アニメーション表現の歴史
題名:アニメーション表現の歴史
ANIMATION EFFECTS
(1)SFアニメのエフェクト
吹き上げる爆発、ほとばしる光線、激しいドッグファイト、引き裂かれる大地。SFアニメに欠かせないスペクタクル映像。そこには日本製アニメ独特の表現様式がある。
70年代末期、米国で「スターウォーズ」を筆頭にSFX(スペシャルエフェクツ)映画が大ヒットした。コンピュータの導入で新しいスペクタクル表現が可能になり、SFX技術が新たな主役として観客を呼び込み、映画界を活性化させたのだ。
日本の映画・テレビ界では同じ70年代末期にアニメ映画がブームになり、活性化の役割を果たした。子供向けと思われていたアニメが青年層にアピールすることが判り、観客層を広げたのだ。
米国のSFXに相当する推進役は、70年代末期に立ち上がった「エフェクト」だ。狭い意味では光線や爆発などの作画技法のことだが、ここでは意味をSFX相当のスペクタクル映像と広く取り、エフェクト進化の歴史を簡単に追ってみたい。
(2)エフェクト創始者ディズニー
エフェクトという呼び方そのものは、ディズニープロが始めたものだ。クレジットでもCharacter AnimatorsとEffects Animatorsが分かれている。
本来アニメーターは、画面で動くものすべてに等しく技量が求められる。しかし、キャラクターと自然現象とでは勝手が違い、後者を動かすには別の才能が必要だ。ディズニーは早くからそれに気づいていた。そこで専門家によるエフェクト班が設けられたのがエフェクト史の始まりだ。
彼らは実験と観察と想像力を武器に、試行錯誤を重ねてリアルな映像を生み出していった。だが、その考え方はなかなか日本には導入されなかった。
(3)第一世代・東映動画のエフェクト
60年代初頭まで、国産のアニメは東映動画の長編漫画映画しかなかった。
教育的見地から題材は古典名作中心で、スペクタクルな映像では円谷英二の東宝特撮映画に一歩譲っており、エフェクトが主役とは言えなかった。
しかし、特撮映画顔負けのエフェクトを見せてくれた作品もある。「わんぱく王子の大蛇退治」(64年)では、ヤマタノオロチは単純なデザインなのに画面から飛び出してくるような迫力があった。
「空とぶゆうれい船」(69年)では、国民を守るべき戦車が、渋滞中の車を潰しながら登場するという衝撃的なシーンがあった。前者の担当は大塚康生で、後者を描いたのはアニメーター時代の宮崎駿だ。大塚と宮崎は、東映動画を代表するアニメーターで、エフェクトも大得意としていたのだ。専門ではないとはいえ、第一世代のエフェクトアニメーターと言えよう。彼らの描いた緻密なスペクタクルシーンは、後進に大きく影響を与える。
(4)テレビアニメ時代の栄枯盛衰
日本最初のテレビアニメは「鉄腕アトム」(63年)だ。以後SFアニメブームが起きるが、テレビでアニメを放映すること自体が不可能とされた時代のことで、エフェクトも見ごたえが不足していた。
66年にテレビに円谷特撮を持ち込んだ「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、英国からの輸入人形劇「サンダーバード」が放映されると、SFアニメはマイナーになってしまった。怪獣やメカニズムのリアルな特撮映像に、黎明期のエフェクトは技術的にかなわず敗退したのだ。
60年代末期には劇画の時代を迎え、特撮もスポ根ブームに取って代わられる。スポ根時代のアニメには技術革新が訪れた。トレスマシンが導入されたことで、汚しや劇画タッチの入ったリアルな動画がそのままセル画に複写することが可能になった。
描線がリアルになるのに呼応して、演出もこの時期に進歩した。長浜忠夫演出による「巨人の星」(68年)ではボール一球を投げ終わるまでの主人公の動作や感情を細かく追い、魔球が投げられるや背景が異世界のようになるなど大胆な盛り上げ方をしていた。
