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◆総記
アフ【ガ】ーンFAQ目次


 【質問】
 カブールとカーブル,どちらが正解?

 【回答】
 前田耕作によれば,どちらも正解.

 「カーブル」と語頭を伸ばす人もあれば,「カブール」と呼ぶ人もいる.

 なお,バーミヤンは古くはバーミヤーンと呼ぶのが正しいが,アフガニスタンの人々は,今は誰も「ヤーン」と語尾を伸ばしては呼ばない.

(「アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン」,晶文社,2002/1/20, p.252,抜粋要約)

 ただし,嶋岡尚子著「旅の指差し会話帳 アフガニスタン」(情報センター出版局,2003/3/12)では,
「カーブル」
とされている.

▼ 大野正雄は複数の文献を参照した上で,
「フィールドワークした人たちの表記ではカーブル=C外務省用語では"カブール"表記だが,実際には正誤はない」
と結論している.
 以下引用.

――――――
「カブールは本当はカーブルと呼ぶのである」
 これは1941年に刊行された守屋和郎著の「アフガニスタン」の首都カブール≠フ書き出しである.
 守屋氏はそう言いながら本文中はカブール≠ニ表記せざるを得なかった.
 そうさせる立場であったのだ.
 彼は第2次大戦前の在アフガニスタン全権公使であったのである.

 一度カーブルを訪れたものは,カブールと言えなくなる.
 聞こえてくるのはカーブルだからである.
 つまり,アクセントが違うのである.
 カーブルでないと通じないのだ.
 手許の大野盛雄著「アフガニスタンの農村から」(岩波新書)と津田元一郎著「アフガニスタンとイラン」(アジア経済研究所)を見た.
 いずれもカーブルであった.

 ところが,日本の官公庁がらみのモノはカブールとなっている.
 外務省監修の「海外安全ハンドブック」は,当然ながらカブールであった.
 守屋氏の苦渋の一文を思い出す.
 官に右へならいして,学校の教科書,地図帳はカブールである.
 今も変わらないようだ.
 「世界大百科事典」(平凡社),現代用語事典の「イミダス」「知恵蔵」,そして中東調査会の中東・北アフリカ年鑑を調べてみた.
 カブールなのである.
 これは意外であった.

 確認のため,書棚にあるアフガニスタンに関係ありそうな本を開いてみた.
 岩村忍「アフガニスタン紀行」(朝日文庫),長澤和俊「シルクロード」(講談社文庫),梅棹忠夫「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫),松田寿男「砂漠の文化」(岩波書店),西川浩治「仏教文化の原郷をさぐる」(NHKブックス),本田實信「イスラム世界の発展」(講談社),これらはカーブルと表記している.
 予想通りであった.
 いずれもアフガニスタンをフィールドワークした著名な学者達である.

 もともと外国の地名を現地の文字と現地のアクセントで表記するのは困難なわけで,正誤ではなく,どちらでもいいような問題ではある.

――――――大野正雄著『アジア・ハイウエー見聞録』(さきたま出版会,2006.9.15),p.113-114

 本サイトでは,引用などの場合を除き,発音は『会話帳』に準じる.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける情報収集の難しさは何か?

 【回答】
 ノンフィクション・ライター野村進によれば,
「情報の確認を2つかそれ以上のニュース・ソースからすることを,私達の世界では「裏取り」という.
 だが,日本的常識では裏取りができたとしても,アフガンでは情報の正しさが証明されない場合が少なくない」
という.
 彼は根拠として,次のようなことを挙げている.

「後日,釈放された〔柳田〕大元に話を聞き,その理由の一端が分かった.
 アフガン国内では日常的に嘘が飛び買っているというのである.
 例えば,お互いをあまりよく知らないアフガン人同士が道ですれ違ったとき,
『どこに行く?』
と聞かれたほうが,
『カブールに行く』
と答えたら,それはカブールにだけは行かないという意味なのだそうだ.
 つまり,敵か味方か分からぬ人間に,自分の所在地を明らかにすることは,生命の危機を招きかねないいという判断からの嘘なのである.
 ベトナム戦争当時,ベトナム人もよく「嘘吐き」呼ばわりされたものだが,アフガンでのこうした嘘も,生き延びるための,言わば「戦場に知恵」なのであろう.
 とするなら,多民族が交錯するアフガン人のストリンガー(特約記者,ただしほぼ全員が素人)達が聞きかじってくる情報は,かなり疑わしい.
 こう判断した私が頼れるのは最早,パキスタン国内のパシュトゥン人ネットワークしかなかった」

(from 月刊「現代」 '02年1月号)

 ただし,柳田自身,アフ【ガ】ーン滞在経験が短いので,アフ【ガ】ーンの風土に関し,その言葉をどこまで信頼できるかの問題は残る.


 【質問】
 アフ【ガ】ーン人の気質は?

 【回答】
 感情のコントロールができにくいという.
 以下,パシュトゥニスタンでの事例.

