金田伊功GREAT
題名:金田伊功はアニメ界の円谷英二だ
昨年来、縁あってひさびさに執筆活動をさせていただく機会を持つことができた。
その中では意図的に一貫して「金田伊功」というキーワードにこだわってみた。
その本音としてはこういうことがある。
日本製のアニメーションが今日世界でも独特のスタイルを築くにいたったのは、映画の本来の出発点であるスペクタクル、すなわち「見世物」としての映像……エフェクトアニメーションを積極的に展開し、それが観客に対して求心力を発揮したことが大きな要因となっている。
日本の特撮の歴史を語るときに、「特撮の神様」と呼ばれる「円谷英二」に触れないわけにはいかないだろう。
だが。
アニメに「円谷英二」に相当する人物として記憶されている作家はいるのだろうか?
ここで自分にはエフェクトの流れでもっとも重要な人物としてかつて一世を風靡したはずの「金田伊功」という名前が浮かぶ。
だが、自分にとって当然のビッグネームが、若い世代にほとんど通じなくなっていることを知り、大ショックを受けた。
これはアニメーションの歴史的な流れがほとんど整理も分類もされていないままに、作品そのものだけがパッケージングされて流通していることのもたらした惨状である。
一方でたとえば現役の大学生たちが、こういった「歴史」に無関心かというと、決してそういうことはないのである。これだけあふれかえったソフトパッケージのどこをどういう順番で見れば、どんな意味がどう見出せるか、ちゃんと追って見せて語ると、とても面白がってくれるのである。
こんな流れの中で、もし若い世代が迷っているなら、それは本来自分でやるべきなのにできなかった作業に対する「ツケ」のようなものではないか、とさえ考えるようになっていった。だから、機会があるんだからもう一度ちゃんと言わなければいけない、と思った。
アニメにも、「トクサツ」があるんだよ、と。そして円谷英二に相当する偉大なトクサツの神様は、「金田伊功」と言うんだ。
もう忘れちゃいけないよ、と。
もう少し「円谷英二と金田伊功」について語ってみよう。
円谷も金田もその評価は「技術」に対して与えられることが大半である。
しかし。
「技術」そのもの、それが本当に一番重要なマターなのだろうか?
円谷英二はキャメラマン出身だ。戦前の映画ではそれまでディテールをあいまいにし、濃淡のないようにきれいに照明を当てて撮影するのが基本だった。
円谷英二は、そこにディテールを明解にした撮影方法を持ち込んだ。それは反発をもって迎えられたようだ。やがて円谷は戦後の「ゴジラ」でその地位を決定的にする。その「技術」は、今日でもミニチュアワークや着ぐるみの特撮に継承されている。
だが、円谷英二自身の演出によるフィルムと他人のそれを比較したとき、リアルに見えるかどうかの技術以前に圧倒的な差を感じて慄然とする。それはフレームを通して見える円谷英二のイマジネーションの大きさの差である。それこそが技術以上に本質的に感動の源泉となっているようにおもえるのだ。
円谷は、常に内心で高みにあるイメージを追い求め続け、その片鱗をフィルムに定着させようとしてその生涯を過ごしたのではないだろうか。
「こんな絵でいいのか? 自分の見たいものはこれか? 本当は違うのではないのか?」
心の中の映像。それは見ようとして見えないようなものだ。
自分の中でもおぼろに現われ隠れ、必死に追い求めようとしないと像を結ぼうとしないイマジネーションの結晶。それを対象である被写体に投影し、肉薄し、キャメラという刃で切り取ろうとする。
この姿勢、スタンスが先に立つのであれば、技術は「必要な手段」としてイメージに駆り立てられる形で生み出されていく、という関係にある。それには「当たり前」とされていることをそう思わない心眼が必要とされるだろう。だから人物の撮影法も普通ではなかったのではないか。
映画の観客が本当に感動するのは、こういった作家の「魂」が見えるからだ。
金田伊功はどうだろうか。
映像としてのスペクタクル性。集客力を持つ卓越したエフェクト映像。多くの後継者を生んだアニメ界での影響力。こういった点にも円谷との共通点がある。しかし、一見技術だけが話題になりながら、実は内面のイマジネーションが先にあってテクニックは手段として後追いをしているという点にこそ、真の共通点を見るべきではないか。
もう少し具体的な話をしよう。
金田の画面構成は、ご存知のように「パース」が強調されている。
手前にあるものは顕微鏡で拡大したように強烈に大きく、遠くにあるものは天体望遠鏡でのぞいたように小さく描かれている。
だが、これを「遠近感を強調した方がカッコよい」という具合に、見栄えを良くするための「技術」という風にとらえてしまって良いものだろうか?
