい文章だ。


我が息子との話に戻ると、小さい時には両親やカテキスタ(catechista=要理教育者)、聖職者から「世界の貧しい人たちのためにお祈りしましょう」と言われると、その小さな柔らかい手を合わせて一生懸命「イエス様、どうか貧しい人たちが幸せになれるようにしてください」と、神妙な面持ちでお祈りしていたような彼だったのだが、徐々に徐々に世界は複雑でいろんな事情に満ちたものだと言うことがわかってきたらしい。

 「友達のお父さんが病気になって、その友達は一生懸命毎日毎日お祈りしてたのに、亡くなってしまった。」

 「先生があるクラスメイトだけ贔屓する。同じことをしても僕らは怒られて、そいつはかばってもらえる。」

 「貧しい人に施しを、って言うけど、物乞いしてるやつを見たらブランド物の靴を履いてた。」

 「よく天国は聖人がいっぱいっていうけど、そんなところは退屈そう。」

 「どうして意地悪したヤツを赦さなくっちゃならないの?」

 ・・・etc, etc・・・

 「Non e` giusto! (おかしいよ!)」

私は精一杯の真摯さで思うところを話す。

 「そのお友達が一生懸命お祈りしたこと、彼のお父さんはきっとうれしかったことでしょう。身体の苦しみが和らぐことはなかったかもしれないけれど、心の苦しみはきっと軽くなったと思うよ。それに今は神様といっしょにそのお友達を見守ってるよ」

 「あなたが知らないその子の事情を先生は知っているのかもしれない。もし先生が間違っているとしても、神様はそのことを全部知っているから、あなた達は間違ったことをしなかったのなら胸を張っていればいいよ」

 「もしもその物乞いの人があなたからお金を騙し取ったのなら、それはその人の良心の問題。あなたはあなたの良心に従ったのでしょう。神様は私たち一人一人の心の中まで見えているから大丈夫。」

 「天国と言うのは、例えるなら『とても幸福な一瞬が永遠に続く』ようなものだから退屈はしないんだよ」

 「その子はあなたにかまってもらいたかったのかもしれないよ。それに『赦す』っていうのは『なかったことにする』というのとは違うよ。友達の意地悪が間違ったことだと思うなら、そのことを彼にわかってもらえるようにして、今までよりもっと友達になれば?」

うーーーん、こうして書いてみるとなんかうそ臭い、説教くさいことばっかり言ってるなー。私が12歳くらいだったら、親からこういうことを言われたら非常な反発を感じるだろう。

私の言葉を聞いている息子の顔にも「そんな答えでは納得できない!」という表情がありありと浮かんでいる。

でも彼の質問に私の信仰を照らし合わせたら、どうしてもこういう答えになってしまう。

「どうして神様がいて、みんなの心の中まで知っていると言えるのだ?」という問いには「私はそう信じているから」としか言えない。

ちょっと語弊があるかもしれないけれど、信仰は恋愛のようなものだと思う。

「この人は人柄も頭もよくて容姿端麗、お金も沢山あるから好きになりなさい」

と言われても、

「はい、じゃそうします。」

と、好きになることなんてできない。

ある日突然、気付いたら恋に落ちてしまっており、条件とか理屈とか関係なしに心と身体がどうしようもなくその人に惹かれ、寝ても覚めても思うのはその人のことばかりになってしまうのだ。

信仰にも似たような部分がある。

理屈を超えて「私は信じる」と言わしめられてしまう、自分の存在全体が巻き込まれてしまう大きく神秘的な何か。

その「何か」は信仰の心臓部とも言えるものなのだけれど、親や周囲の大人たちが子供に「それを“与え”たい」とどんなに願ってもかなわないものだ。

信仰している自分や他の様々な人々の姿を見せ、信仰の対象となっているものの情報やそれに関する体験をできるだけ豊かな方法で提供し続け、あとはひたすら「彼が/彼女が信仰を持つようになりますように」と祈るしかない。


ところで、親が我が子に自分と同じ信仰を持って欲しいと願うのは、最終的には「我が子に幸せになって欲しいから」だ、という答えに行き着くと思う。

少なくとも私の場合はそうだ。「私は信じる」と言えるような対象を持つことができるようになったことは、私の人生を随分と楽で、幸せなものにしてくれた。物理的にはそれ以前とは全く変わっていない、むしろ物理面で見ると悪化してるという見方もできるかも知れないけれど、内面の『幸福度』(うむー、なんかちょっと語感的に違う気もするけど)は飛躍的にアップ(この言い方もちょっと違うような気がするけど)した。

