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2006年12月 5日 (火)

勇者王ガオガイガーFINAL

題名:逆転の構図とドラマの関係
(同人誌用原稿)

 まず、『ガオガイガーFINAL』全八話の完結、これはスタッフもファンの方も大変だったと思います。全部で五年間になるのでしょうか。その時間の重みというのは大きいです。セルアニメとして始まって、途中でデジタルの時代に変わってますもんね。
 その間のテンションの持続と、この密度の映像でやり遂げたということそれ自体が、すごいことだと思います。
 お客はどん欲なので、待たせれば待たせるほど期待をふくらませるはずですから、それに応えていくのが、どんなに大変なことかは身に染みてよくわかります。私自身は完結を待ってから一気に観たので、各巻とその前でどれくらい間が開いたか、実はよく知らないんですが、待たせただけの甲斐のあるものだったであろうことは、画面からほとばしる熱気でよくわかりました。
 特に、最終シークエンスで「勝利」の文字がそろって出るところとか、大仕掛けが作動して巨大ハンマーが出現するところ、「やっちゃえ!」とか、あの辺は良かったですね。ラストも、あの傷ついた人びとは、起こしたことの大きさを背負って、時が来るまでさまよい続けるだろう、という部分は渋くていいと思います。

 ただ、「本当にこれでいいのかな……」と考え込んでしまった部分も、楽しさの反面に多々あったことは事実です。それはファンのための本で言うべきことなのかどうか、ずっと迷っていまして、ばっくれてしまおうかとすら思ったんですが……。
 編集の方々とメールをやり取りしていく中で、逆に好きな方が集まる場だからこそ、そういう部分にもちゃんと光をあてた方が、良い締めくくりになるのではないかという風に思い始めました。
 なので、なるべく自分の感覚に正直に展開していきたいと思います。

 話を絞り込んで言えば、この作品については「逆転劇」と「エスカレーションの構造」に違和感を感じました。そしてこれは、「ストーリーとドラマの関係」ということにも密接にリンクしています。
 観終わった方はもう充分にご存じのとおり、このビデオアニメは他に類を見ないほど「逆転逆転また逆転」の繰り返しで物語が進んでいきます。いや、「クライシスと逆転だけで」と言った方が、より正確でしょうか。
 勝ったと思ったら「ふっふふ、バカめ! 実は!」で逆転……したと思ったら「この手があるぞ!」……かと思ったら「我らにはこれが!」……かなあと思ったら「俺の力は○○だ!」……え~、何の話なんだっけこれは、と途中でふと思っちゃったりするわけです(苦笑)。
 これは邪推の類ですが、三十分ずつポツリポツリと発売されるのを待ち続けるファンのテンションを上げておくための仕掛けだったのかな、と思ってしまうほどでした。そうなると、リリース形式とドラマツルギーが不可分ということになりまして、突きつめていけば、これはそもそもTVシリーズのファンが心待ちにして観るもので、門外漢が一気に観るものじゃない、という話になりかねません。そうなら、以下述べることは本当に無粋なことにしか過ぎなくなります。
 そんな疑いが出るくらい、「さあ、また新たなクライシスだ」「おっと、○○で逆転!」ばかりが際だってしまう作品なわけで、そこにはあまり異論はないでしょう。
 それは映画が連続活劇だった時代の「クリフハンガー」(主人公が崖からぶら下がって危機を盛り上げて次につなぐ形式の映画)の系譜だということもできます。もともと連続シリーズのテンションの上げ方は、逆転とエスカレーションをもって王道と成すわけですから、そこだけを取り上げて「逆転するから良くない」などと野暮なことを言いたいわけではないのです。
 問題は、「何のための逆転なのか」という目的意識(観客がシンクロすべき意識)や「逆転をしたことで全体の流れや登場人物のドラマはどうなるのか」という物語の骨子みたいなところが、ふとぼやけてしまうように感じるところにあると思うのです。