 精神鑑定に用いるロールシャッハ・テストは,集団パースナリティー〔原文まま〕――ある集団の成員に共通なパースナリティー――の検出にも役立つというので,わたくしは前からこのテストを用いているが,今度もこれを,ナギールのポーターおよびクリーに対して試みてみた.
 〔略〕
 テストの結果は目下整理中であるけれども,一つだけここではっきりと言えることがある.
 それは,彼らのパースナリティーに,感情のコントロールができにくいという共通した一面のあることを,テストを通して確かめ得たことであって,この点では,度重なる反乱を始め,その多の行動から我々が直に得た帰結と,寸分たがわぬ一致が見出されているのである.

(木原均編「砂漠と氷河の探険」,朝日新聞社,1956/3/10,P.145)

 ただし,ロールシャッハ・テスト自体の信頼性に疑問が持たれている面もあるため,上記記述は何の根拠もない言いがかりになっている可能性もある.
「『心理テスト』はウソでした.受けたみんなが馬鹿を見た」
または簡便には
「嘘つきなロールシャッハテスト」
を参照されたし.

 ただ,アフ【ガ】ーン人の激情性は,松浪健四郎の著作等,他の文献でもしばしば言及されているものではある.


 【質問】
 ノマドの徴兵問題とは?

 【回答】
 ノマドとはアラビアで言うところの「ベドウィン」である.
 彼らは徴兵に応じないのだという.
 ソースが古いが,以下に引用する.

 アフガニスタンでは彼らの壯丁の中から徴兵せんとしたが應じないとの話を聞いた.兵營の中で住むのが嫌なのである.戸外で寢起きするのでなければ健康も衰へるのだと,或る書物に書いてあつた.
 然しノマドでも故國は忘れない.使用する語はアフガン語で,一旦緩急あれば銃を取つて國土の防衞に馳せ參じる.
 慓悍を以て鳴るスレイマン・ヘル族はカンダハルの東方のスレイマン山付近に住む全族ノマドたるパタン族なのである.

(守屋和郎=元アフ【ガ】ーニスタン駐在武官?,「アフガニスタン」,
岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87),p.182)


 【質問】
 アフ【ガ】ーン遊牧民の生活はどんなものなのか?

 【回答】
 絶えず警戒しながら,大集団で移動する.
 教育水準は低く,不衛生になりがち.
 時の権力者はしばしば,彼らを武装させて不穏勢力・反乱勢力に対する圧力として利用している.

 以下引用.

 遊牧民達は長年に渡り,人間と自然の気まぐれをうまく切り抜けてきた.
 19世紀にイギリスの調査官が報告したところによると,土地を所有している諸部族との確執があるため,クチ(その名は移動する≠ニいう意味を持つ)は,1万人もの大きな群れをなして移動しなければ成らなかったという.
 ある調査官はこう書いている.
「彼らは,軍隊が敵国を通るときのように用心深く進んでいく.
 規則正しく行進し,前と後ろには,防御し易い位置に護衛がつき,見張り番がキャンプの見回りをしている」★1

 ボウィンダーとしても知られる,パシュトゥー語を話す遊牧民は,アフガニスタンの王達に奨励され,嫌われているシーア派のハザラ人に圧力をかける手段として,中央部の高原地帯に広がっていった.

 しかし,旧ソビエトの占領下では,古くからの移動ルートのあちこちに地雷が埋め込まれていたため,遊牧民達は冬の間の居住地に留まらなければならず,資源のことで頭を悩ませ,さらに定住民との間に緊張を生じながら,夏になっても彼らと一緒にいなければならなかった.

 ロシア人が引き上げた後も,ムジャーヒディーンの派閥闘争が続き,前線を越えることは危険であるため,毎年のハザラジャートへの移動を断念する人々が続出した.★2

 そして,タリバン勢力が台頭すると,タリバン兵は,厳しい制約を受けず顔も隠していない遊牧民の女達に,無理矢理チャードリーを着せようとした.★3
 しかしまもなく,同じようにパシュトゥー語を話し,土地を求める気持ちの強い遊牧民達の有用性に気付いたタリバンは,実際にクチ族を中央高地のバーミヤンに送り込み,彼らに武器を与えて,そこに住むハザラ人を撃退させた.

