『時をかける少女』と『パプリカ』
題名:虚実の皮膜を突破する筒井SFの快感と、そのアニメ化
SFは未来を志向する文学として誕生した。科学技術による加工貿易で日本が急成長していった時代にも大きな役割をはたし、アニメが産業として発展するときのバックボーンにもなった。映画自体が産業革命の果てに発展した科学技術の産物なのでSFとは親和性が高いし、黎明期のTVアニメでSF作家が多数動員されている理由もそこにある。
その一方でSF小説の活字で表現される世界と映像表現には微妙な隔たりがいつもつきまとっていた。そんな事情が大きく変わるのは近年、デジタル映像技術が急成長して表現力が強化され、小説でしか成し得なかったイマジネーションに追いついた結果である。現に日米ともSF小説の古典が続々と映画化されているではないか。
こうした時代性をふまえたとき、筒井康隆原作のSF小説『時をかける少女』と『パプリカ』が連続して劇場アニメ化されることには、どんな意味が見いだせるのだろうか?
まず、すでに公開済みの細田守監督の『時をかける少女』は、ジュブナイル(少年少女向け)小説が原作である。女子高生・真琴がタイムリープ(時間跳躍)することで経験する甘酸っぱい感情という小説のエッセンスを凝縮。細田監督ならではの小道具やレイアウトにこだわった日常性の強い映像がベースとなった結果、日常からジャンプするSFの驚きの感覚が高まった傑作である。
ドラマの核は、思春期の心身とも不安定な時期に少女と男子2名の間に生じる微妙な関係である。これにタイムリープによる時間リセットという非現実性が介在することで、真琴の葛藤はSF的にも圧力を加えられ、驚きの結果を提示する。タイムリープに翻弄されず、むしろ前向きに利用してしまう現代の少女的な描写は、筒井康隆の原作にはもちろんない。だが、リセットでやり直された時間の虚構性と本来の現実の間にある皮膜をタイムリープが突き破るというアレンジの方法論は実にSF的で、より高いレベルで原作の精神を継承する作品になったと言える。
一方、これから公開される『パプリカ』はどうだろうか? これは精緻な画面構成と作画で知られる今 敏監督の最新作として大きな注目を集め、すでにヴェネチア国際映画祭でも高い評価を受けた劇場映画である。
『千年女優』や『妄想代理人』など今 敏監督の作歴では、筒井小説にも共通する虚実の境界が曖昧になるような、SF的な仕掛けが使われてきた。『時かけ』と比べると今作品では虚実はジャンプせずに、現実描写からシームレスに夢や虚構世界へと移行し、ディテールに凝った「ホント」と「ウソ」が混淆していく点が違う。観客としては、その虚実入り交じったシチュエーションの幻惑感とともに、ドラマの感情面を楽しむというスタイルになる。その点で『パプリカ』は決定版と呼ぶべき驚異の映像世界を提供している。
今回は、精神医療の一貫として他人の夢の中へと入っていく女性パプリカが主人公になっているため、虚実のバランスが夢の方に傾いている。手描きを基本とした人肌の感じられる柔らかい作画技法を中心に用いて「夢を夢らしく描く」ことに心血が注がれた結果、盤石と思われるコンクリートや金属はゆらめき、人形や電化製品や鳥居までが練り歩く極彩色のパレードが出現。そのエキセントリックさは、まさに「筒井康隆的映像」のインパクトと同質である。幾重にも散りばめられた筒井作品へのオマージュとともに、映像の虚構性の極致を楽しめる作品に仕上がった。
このように、『時をかける少女』と『パプリカ』は現実・夢の対極にありながらも、その境界にある皮膜を行き来するという点で共通性を持っている。その皮膜の突破はSFの真髄でもあるが、それはアニメならでは映像表現が可能とした部分が多々存在する。筒井SFという極上の材料に究極の調理法を施した2作品。その共通性と異同から、新たに生まれるテイストを楽しんでいただきたい。
【初出:月刊アニメージュ 2006年11月号 特集用原稿/脱稿:2006.09.22】
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