出崎統演出による「あしたのジョー」(70年)では、スローモーションや逆光、ハイコントラストなど当時としては画期的な映像技法が多用された。テレビアニメ風エフェクトを支える演出の基礎が、この時期に確立されたのだ。
(5)70年代・テレビアニメのブレイク
劇画ブームに乗って青年誌連載の「ルパン三世」(71年)すらテレビアニメ化された。ワルサーP38やベンツSSKなど実在の銃器・車が種類の分かるように細かく描かれ、それまでのマンガめいた単純な表現から脱皮した。
タツノコプロのアニメンタリー「決断」(71年)は、リアルなメカ表現の戦記ドキュメンタリーだ。ここで試されたアニメ爆発のセルワーク、透過光による機銃のエフェクトは翌年の「科学忍者隊ガッチャマン」(72年)でSFヒーローものという場を得てふんだんに使われ、実写合成にも挑戦。色彩感覚豊かでハイレベルなエフェクトのメカ戦闘シーンは視聴者を驚かせ、大ヒットとなった。
(6)SF映像の頂点「宇宙戦艦ヤマト」
オイルショックの余波から終末ブームの起きた74年。ついに「宇宙戦艦ヤマト」が登場する。演出の石黒昇はエフェクト表現に優れており、松本零士の世界を臨場感あふれるSF映像に仕立て上げた。
石黒は、宇宙空間の無重力を表現するために放射状に拡散し、破片が落下しない爆発シーンを作画させた。遊星爆弾による滅亡のイメージシーンでは、岩の破片を一枚一枚ていねいに動かし、破壊シーンなのに美しく描き出した。波動砲を撃つときも、全艦の電源を止めてエネルギーを蓄積するプロセスを大事にした。線の多い複雑なデザインのヤマトをアニメ風に略さず、ゆっくりと動かすことで重量感を出した。
テレビのスケールを超えた画面作りに、青年層はSFマインドを感じて喝采を送った。ヤマトの主役はエフェクトだったのだ。
(7)第二世代、金田伊功の登場
「宇宙戦艦ヤマト」によってめざめたアニメファンの中には、スタッフやクリエイターに興味を持つ者も現れた。アクションとエフェクトでファンの注目を浴びた原画マン、それが金田伊功だ。金田は、円谷英二の東宝特撮映画と東映動画の長編アニメにあこがれてアニメ界入りした第二世代のアニメーターだ。同世代には「宇宙戦艦ヤマト」で戦艦大和の回想シーン、「ルパン三世カリオストロの城」(79年)でカーチェイスを作画し、影響を与えあった友永和秀がいる。
東映動画の「ゲッターロボG」(75年)、「大空魔竜ガイキング」(76年)で、金田の担当した画面作りは極めてユニークだった。金田は手前にあるものを極端に大きく描いてパースをつけたり、人物を斜めに立てたりした。ポーズも背中を丸めたりガニマタになったり、手首を異様な角度に曲げたりしてデフォルメして描いている。ジグザグに空間を乱れ飛ぶ光線。球になってはじけとぶ爆発。その動きには、メリハリがついていて快感だった。異様な遠近感に大胆なアクション。これこそが金田伊功のエフェクトだ。
アニメにおける表現は自然に見えるように描くのが基本である。「ヤマト」の方法論もその延長にある。だが、金田アニメは彼自身のイメージとセンスが生み出した独特の空間と運動法則にもとづいたもので、世界で金田しか描けないと言って良いようなオリジナル世界を内包しているのだ。
サンライズ作品を手がけるようになった金田は「無敵超人ザンボット3」(77年)、「無敵鋼人ダイターン3」で、さらに磨きのかかったロボットアクションを繰り出し、着実にファンを増やしていった。
(8)エフェクトの巨匠・金田伊功