 逆転劇の中で、一番最初に「ええっ?」と思ったのは、“ルネの危機に現れたその影は、なんと! 護だった!”という展開です。
 いや、だって……地球に反旗をひるがえしてまで完遂せねばならなかった今回のこの壮大なる旅、それは「護を助けに行く」のが目的のひとつだったわけじゃないですか。
「ある人間を助けに行った先で、そいつがどうして助けに来るのよ」って、これは後にアカデミー賞を取った『千と千尋の神隠し』を観たときにも言った言葉ですが(ハクのことですね)、こういうのは物語を進める上で、本来は禁じ手というかバグに近いものではないかと思うんです。
 なぜなら、話を前に転がすモーメントというのは割と物理学的にできていて、不可逆な性質があるからです。
 この場合、誰か大事な人が弱っているということが、物語の進行方向にぶら下がると、向こうの方がへこんだ傾斜みたいなものができて、それが主人公の走り出す運動エネルギーのもとになるわけです。その走るという運動が燃料のように作用して、そのへこみを回復させて元に戻す……いや元に戻ったのではなく、以前に比べて「より良き状態」に「変わった」ということが、普遍的なお話の構造なんです。
 それはパターンだ、お約束だということではありません。もともと人生というものは、普遍的にそういう風にできている部分があるからです。だから、物語の重要な役割として、構造の中へ観客が首を突っ込んだ果てに、どんな変化、発展があるのかないのか、ということが、結局は「魂が響き合う」とか「お話が糧になる」ということに結びつくのだと思うんです。
 ドラマの持つ感動の原理とは、そうしたものでしょう。
 ところが、坂道を汗水たらして下っていったら、「それは上り坂でした」と言われたりすると、目が回るわけです(笑)。というか、走っている立場の人だったら「ああ良かった」じゃなくて、怒ると思うんです。
 たとえば、もし自分の伴侶(妻)が病気になって、それを助けるためにベルリンとかどこか遠くに行かなければならなくなったとします。とてつもない苦労して苦労して、異国の地にたどりついたところへ、自分が車に轢かれそうになるとか、病気とは全然関係もないし、レベルも違うクライシスが起きたとき、奥さんがぱっと現れて助けたりしたら、どうなるでしょうか。
「なんでお前がここにいるんだ!」と、それまでの苦難の道程を否定されたみたいに感じて、とりあえず怒ったりするんじゃないでしょうか。愛情の深さと、こういう矛盾に対する怒りの心のメカニズムは、まったく関係ないわけです。
 余談ですが、宮崎アニメのすごいところは、そういう原理原則に反しても、観客には気づかせずに、「良かったなあ」と感動させてしまうところですが、その話は略します。

 『ガオガイガーFINAL』の逆転劇というのは、どことなくそういう本末転倒的な雰囲気が漂っている上に、話の道筋を見えにくくしている部分が大きいと思うのです。
 これは繰り返しになりますが、まとめて観たせいかもしれません。ともかくいろんなクライシスやら設定やらが、逆転劇のあるたびに次第にダンゴになっていき、頭の中が泥沼になって来た感覚が鮮烈に残っています。
 さらに話をややこしくしているのが、続編特有とも言える「エスカレーション」です。これは名著「サルでも描けるマンガ教室」で明解に表現された例だと、最初は校内の番長と戦っていたのが、となり町の番長、となりの市の、県の……とやってるうちにエスカレートしていって、しまいには「宇宙番長」と戦わなければならなくなるという、アレのことですね。
 これは歴代の長期連載マンガでも、作者みんなが苦しんでいるものでして、『ドラゴンボール』が典型です。あれの途中でも、“強さを数値化する”道具として「スカウター」というものが登場します。そういうものを出さざるを得ないこと自体、すでに作者と編集者&読者の間で「強さのエスカレーション」が通常の描写ではまかなえなくなり、数字にしないと混乱する域に達したということを意味していました。
 それぐらいエスカレーションというのは、エンドレスにならないよう慎重にやらなければならないのですが、慎重にやり過ぎるとエスカレーションにならなくなるという困った性質を持っています。後先考えずにノリでやった方が人気稼業的には良い結果が出るというものなので、全否定できないものです。
 『ガオガイガーFINAL』も、逆転によって敵と味方の優位性が激しく入れ替わる、少年ジャンプ的な構造を取っています。それを続けている限り、エスカレーションは常に強い方向へと上昇が可能です。しかし、そのすべてを「逆転」でつないでしまうとどうなったかというと……。
 結果は、誰は誰よりどれくらい強いのか、強さの根拠はどこにあるのか、そもそも誰が何の目的でどうしようとしているのか、対立の本質はどこにあるのか(たとえば複製とはそもそも良いのか悪いのか)、そういうことがどんどんわからなくなっていったのではないでしょうか。
 それは文章表現の上で、「しかし」をひとつの段落に2回以上使うと、何が言いたいかわからなくなってしまうのと似た現象だと思います。逆転が多すぎた結果、シンプルであるべきストーリーラインがぼけて来たのかもしれません。
 最終巻が近づくにつれて、「これで本当に終わるのかなあ」と思った方は少なくないと思いますが、それは敵側が圧倒的に強いから「勝てるのかなあ」という思いもあるでしょうが、「この話はどんなゴールに向かってるのかなあ」に関して不安に思ったことも一因だったのではないでしょうか。