だから息子にもこの『幸福感』を味わって欲しいと願うのだけれど、もしも彼が私の信仰が対象とするものを受け入れられず、人生の様々な体験の後に他の対象を信仰したり、ひいては無神論者になったとしても、彼自身が「自分は幸福である」と感じられるのならばそれでいい。

それでいい、はずなんだけど、やっぱり自分の持つものと同じ信仰を持って欲しい、子供には「私が思うところの幸福な状態」になって欲しい、というのが親のエゴの哀しさだ。

増田さんのお母様は多分このエゴの部分が強い人なのではないかと思う。もしくは多くの人よりも余計に辛い体験をして、エゴを強くしなければ自分を守れなかった人なのかもしれない。そしてご自分ではそのことに気付かれていないのかも。

(トイレの話と、出産の時の話はちょっとどうかと思ったけれど。「戸は閉めてほしい」「出産の時のとんでもない話(衛生面から考えてそんなことはあり得ない)をされたときは傷ついた」と言っても良いんじゃないでしょうか。)

親子として密に関わる増田さんにとっては、今はしんどいかもしれないけれど、いつか「ああ、あの時こんなにしんどかったのは今のこの幸せな瞬間のためなのか」という時がきっとやってくると思う。

それまではいろんな人に会って、いろんなところを旅して、いろんなことを体験して、泣いて、笑って、怒って、感動して世界を広げてください。

神様については、今はちょっと横ちょにどいててもらっててもいいんじゃないですかね。

増田さんが「あ、また神のことを考えてもいいかな」と思ったら、光よりも速いスピードで戻ってきて、いつの間にか側に佇んでてくれますよ。

2009-09-05

右とか左とか

| 08:13

日本の2009年衆議院選挙民主党の勝利で終わったとのことで、イタリアの各メディアでは「50年以上政権についていた自民党がその座を追われたことは日本の歴史的な転機といえよう」という調子で報道されていた。

TVの全国ニュースでも取り上げられていたので、何人かのイタリア人から「君の国では政権が交代したみたいだね。えーと、勝ったのはなんて政党だっけ...あー、Partito Democraticoだった?」と話を振られた。

私「そうそう」

相手「負けたのは?」

私「Partito Liberal Democratico。」

相手「なんだそりゃ。似たような名前でややこしいな。」

という反応がほとんど。

イタリアだって中道二大政党が『Popolo della Liberta`』と『Partito Democratico』で、略すとそれぞれ『PDL』、『PD』でややこしいではないか。更に言うとちょっと前までは『Forza Italia(イタリア頑張れ)』とか『Ulivo(オリーブの木)』『Margerita(マーガレット)』(少女趣味だ)『Rosa nel Pugno(拳の中の薔薇)』(これは結構いけてる。握った拳から血が滴ってそうなイメージ)とかおちゃらけた名前の政党だらけだったくせにー。*」と返すと「はは。そりゃそうだ。で、新政府のポジションは?」

むーん。

「えーと、民主党中道右派で、自民党はさらにもうちょっと右寄りになるんじゃないかなー。」と、答えておいた。

が、イタリア報道を見ると『中道左派民主党』と言われている。

英語圏も同じようだ。

そーなの?

鳩山由紀夫とか小沢一郎って私が日本にいた90年代半ばくらいまでは右の人と認識されていたような...

私の中では

左←共産党社会党社民党←まん中→民主党自民党→右

である。

公明党民主社民の中間だけど、大作バイアスがかかっているため、水平軸からはちょっと外れて独自の世界を作っている(あくまでも私の頭の中のお話)。

これは私の頭の中の日本政治マップを更新しなくては、と、ネットで日本語のページをいろいろ見てみた。

が、なんだかよくわからない。

2chのあるスレッド(いま確認しようと思ったら過去ログ倉庫に入ってしまっていた)などでは、「民主自民左派」という意見が多くてまたビックリしてしまった。

じゃ、日本の政党で右と呼べるのはどこなのだ?

みんなの党」とかいう右派にあるまじきフニャフニャした名前のヤツか?

