機甲界ガリアン
題名:メカファンタジーの可能性
『機甲界ガリアン』の放映当時、サンライズ製作のロボットアニメは、青年層向けの二本柱があった。ひとつは富野由悠季監督による『疾風ザブングル』から『聖戦士ダンバイン』『重戦機エルガイム』へと続いていくシリーズ。そして、もうひとつが『太陽の牙ダグラム』から『装甲騎兵ボトムズ』を経て本作へとつながっていく高橋良輔監督のシリーズである。
高橋監督作品の系譜においても、ロボットが強いキャラクター性を持ち、ファンタジー色の強い冒険譚というのはやや異色であった。それまでは、高橋監督作品も、富野監督の『機動戦士ガンダム』が切り開いた路線の上にあったからである。つまり、ロボットをアニメーションのキャラクターではなく、科学と工業技術の産物であり、量産可能なある種無個性な機械と位置づける観点である。
ガリアンという作品も、実際にはそこからは大きくは逸脱していない。ロボット自体には意志はなく、操縦者を必要とするし、過去に存在した未来的テクノロジーで作られた量産兵器でもある。それにもかかわらず、そこには強いキャラクター性を感じる。これは一種の矛盾であるが、実はその矛盾を超える“トンネル効果”的なポイントにこそ、一方向に進めば閉塞してしまうだけの限界を打破する可能性が秘められているのではないだろうか。
“ファンタジー”という欧米色の強い要素が、時代とともに日本社会へ受容されたことも、これには作用している。
ファミコンゲームの『ドラゴンクエスト』の発売は1986年5月、ガリアン放映終了直後のこと。『指輪物語』に代表される本格的ファンタジーは、「剣と魔法」という世界観で、それをテーブルトークRPGからコンピューターRPGを経て、日本の大衆向けに一般化して受け入れられたのが『ドラクエ』である。それとガリアンやダンバイン等の出現が歩調を合わせているのが、歴史的には面白い。
ドラクエ以前の『ダンバイン』では、魔法を「オーラ」と言い換え、生体が放つ気に近く、人によって優劣のあるものとした上に、魔法(オーラ)の受け皿となるロボットのデザインを生体方向に強く色づけ、そのリンケージを明確にしていた。このように世界を構成する要素の、何が「あり」で何が「なし」かのサジ加減をかなりうまく配分しないと、単に勝手なことが夢のように展開する方向性へ流れてしまう。
一方で『ガリアン』の方法論は、魔法抜きである。鋼鉄メカによる剣技だけで、ほとんど勝敗・優劣の決まる世界で、これは中世の騎士物語や日本の時代劇が持っていた世界観やドラマと親和性の高いものである。それは、ビデオ版ガリアンの『鉄の紋章』が証明済みである。
現状、ロボットアニメというとガンダム的な兵器的世界観のものか、スーパーロボットという呼び名のヒーロー要素の強いものが主体である。それぞれが、おそらくはロボットの兵器的リアリティとキャラクター性が両立せず、苦労していることだろう。
だが、こういった“メカファンタジー作品”とでも呼べる分野には、兵器とキャラクターの矛盾を飛び越えることのできる“可能性の鉱脈”が眠っているのではないか。その矛盾を超えられるのは、まさに無生物に生命を吹き込む矛盾を内包したアニメだけなのである。
【初出:『機甲界ガリアン』DVD-BOX(バンダイビジュアル)解説書 脱稿:2003.02.11】
→関連評論「機甲界ガリアン(解説)」
| 固定リンク