77年、ファンの熱意で、打ち切られた「宇宙戦艦ヤマト」が再編集映画として劇場公開され、空前のアニメブームが起きた。ブームに乗って青年層向けの劇場アニメが何本も公開された。金田は力量を買われて、劇場アニメのエフェクトを続々と担当した。中でも東映の劇場映画として公開された「銀河鉄道999」(79年)では、クライマックスの惑星メーテル崩壊シーンで金田ならではのエフェクト博覧会のような作画をくり出し、大評判となった。凝りに凝った光線のアクションや炎のフォルム、1コマ毎に激しく明滅する爆発、激しく変わる視点の戦闘シーン。ファンタジックな音楽に凄まじい迫力のエフェクト画面が不思議とマッチし、金田の評価をアニメ界に轟かせた。
ついには「メカニック作画監督」や「スペシャルアニメーション」など特別な役職が金田のために設けられ、ファンもまたそれを楽しみにするようになった。こうして金田伊功はエフェクトスターとしての地位を築き、巨匠として頂点に立った。
(9)金田モドキの時代
金田伊功のアニメ技術はアニメ雑誌で徹底分析され、話題を呼んだ。80年代に入り、ビデオデッキが普及すると、コマ送りなど特殊再生機能を使ってアニメ技術を分析することが誰にでもできるようになった。金田にあこがれる若きアニメーターたちは、金田エフェクトを詳細に分析し、自分なりに模倣するようになった。金田の弟子筋にあたるアニメーターたちが、再び増加したSFアニメの中で金田と同じエフェクト専門で活躍するようになったのもこの時期である。
こうして「金田モドキ」と呼ばれる作画法がアニメ界に流布していった。80年代前半のアニメには、ロボットやメカにいきなりパースや濃い影がついて異様なタイミングで暴れまくる、そんなシーンが満載だ。日本のアニメがエフェクトを専門化すると同時に、それは金田モドキという形で広がっていったのだ。
やがてモドキの中からオリジナルのエフェクト感覚を獲得する者も現れた。
(10)第三世代・エフェクトアニメーターたち
金田の影響を受けた第三世代のエフェクトアニメーターたち。鍋島修・亀垣一・越智一裕ら金田の弟子筋は「六神合体ゴッドマーズ」(81年)で迫力あるロボット戦を見せた。
弟子筋の中でも山下将仁は金田モドキを「うる星やつら」(81年)に持ち込み、メカアニメ以外にも金田モドキを広めた。大張正巳は「戦え!イクサー1」(86年)で注目されたアクション派で、現在も格闘アニメの旗手の地位を確立している。
なかむらたかしは「ゴールドライタン」(81年)で火山噴火や地割れ、怪獣を劇場作品並みの重量感で描き、「AKIRA」(88年)の作画監督で正統的なエフェクトの頂点を極めた。
板野一郎は、通称<板野サーカス>と呼ばれる新世代のエフェクトを開発した。代表作「超時空要塞マクロス」(82年)では、ミサイルの弾道を煙で精緻に表現し、板金がひしゃげ破片をまき散らすクラッシュシーンなどアメリカのSFXに一歩もひけを取らない迫真の映像を提供した。
その「マクロス」で原画デビューした庵野秀明は、「風の谷のナウシカ」(84年)のクライマックスで巨神兵が腐って溶け落ちるシーン、核爆発のようなキノコ雲のシーンで高い評価を受け、後の監督作品「新世紀エヴァンゲリオン」(95年)でもエフェクトを重視した作品づくりを行っている。
(11)そして今日…
第三世代は、エフェクト技術を自分なりに消化して研鑚し、先進の映像を生み出した。
影響を受けてより優れたエフェクトを磨くアニメーターも増えていく。このサイクルが繰り返され、全体の作画の質が底上げされる。日本製アニメのエフェクト・クオリティは、こうして培われた。今日、エフェクトで高品質を獲得した日本製アニメが、表現の可能性をさらに広げるCG技術をどう取り込んで新しい映像を生み出すのか。
それが今後の課題だろう。金田の例をあげるまでもなく、まずクリエイターの表現すべき独特のイメージ、センスありきだ。これが忘れられない限り、まだまだ楽しみは続くに違いない。
【初出:SFアニメがおもしろい(アスペクト) 1997年1月】
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