 個人的に特に一番困ったこととしては、敵側であるソール11遊星主が、なぜここまで悪とされているのか、絶対悪とされるほどどのような悪い「行為」をしたのか、GGGに比べて本当に強いのかどうかが、途中で全然理解できなくなってしまったことが挙げられます。
 たとえば、ソール11遊星主の攻撃方法として「勇者チームの複製を作って攻めて来た!」という展開がありますが、これが理解のつまづきの代表例でした。
 遊星主の方が明らかに強いわけですよね? だったら、遊星主の複製でいいわけです(最後には事実そうなる)。取るにたらぬ奴らだというポーズを取ってるなら、捨て駒だとしても、勇者チームを攻めに使うのはよくわからないわけです。
 でもまあ、それは置いておいて、「味方自身に復讐されるというクライシスが見せ場になるんだろうなあ」と思って取りあえずその見せ場を心待ちにして観たわけです。そうすると、「複製でも魂は勇者だ!」というオチがついて、反逆されてしまって……その期待は、受け皿がなく霧散してしまいました。
 結局、それは「洗脳が足りていなかった」ということになってしまうのですが……こういうのは“イディオット・プロット”と呼ばれて、あまりほめられたものではありません。イディオット・プロットを自分流に定義し直せば、「登場人物の間抜けな行為や落ち度によって話が転がるもの」ということになりまして、他にも「ウィルスを送り込んだら書き換えられて送り返された」という展開がありますが、そんなことも予見できなかったのかという風に、作劇上あまり良いことではないわけです。
 ここで「逆転」が多用されることで、イディオット以外にも重要な問題が発生してきます。
 それは「価値観の混乱」です。
 先の例では、洗脳を解いた複製勇者チームの自己犠牲が悲劇につながって、物語を盛り上げるものとして使われています。するとその瞬間、「複製だとしても、魂のある者は尊い」という価値観がここに発生するわけです。
 であるならば、敵の複製行為もあながち悪くはない、という疑念が生まれます。死んだパピヨンの復活の件も、これに絡んで来るのか……この「価値観のせめぎあい」がドラマの核になることを、思わず期待してしまいます。
 価値観自体が途中でシフトすること自体は悪いことではありません。新たなる価値観のステージが発生して、その上で次の段階の物語をつむげば良いわけですから。このことを認識したGGGが新たなドラマを発生させれば良いわけです。
……と思うと、この件はここで終わりで、何にもおとがめなし(笑)。「価値観のせめぎあい」は発生せずに、そういうところは「棚上げ」になってしまうわけです。
 「ウィルス逆流」にも、似たような「価値観の混乱」があると思います。相手にウィルスを送り込むのは、正しいものを変質させていびつにする行為ですから、応分に「汚い手」です。ところが、そのウィルスを自分に従うように書き換えて送り返すのは、いくら「目には目を」的反撃だとしても、汚いと言っている敵と同じレベルに落ちてしまう行為に思えて、どうにもスカッとしませんでした。
 こういった悪役的行為と、ジェネシック・ガオガイガーが悪魔的体躯をしているのと何か関係があるのかとも期待しましたが、これもはぐらかされてしまったように感じましたし……。
 何か重大な思い違いをしているのかと、何度も不安になりました。

