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2006年12月17日 (日)

修羅之介斬魔劍

題名:「修羅之介斬魔劍」虚無を見据える娯楽時代劇アニメ

■伝統芸能直系の時代劇

 「講談」は日本の伝統芸能である。寄席演芸のひとつで、戦国大名に御伽衆が軍記を語って聞かせたのがルーツと言われている。「修羅場」は、この中で特に合戦の場面のことを指す。
 講談の内容は軍記の他に仇討ち、御家騒動など多岐にわたり、特に義賊など「悪漢」が活躍するものは、浄瑠璃、歌舞伎を含めて江戸時代に人気を集めたという。
 鳴海丈原作による時代劇アニメ『修羅之介斬魔劍』は、日本人に連綿と受け継がれてきた講談文化の直系たる作品である。
 主人公、榊修羅之介は、「死鎌紋」と呼ばれる不吉な家紋を背負い、比類無き剣の達人だ。その名の通り、彼の動くところ修羅の連続となり、血の川が流れる。
 心に深い疵を持つ主人公、姫様の誘拐事件、「銀龍剣」と呼ばれる宝物をめぐる三つどもえの争奪戦という定番の設定を軸にして、喪われた江戸の風景をバックに壮絶な乱闘・死闘が描かれる。もちろんお色気タイムも用意され、娯楽度数はかなり高い。
 この作品は、大人のためのエンターテインメント時代劇なのだ。

■氷の視線を持つ美剣士

 原作の『修羅之介斬魔劍』は、1990年から長編ノベルズとして5巻が刊行された。現在では徳間文庫で読むことができる。
 最初の刊行時(カドカワノベルズ版)では、イラストをアニメーターの杉野昭夫が担当。1990年末に小説版刊行間もなく同じく杉野昭夫のキャラクターデザインと、出崎統監督によってアニメ化された。脚色は原作者の鳴海丈自らが行い、50分という短い時間の中で多くのイベントを手際良くまとめている。
……寛永十二年、徳川家光将軍の治める江戸の世に半鐘の音が響き渡った。見せ物小屋から逃亡した白虎が町に出て、凶暴な牙で人々を食い荒らしていったのだ。捕方たちも次々と倒され、白虎が江戸城へと歩みを進めたそのとき……烈風の中をひとりの浪人者が白虎の進路に現れた。
 浪人は冷ややかな視線を白虎に向けると、一刀のもとに獣の体躯を両断した。浪人は奉行たちの感謝をよそに名も告げず、その場を去るのだった。
 彼がこの物語の主人公、榊修羅之介である。
 修羅之介は長髪、美形の剣士であり、その腕は天下無双。感情を乱すことなく、目の前の障害を淡々と退ける。
 白虎に対峙したときも、風に乱れる髪を気にもせず、ただ見据えるだけだ。この時期、出崎統監督は「眼光」の演出に凝っていた。このとき放った視線にも冷たく青白くほのめく光が重ねられ、赤く殺意に燃える白虎の視線と交錯していた。
 この後のシーンでも、何度か修羅之介の視線に光が重ねられている。修羅之介自身の表情は滅多に変化することがないが、目の光芒はさまざまな彩りを見せる。
 虚無をベースとする修羅之介のヒーロー像に、この視線の変化は独特の味つけをもたらしているのだ。