だからネットで見かける日本人は右を自称する人が多いのだろうか。社会が左寄りになったら自分はそのままじっとしてても右になるもんな。その逆もまた然り。

でもここしばらくの日本政府の言動って、遠くにいる私から見たら右っぽく見えるんですけど。

自衛隊海外派遣とか、首相靖国参拝とか、公営だった機関の民営化とか、派遣社員制度とか、高齢者の切捨てとか。

んー、わからん。

日本の新聞もどこがどういう政治的ポジションなのかいまいち明確ではない。

イタリアだと政党メディアのつながりと言うのがすごくはっきりしていて、直接あからさまに繋がりすぎとも言えるけれど、あらかじめどういうバイアスがかかっているのかわかっていて読めるという利点もあり、何かについて知りたい時は右、左、教会系のそれぞれの代表的なメディアをあたるとだいたいの落ち着き場所が見えてくる。

私にとって、日本のマスメディア(少なくともWebで触れることのできるもの)はいったいどういう立ち位置なのか曖昧だから、どうやってフォーカスを当てていいのかわからない。

表情が全くない人を相手に会話をしているようでもどかしい。


で、結局、民主党は右なんでしょうか左なんでしょうか。

こういう見方が既にイタリア的なものに汚染されてるのかな。

そういえば、美術評論家で女たらしで作家でかつては親ベルルスコーニ政治家だったけど紆余曲折あって今はベルルスカからはちょっと距離を置いてシチリアのSalemiという自治体の市長をしているVittorio Sgarbiは自らの政治的ポジションを訊ねられた時

「自分は右でも左でもない。上だ。」

と答えた。

ひょっとしたら日本の新しい与党もその路線なのかもしれないね。


 * ついでに言うとI Democraticiという政党のシンボルマークは虫プロに依頼して描かせたのかと思われるような

  ロバ↓だった。

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  残念ながら3年くらいでUlivo(だったと思う)に吸収されてしまったけど。

2009-08-12

できあがり

| 01:51

杏干しが干しあがった。

よく「三日三晩干す」というけれど、今の時期、私が住んでるイタリア北部は日本に比べて日照時間が長く、湿気も大変少ないため2日で表面にうっすらと粉状の塩が吹いてきたのでこれで終了。

もっとシワシワになるかと期待してたのだけれど、意外と肉厚で張りのある仕上がりになってしまった。

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早速1個試食。

うーーーーーーーーーーーー、すっぱいぜー、しょっぱいぜー。

杏だと梅ほど酸っぱくならないと聞いていたけれど、ちゃんと“梅干らしい”酸っぱさだ。

口がキューッとなって唾液があふれてくる。

ご飯を炊いとけばよかった。

これから瓶に保存して1年間寝かせようと思ってたけど、今年中に食い尽くしてしまう予感が。

2009-08-11

干し作業 ‐ 杏干し

| 00:26

今日から晴天が続くらしいので杏干しの干し作業開始。

ピザ用のお皿の上にオーブンシートを敷き、その上に杏を並べる。

紫蘇もいっしょに並べる。

現時点で3時間ほど経過したのだが、見た目はやはり杏のままだ。

干してゆくうちに梅干らしい皺っぽさが出てくることを期待する。

昨日は何十年ぶりかという激しい嵐だった。

横殴りの暴風雨に加え、途中からは雹も降りだした。

始めは小粒でパラパラ程度だったのがどんどんと大きさと密度を増し、バスルームの窓ガラスが割れるのではないかと心配させられるほど。

嵐が一過した後、外に出るとベランダのゼラニウムとナスタチウムは無残にへし折られ、葉もちぎれて半分以下のボリュームになっていた。

裏庭も壊滅状態で、特に朝顔の被害がひどい。

やっとつぼみが沢山つき始めていたのに、葉はビリビリ、つるもあちこち雹の直撃を受けて割れている。

回復するとしても1ヶ月はかかりそう。

そうそう、庭の被害もかなりのものだったが、ガレージも水浸しで、水を掃きだすのに一苦労した。こういうとき、普段から整理整頓できていないことを反省させられる。

2009-08-03

チャッピー⇒ロッキー⇒チャッピー

| 02:21

せっかく改名決定したロッキーだったが、家人の猛反対によりチャッピーに逆戻り。

愛らしい姿にロッキー・バルボアのイメージが重なってしまうのがどうしても受け入れられないらしい。

当の本鳥は粟穂と紫蘇の葉さえ齧れれば名前などはどうでも良い、といった風情。

今日は掌の下にすっぽりと入り込んで首筋をカキカキさせてくれた。

ただしピカチュウの監視下でないとダメな模様。

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↑一週間前、初めてカゴの外に出ようとしているところ。写真には写ってないけど、足元にはピカチュウがぶらさがっている。