 先に「棚上げになる」という言葉を使いましたが、この感覚も本当にあちこちにありまして、これは私が不注意だとかいう問題ではないだろう、と思う一因となっています。
 一例をあげれば、「悪い子になっちゃいなさい」ってどうなったんだろうとか……。ルネがケロっとしているので、てっきりこれから澄ました顔で破壊工作を始めるのかと思ったら、単に見逃されて解放されただけらしいと知って、腰が砕けました。これは、私の見間違いですか? それならその方が良いと思うくらいです。
 その一方で、前振りが足りていないから突然ことが起きる、という感覚もつきまといます。みんないきなり平和ボケになるとか、最初に惑星についたとき、ちょっとした予兆、前振りがあれば良さそうなことが、なされていないんです。
 ネタが多すぎて、消化に追われていたのかもしれませんが、全八巻、三時間以上ある割には唐突にことが起きてブッチンと終わることが、あまりに多すぎて、それがまとめて観たときの疲れを誘発した印象が強くあります。
 とにかくある事件が起きるには起きるのですが、事件を経たことで何らかのある結論なり価値観の変化や確認があって、その変化が次の展開に作用する……そういう有機的な結合が足りていないのだと思います。
 要は、ひと固まりになった「長編の構造」になっていないのだということです。

 それが一番良くない形で出るのが、本来は映画を最大に盛り上げるべきクライマックス「地球壊滅の危機」です。
 これも、具体的な映像としては画面に出てくるものの、肝心の凱とGGGたちがそれを知っているのかいないのか、認識しているとしたらどういう状態だと思っているのか、ほとんど描かれていなかったと思います。地球から最後の応援になるものが来るとか、そういう連携もありませんし、画面からは地球滅亡の緊迫を背負って戦う雰囲気がにじみ出ていないように思えました。
 設定上、地球の映像を送れるわけはないのですが、だとすれば、あそこで流れた地球の危機の映像は誰が観るためのものなのでしょうか。「誰」とは、「観客」でしょうか。
 物語の中には存在しない「観客」が、2つの別の空間で起きている事象を結びつけて「これはピンチだ」と認識して欲しいと、期待の目くばせをされたみたいで、ちょっと変に思いました。
 どんな手を使ってでも、物語の中に出て来る登場人物がなんとか「ピンチだ」と自ら認識する必要があると思うのです。アリガチな手として、敵側が「ふはは、貴様らの同朋が散っていくのを見るが良い」と、急になぜか親切モードになって映像見せるとか、いろいろあるじゃないですか。
 その認識の上で何らかの行動を起こすから、観客の心が震えて感情移入がなされ、フィルムの中へと飛び込んでいくことができて、そこで初めて映像にも意味が出て来るのです。こういう順番でなければならないと思うのです、「映像ありき」ではなく……。だから、あれは個々のシークエンスやギミックの持つカタルシスとしては良かったけど、長編のクライマックスとしては、不満の残るものだったと思います。

 もうひとつ、最終最後まで疑念が残ったのは、「価値観の混乱」の果てにあった「敵側の問題」です。
 凱が敵のことを「(凱とGGGを)怖れていた」と決めつける場面がありますよね。一方的に決めつけるのもどうかと思いますが、その瞬間、敵側は弱者になりガオガイガー側は強者になります。それがこの壮大な物語の出しゆく結論です。少なくとも主人公サイドの。
 であるなら、強者が弱者をぶっとばし、滅ぼしてしまう行為は「勇気」たり得るのだろうか? ということが、最大級の疑念になってきます。
 ここで問われることは決算ですから、ここまで描いて来たことの積み重ねがものを言います。
 敵を根絶してしまうからには、根絶しなければならないだけの害悪が描かれているか、譲れない一線みたいなものを踏みにじり続けた、ということが必要なわけです。あるいは、こちら側が絶対弱者であるなら、それもレジスタンスとして理にかなうことになります。
 しかし、ソール11遊星主はみんな格好つけてニヤニヤしているだけで、全然そんな大それた風には見えないんです。せめて父親の複製とかが許せない者として作動するのかと思ったら、これも格好だけで終わったみたいだし……。
 その上、出た結論が「複製テクノロジーに寄りかかって心根が弱くなってしまった人びと」ということなら、主人公サイドがそれを理解したのなら、どうして「暴力」が解決になるのでしょうか。
 そういうことが語られている映像自体も「新宿ビル破壊の激闘」でして、これも良くなかったですね。ロボットアニメ道的には観客が一番見たい映像ですが、「無人の複製だからノークレームでお願いします」という仕掛けなわけですよね。複製の誤魔化しで心根が弱いって、誰のことだろうか……なんぞと意地悪く思ったりして、かなり気合いが抜けました。せっかく好きな映像なのにね。
 逆転でひっくり返し続けて、何が良しで何がNGなのか、価値観が混乱した果てには、たぶんこういうことも起こり得ると思います。