■アニメによる江戸の描写

 『修羅之介斬魔劍』は、50分の作品にしては空前と言って良い密度のアニメである。バトル、濡れ場などイベントだけでも軽く10以上はある。人物も次から次への登場で、乱戦の結果死んでしまう人物も少なくなく、テンポがよい一方で、あっという間に通り過ぎる印象もある。解説的な部分は切り捨られ、ストーリー的にも未完のまま幕を閉じる。
 パッケージには書いていないが、本編ラストには「VOL1」とあって、小説の展開にあわせてシリーズ化が予定されていたことが判る。1本のアニメとしては、バランスは崩れているかもしれない。物語に「体験」ではなく「説明」を求める者には「結局、なんだったんだ」という感想しかもたらさないかもしれない。しかし、そう簡単に切り捨ててしまうにはいかない魅力がこのフィルムにはあふれているのだ。
……白虎の襲撃はある種の陽動作戦だった。江戸の警備がそちらに集中したとき、怪忍者の一群が南倉藩の屋敷を襲撃し、真夕姫を誘拐した。彼ら世鬼一族の狙いは、伝説の銀龍剣。南倉藩は白虎を退けた修羅之介の腕に着目し、真夕姫奪還の使者として選んだ。
 修羅之介を待ち伏せ、腕試しをする展開は迫力である。神社の境内で6人の武士に囲まれる修羅之介。警告を無視して斬りかかった全員があっという間に骸をさらしていく。最後に残った剣客、田代軍兵衛は、名乗りを上げて立ち向かった。静かな木漏れ日の中でにらみあいが続き、アゲハ蝶がひらひらと舞う。裂帛の気合いとともに真剣が交錯、修羅之介の秘技「無神流・魔滅死」がきらめくと、蝶はまっぷたつに斬り裂かれ、軍兵衛の首は胴体から離れていくのだった。
 一般論的には、アニメ化には向き不向きがある。時代劇は、どちらかと言うと、向いていないジャンルに属している。セル画はどうしても存在感に乏しい素材であり、和服の着こなしひとつ取ってもセル表現にはハードルが高いからだ。ましてや時代考証を追求するのは、SF設定をひと山つくるのとは比較にならないほど大変だ。
 だが、この作品は「アニメで時代劇」という表現に挑戦し、エンターテインメントとしての一線を勝ち取ったのである。
 まだアスファルトも電気もないころ。風が吹けば砂煙が道に舞い上がり、夜ともなれば深い闇を提灯を頼りに歩かねばならなかった。それだけ人工のものとは縁が遠く、まわりすべてが自然の生と死に満ちていた時代……そんな雰囲気をこの作品は全身で放っている。先の決闘シーンも、夏の暑い日差しに周囲は蝉時雨の音、それがあってこそ剣劇の気迫が高まる。
 夏祭りの雑踏、見せ物小屋のおどろおどろしい書き文字、笛や太鼓の和楽器による懐かしい音楽……。
 修羅之介の住まいは荒れ寺。たそがれ時の柔らかなオレンジ光の中、羽虫の音が聞こえ、夜ともなると蒼い闇があたりを包み、墓場には蛍が死者の魂のように舞う。
 凄惨な剣劇の前後に散りばめられた、こうした一見なんでもない光景は、現代ではほとんど省みられない過去のものである。修羅之介が虚無を背負うように、これらが現存しないというのもひとつの虚無である。
 このアニメでは、そこに哀切をこめるかのように存在感豊かに描いている。その表現は、アニメだからこそ逆に可能となったものだと言える。そして、静かで豊かな情景描写があるからこそ、剣が舞うたびに腕が飛び、臓腑が舞い散り、頭蓋が割れるといった生理的なショックがより効果的になり、死の一瞬が鮮やかに浮き立つのである。
 血しぶきのほとんどは、この作品では黒く潰されて描かれている。いたずらに血の色による刺激に頼ってはならないという、出崎統監督なりの節度と、対比へのこだわりがここにこそ見える。

■虚無を見据えるキャラクター

 修羅之介は無敵の剣の腕前を持つヒーローである。成長とは無縁の、ある種完成されかけたキャラクターだとも言える。それがゆえに虚無をたゆたえているのかもしれない。
 彼は決して正義の味方でもなければ完全無欠でもない。物語が進むにつれて、そこはかとなく修羅之介の心のひだが見えてくる。そこが大きな魅力である。
 裏の世界に住む修羅之介は、決してストイックではない。酒も飲めば、女も抱く。女掏摸のお蓮が恥をかかされた恨みで殺しに来れば、裏に潜む慕情をくみ取り極楽に送ってやる。南倉藩の依頼を引き受けた動機も、大金の受領が前提である。
 彼の剣はときとして心の翳りを映し出すことがある。姫と剣の引き替えに出向いた修羅之介は、船着場の一家惨殺光景を目撃した。世鬼一族が口封じのために行ったことだ。
 子供までも手にかける非道さに、修羅之介の目が輝き、囲む忍者たちに向かって剣がきらめいた。
「あ……兄上……」
 その瞬間、黒い画面にこの声がインサートされる。かつて修羅之介は自分の両親と実の弟を自らの手にかけた過去を持っていた。詳しい顛末まではわからないが、彼がこの一件で深い喪失感を抱きながら生きていることは了解できる。
 子細不明で充分ではないか。しょせん、人は他人になりかわることなどできない。人生を完全に共有することなどは、不可能なのだ。しかし、人を理解することはできる。人となりを想像することもできる。
 黒い画面に息も絶えそうな少年の声……それに重なるような激しい剣の動きと血しぶき。この積み重ねがかきたてる妄想に近い想像力こそが、修羅之介のキャラクター造形をぐっと深いものにしているのである。