金田自身は、いくつかのインタビューで「そんなに意識して描いてるわけではない」「計算なんてない」というようなことを語っている。「金田調」として真似をして、単純な「技術」にまで落として描いている者はいざ知らず、金田本人は単に感じるままに描くとああいった強遠近法空間になってしまう、と自己認識しているのである。
パースがついちゃう理由?
そんなものを言葉にできるものであれば、絵なんて描かないよ……とは、もちろん謙虚な金田は言わない。どうやっても言葉になどできない……だけど「こうなんだよね! 判るよね!」とでも言いたげな、インタビューの行間からにじみ出てくるアルチザン的ムードがたまらなく良い。
金田は本能のおもむくままに筆を動かすのだろう。
これはこっちにあるからこう置いて、いっぺんにこの手前のこいつも見せたいよな、近くにあるから大きいよな。迫ってくるときには、ドバッ! グワッ!
こうだもんな。サッ、サッ。
いや本当にそうやっているのかは本人でないから判らないし、こちらは観客なのだから本質的な問題ではない。
大切なのは、作業をしているときには金田にしか見えないイメージ、金田にしか所有されていない情動がひとつの画面の中でせめぎあって形になる、その結果として画面がひずんでしまうことだってあり得るんじゃないか、ということだ。歪んでしまったかもしれない画面の向こうから「こりゃスゲエんだ!」という金田の魂の息吹が伝わるからこそ、他のひとの描いた映像と違うワン・アンド・オンリーのテイストを感じ、シンクロし感動する、ということだ。
「表現」にいたる内心の葛藤の結果として「パースがついてしまう」のであって、最初から「パースをつけてやろう」と作っているのではない、というのは重要だけど気づきにくいことだ。
絵というのは不思議なもので、人間の心のなかにしかないものを明瞭に再現してしまうものだ。単に空間を切り取った映像としてのイメージというだけではなく、エモーションのゆらぎのようなものまで忠実に反映してしまう。観客の目にもその情動は明白に伝わり、染み入り、共鳴を及ぼす。
だからこそ感動するのである。
フィルムになるまで金田にしか見えない感じられない、イマジネーションの彼方にあるもの。それこそ我々が自分だけでは見られないからこそ、映画を追い求めて見る動機になっているものではないだろうか。
その原点を観客としても大事にしていきたいし、語っていきたい。
だから金田のもつ筆がたとえマウスかタブレットに変わろうとも、全然心配なんぞはしていないのである。
だって、金田伊功は「アニメ界の円谷英二」なんだから。そのイマジネーションの源泉を信じているから。
シャカイガクやシンリガクがどんなにエライものなのかは私には判らないし、世の中がどうなっていくのか、なんてことはアニメを見て考えても仕方ない。
そんなことより、もっとアニメを見てるときに大事なコトがあったんじゃないのか。
それは、観客を楽しませる映像を作ったクリエイターたちがいて、その「夢見る力」があるからこそ、観客も共感し、イマジネーションのタガが解放されて快感を得る。
だからアニメを見るんだという、ごく当たり前のことだ。
その当たり前に気づかせてくれる金田映像は、やっぱりたまらなく好きだし、これからもこだわって追っかけて行きたいと思う次第である(敬称略)。
<後記>
代表作:著書「20年目のザンボット3」(太田出版)
※金田さんの原画掲載、ありがとうございました。おかげさま
で好評でした。
「ランデブー 6号 スタジオZインタビュー」(みのり書房)
※金田さんへの日本初のインタビューです。ケダマン氏と共同
で取りました。20年前のできごとなのは信じられません。
「動画王・第1号 金田伊功インタビュー」(キネマ旬報)
※たぶん金田さんへの最新インタビューです。最古から最新ま
でやらせていただけたのは光栄です。かなりページ増やして
いただいたのですが、渡辺宙明先生の音楽の話など、もれた
話もあって少々残念です。
「SFアニメが面白い」(アスペクト)
※使える写真に制約があって残念でしたが、必死で金田色を強
めた記憶があります。
「東大オタク学講座 岡田斗司夫著」(講談社)
※東大生のために金田アクション名場面を編集するというのは、
面白い作業でした。
【初出:同人誌「金田伊功GREAT」 1997年12月発売】
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