 そもそもこれはファン・ムービーの一種でしょうから、もしかしたら作り手とファンの間には混乱しない盤石の信念、価値観があって、それを理解していないとノレない部分もあったのかもしれません。
 ですが、自分はスカッと一発、壮快な長編ロボットアニメをと思って見始めたわけです。それにしては、スカッとしようとすると「何かがズレてきて邪魔する」ことの繰り返しが多く感じられました。それが、せっかくスカッとした部分をスポイルしたみたいで、残念だということなんです。

 考えたのは、この作品でいう「ドラマ」とは、どういう部分にあったのだろうか、それが見えにくかったのはなぜか、ということです。
「ストーリー」の方は、「新たな敵が出て来て、勇気と団結でそれを排除して、地球を救いました」ということで良いと思います。ブレがあったとしても。
 結局、個々のプロットを「逆転とエスカレーション」でつないで行ったがゆえに、より大事な「ドラマ」の行方が霞んでしまったようだなあ、というのが、最終巻の余韻の中で考えたことです。
 「ドラマ」と「ストーリー」の関係については、ここのところ自分なりに考える機会があったので、理解したことを補足的に述べておきます。
 たとえば『仮面ライダー』を例に挙げましょう。
 「ストーリー」とは、こういうものです。
「改造人間を使って世界征服をたくらむショッカーという組織が現れた。青年・本郷猛はショッカーにさわられて改造されるが、脳改造の寸前に脱出した。本郷は、仮面ライダーと名乗って、改造された身体を駆使してショッカーと戦う。ついに仮面ライダーはショッカーを追いつめ、壊滅させた」
 これに対するドラマとは、どういうものになるか。
「本郷猛は将来を嘱望されたレーサーだった。だが、改造手術によって彼は通常の人間とは違う能力を得た」
→「葛藤(コンフリクト)の発生」
→「改造人間vs通常の人間」
 ここでこの対立な構図ができたことが、コンフリクトに2つの側面をもたらします。
「A:改造人間の能力は戦闘に使える(優位性)」
「B:改造人間は通常の人間と幸せに暮らすことはできない(コンプレックス)」
 このAとBを往還することが、各話のドラマになります。
 ですが、ドラマの帰結というものは、「本郷猛はショッカーとも通常の人間とも違う、正義の改造人間という新しい存在として自己を確立した」ということになるわけです。つまり、対立状況を相克した結果、前とは違った状態に到達したという「変化」が描かれた、ということが、すなわち「ドラマ」になるわけなんです。
 こういったことは、弁証法的で言うところのアウフヘーベンに結びつけられて説明されています。そうすると本郷猛のドラマは実は第1話で終わっていることになったりして(笑)、あとは果てしないルーチンになってしまうのも、ゆえあることだったわけです。
 ただ、ルーチンの果てにも、シリーズ全体の物語が終わるときには、「自分の改造された身体が必要とされない喜び」みたいなものが新たな変化の状態になり、そのドラマの帰結が観客の腑に落ちると「そう、そうだよな」と共感のカタルシスになるわけです。
 類似の作品でラストで人間に戻っちゃったりしてブーイング、みたいな事例も過去に数多くありますが、それはもちろん「ご都合主義」にも問題はあるのですが、こうした人生の鉄則たる「不可逆反応」の果てに「変化」があって、ささやかかもしれないけど、ちょっと昨日とは違う明日がある、だから生きて行こうよ、みたいな姿勢に反することだからなのでしょうね。
 結局、ドラマというのは、こういった感情の問題と変化に帰結するものなのです。逆転を前提にした対立構造がいっぱい描かれているから、コンフリクトがいっぱい発生してドラマになる、ということは決してないのですね。