■はかなき朝露の恋

 さらに修羅之介の人となりをいっそう深めるものがある。それは純粋無垢なる者、真夕姫を前にしたときに明らかになる。
 救助に来た修羅之介を前にして、世鬼一族の大頭、獰頑は真夕姫の喉元に刃を突きつけ、恫喝する。
 この窮地に真夕姫はまったく動ぜず、自らの命を絶つよう告げた上で、修羅之介に問いかけた。
「恋……恋とはなに? 私は知らずにこの世を去ります」
 修羅之介も全霊をこめてそれに応える。
「されば恋は朝露なり。この世にとどまるは一時。もともとこの世にはなきものと思われよ」
 姫はこの回答に満足し、やがてこの無頼の浪人に心ひかれていくようになる。それは、人も世界もそして恋さえも、この世にはなき幻と知る修羅之介の虚無を観たからだ。それを知ってもかつ戦う心の深さに触れたからだ。
 「人に夢」と書いて「はかない(儚い)」と読む。「はかなきは人の命」これが田代軍兵衛に対して秘技「魔滅死」を放ったときの修羅之介の言葉である。彼が剣をふるうとき、人の命を奪うとき、どう考えているか端的に表した言葉ではないか。
 かつて確かにこの世界の過去として存在した江戸の世界。うつろいながら夢のように消えていった風景、建物、文化、生物たち……。
 そこにも確実な生と死が存在したのだ。
 いまよりも深い闇とほのかな光の中に、もっと深刻でかつ豊かな振幅の大きな死生観があったのだ。
 『修羅之介斬魔劍』の荒削りで駆け足の映像の流れの中で、虚無とはかなさを知る主人公が、死をまき散らしながらも生の真実に到達しようとする。
 アニメが「生命をふきこむもの」を自認するならば、このように喪われた死生観を追求するのもひとつのあり方なのではないか。
 修羅之介のもつ一見虚無のような視線の彼方に、こんなことがかいま見える。

《以下はコラム》

●江戸の灯り様々

 現代日本では夜に蛍光灯をつけ、まるで昼間のような明るさを欲する。だが、欧米家庭では白熱電球の柔らかく黄色い光を間接照明にするのが一般的で、ロウソクやランプの趣がいまも残っている。本作品でも、ナイトシーンは行灯などの光源、色を非常に意識して画面がつくりこまれている。水面に映る送り火の光、障子によぎる室内の人影、提灯に照らし出された不敵な笑顔など、古風な江戸の光がこれから起こるドラマを盛り上げているのだ。

●多士済々のキャラクターたち

 本作品は50分のビデオアニメとは思えぬ壮絶な人数のキャラクターが登場する。鬼子母神の彫り物を背負った女懐中師という定番のキャラから、出雲の阿国という実在の人物、そして金で殺しを請け負う柔術使いの魔狼次まで、それぞれの生き様を背負って活躍するのである。悪役の世鬼一族の登場人物たちも、なかなかのフリークスぞろいだ。大鎌や棘の鞭、行灯の火などを使う比較的ノーマルな忍者から、果ては蜘蛛の巣をはり糸を吐くもの、湖底に沈んで全身に吸盤を持つ蛸忍者など、ショッカー怪人なみのやつまで登場する。当然、すべて修羅之介にやられてしまうのだが……。圧巻は世鬼一族の大頭「不死の獰頑」。その名の通り、刀で全身を串刺しにされても、その破片をへし折り、筋力で排出してよみがえってしまうのである。

●死生観のこもった風景

 榊修羅之介が住まう荒れ寺は、通称「投げこみ寺」という。行き倒れや天涯孤独な人の死など、無縁仏が捨てられていったところからそう呼ばれる。夜になって蛍が密集するそのほのかな美しさに注目だ。人質交換は上野は不忍池の中にある小島。そこには蓮が密生しているが、本編の中でも言われているとおり、極楽浄土を思わせる光景だ。こんな風景の積み重ねは、フィルム全体に確実にあるテイストをもたらしているのである。

●江戸の路傍描写

 冒頭、暗い闇から始まる江戸の風景。木造建築で作られた街は、物語の中で、さまざまな顔を見せる。白虎が逃げ出した見せ物小屋を中心に、出雲の阿国一座、女懐中師と主要人物を手際よく集めている。のぼりと看板で派手に飾られた道を人混みがゆっくり動くのも風情のうちだ。魔狼次が殺しを実行する川辺の風景も、倉がたて並んでいて、実に江戸らしかった。ラスト、修羅之介と魔狼次がすれ違う路も用水桶や暖簾などが配置され、実に良い雰囲気を出していた。

《DATA》

原作・脚本/鳴海丈 監督・絵コンテ/出崎統
キャラクターデザイン・作画監督/杉野昭夫
企画/伊藤源郎 プロデューサー/高橋尚子、田宮武、出崎哲、池田憲章 演出/松園公 美術監督/阿部行夫 撮影監督/高橋宏固 音響監督/浦上靖夫 音楽監督/鈴木清司 音楽/渡辺俊幸 協力/角川書店 制作協力/マジックバス、デュウ 製作/プロミス、東映ビデオ
■CAST
修羅之介/井上和彦 真夕姫/佐久間レイ 魔狼次/玄田哲章 大善/岸野一彦 信右衛門/稲葉実 忠澄/亀井三郎 お蓮/佐々木るん 阿国/藤田淑子 澪/水谷優子 積雲/藤本譲 天海/渡部猛 お園/一城みゆ希 軍兵衛/菅原正志 流閃/広瀬正志 ナレーション/小林清志 ほか

【初出:月刊アニメージュ連載「世紀末王道秘伝書」巻之弐拾六 脱稿:2000.04.19】

※2008年10月にDVD化されました。改訂します。

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