 それで、そういう観点で『ガオガイガーFINAL』を回顧すると、「凱と命」の行く末と「変化」って、どういうことなのだろうという点に、やっぱり物足りなさがあります。
 個別のエピソード、キャラクターに絞れば、この作品は良いものをたくさん持っていると思います。命が昏倒したままとか、パピヨンが安易に残らないとか、護がいくら願ってもGGGは帰らない、というあたりはGOODだと感じました。
 でも、全体をざっくり見たときには、感情にひとつの流れと脈絡をもたらし、最後に「ああ、こうなるのか」と落とすドラマの構成が弱かったと思います。それよりも、逆転逆転のプロット(ストーリー運びのための展開方法)で、次はどんな手で驚かしてやろうかという方向に、明らかに精力が注ぎ込まれているように感じます。
 個々がよく出来ているがゆえに、その全体を貫くドラマの流れと帰結の不足がすごく残念だった、もったいなかったなあというのが、率直な総括的感想になります。
 もっともっと「そうか、凱と命はこう変化したのか、ルネはこうなるのか、レギュラーの面々は……」みたいな点描が全体にあってラストに収斂し、作品全部が響き合うハーモニーを形成して、「なるほどなあ、ガオガイガーで言っている“勇気”という言葉は、具体的にこういう“行為”を指すんだ、こういう“感情”を指すんだ、だからみんなこうなるんだ」という風になっていく。「そういや敵側にはこういうこと、ああいうことが欠けてるんだよな、だから倒されるのも当然なんだよなあ」と、すっと納得できるように幕を引いていく。
 そんなラストもあり得た、自分は本当はそういうものが観たかったなあ、と思いました。

   ×   ×   ×

 この作品が心より好きな人には、本当によけいなことだったかもしれません。
 ですが、あまり商業誌とかでは話をしない筋向きのことでもありますので、せめて今後の何らかのご参考になればと思います。

 かくいう私も、どこかでもう一度見返すチャンスがあれば、ころっと感想が変わってしまうかもしれないです。よくできているかどうかで言えば、よくできていると思いますし、好みで言えば好きな作品です。
 作画的なゴージャス感、根性の入れ方は間違っていないだろうし、燃えるものはもちろんあるんです。三段空母がロボットになるとか、そういう描写には私も喜んだりする世代ですしね。
 逆に、感動された方々がどういうところに注目されたのか、それは自分の楽しみの幅を拡げる上でも聞いてみたいので、「こう観れば良かったんだ」と、目からウロコが落ちる経験を期して、この本のできあがりを楽しみにしています。

<近況欄>

氷川竜介/アニメ・特撮文筆業者。貧乏暇なしの生活が続く中、『ガオガイガーFINAL』はストレス解消になりました。ただ、同時にいろんなことを考えこんで抱え込んでしまったのも事実で。もうちょっと素直に楽しめるよう、心根をチューンしたいと思います。今回の文章は、これはこれで何かのお役に立てば幸いです。

【初出:「勇者王ガオガイガー」同人誌用原稿 脱稿:2003.07.15】
※以下に紹介するのは、TV放送用に再編集された別バージョンなので、内容が異なります。

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» ガオガイガーは黒く塗れ [いつのころから新発売2]
本稿は評論家氷川竜介氏のブログからつぎに引用する文章に触発されたて書きました。ありがとうございます。 敵を根絶してしまうからには、根絶しなければならないだけの害悪が描かれているか、譲れない一線みたいなものを踏みにじり続けた、ということが必要なわけです。あるいは、こちら側が絶対弱者であるなら、それもレジスタンスとして理にかなうことになります。 しかし、ソール11遊星主はみんな格好つけてニヤニヤしているだけで、全然そんな大それた風には見えないんです。せめて父親の複製とかが許せない者として作動するのか... [続きを読む]

受信: 2006年12月22日 (金) 14時36分

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