〔略〕

「クチはクチなんですよ.
 ロマは,自分は何持っているとか,持っていないとか,そういう事あまり考えない.
 ミルクも,ギーも,ウールも,何でも羊から貰います.
 どこにいい草があるか,天気はどうか,みんな良く知っています.何でも知っていますよ.それが仕事だから知っているんです.
 土地のオーナーと喧嘩になることもあります.
 草を食べるんだったら,オーナーは構わないけど,麦を食べちゃったら,困りますよ.だから,少し喧嘩になります」
 〔略〕
「クチの生活は,とっても汚いよ」 そう言って,〔祖父の代までクチだった〕ハビブは顔を顰めた.「身体じゅう汚れているし,服も汚い.絶対に洗えない.みんあ,くさーいよ.
 部族は勉強しないから,羊のことしか知らない.山,山,山ばっかり.
 水はいつも,ずーっと遠いところにある.
 昔は,世界中の人,みんな部族だったけど,今はみんな教育受けて,パンジャーブ人の生活は,現代的になってきている.
 一生クチみたいな生活しなくてもよくなった」
 ★1 Major Henry George Raverty, Notes on Afghanistan and Baluchistan (1878), Abid Bokhari, Quetta, 1976, p.496
 ★2 United nations Food and Agricultural Organization, Activities of Kuchi Survey Team, Working Paper No.1/99, June 1999, p.5
 ★3 'Afghan Woman Appeals to Taliban to Ease Strictures' by Michel Battye, Reuters, 22 October 1996
 私は,どうすれば遊牧民が再び自力で生きていけるようになるかを知りたかった.
 すると,〔カンダハールの町外れの遊牧民用の難民キャンプで,〕いつのまにか野外会議(ジルガ)が始まり,何人もの男達が首を揃えて,この問題が詳細に検討された.
 激しい議論の末,一家族を支えるためには,百頭の健康な脂尾羊が必要だという結論に達した.
 羊は2歳以上でなければならず,一つの群れ当たり5万カルダール,およそ3千ドルするという.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.410-411, 419 & 442


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにも出回っている密造銃は,どの程度の出来なのか?

 【回答】
 精度はかなり高いようだが,耐久性に問題がある模様.
 以下引用.

 プシュト族(パシュトゥン)は射撃の名手と言われているが,彼らの鉄砲は皆,自家製である.現に,コーハット〔トライバル・エリアの〕の近くの,ある部族で,わたくしたちは鉄砲を作っているプシュトの鍛冶屋と,それを売るバザールを見た.
 この自家製鉄砲の出来はなかなか見事で,外見はイギリス製,アメリカ製と違わない.標準精度も相当良いそうである.
 ただ地金が悪いので,数百発の発射で駄目になるということである.
 銃丸,火薬の類も,もちろん自家製である.

(木原均編「砂漠と氷河の探険」,朝日新聞社,1956/3/10,P.84)

ダッラの鉄砲鍛冶


 【質問】
 パシュトゥン人は死を恐れない,というのは本当か?

 【回答】
 マスコミの作り上げた虚像であり,死を恐れる普通の人々だ,とする見方もある.
 以下引用.

 パターン人〔パシュトゥン人〕は勇敢だと言われる.
 たしかに彼らは臆病ではない.
 そのうえ,ムジャヒディンには
「侵略者を追い出し,イスラム教国を作る」
という「大義」がある.
 聖戦で戦死すれば,「シャヒード」という名誉の称号が贈られ顕彰される.
 だが,彼らは本当に死を恐れていないのだろうか.

 〔略〕
 30過ぎの男だったが,
「あなたもシャヒードになりたいか」
と冗談半分に聞いてみる.
 彼は私の目をさぐるように見つめながら,
「とんでもない」と言った.「家族のためにもまだまだ生きていたい」
 この基地でも,質問したほぼ半数から同じような答が返ってきた.
 独断的な私の結論を言わせてもらえば,パターン(アフガニスタン)のゲリラも,死を恐れる普通の人達である.
 「命知らずのゲリラ」だと世界に喧伝されているが,これはマスコミの作り上げた虚像である.
 彼らは死を恐れながら戦場に赴いていく.身のすくむような恐怖感の中で,圧倒的優勢なソビエト軍と対峙する.
 しかし,彼らはあくまで戦い続ける.そこに,救いようのない悲劇がある.

園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.265

 また,19世紀の英国人は,以下のように評している.

[quote]

「アフガニスタン人は生まれつき勇気があり,丘陵地帯の戦闘では,ゲリラ戦の形態をとっている限り,これに勝るものはない.
 しかし,自分のアイデンティティを抑え組織の一員になってしまうと,完全に自信を無くしてしまう.
 自分たちの民族の長が指揮をとっていて,友人たちと共に戦うのであれば,かたくなに守り抜くような土地でさえも,軍隊に属していると逃げ出してしまうのだ」
―――エドワード・ヘンズマン,1882年

[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.143

 なお,

 アフガニスタン人は,ちょっとした軽傷でもヒステリックに大騒ぎする.
 そのくせ,重傷を負った時は,難行苦行でもするように,一言も弱音を上げずに我慢する.

Karla Schefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」
(主婦と生活社,2002/9/17),p.94

という特性もあるとか.


 【質問】
 バダル(復讐)の掟には制限はないのか?

 【回答】
 ある.
 「間違ったことが正されるまで」という制限付き.

 〔略〕
 しかしこの地方に独特なこの争いにも限度はあった.
 争いの目的は間違ったことを正すためで,略奪したり相手を奴隷にすることではなかった.
 またパターン族〔パシュトゥン族〕の女性は昔から明るい色の服を着ているので,狙撃兵が彼らを狙うことはなかった.
 プシュトゥワリは平和的な生活を前提にしているのであって,服従生活を強いるためにあるのではない.
 人類学者ルイス・ドゥプリーは,
「厳格な掟,困難な生活を余儀なくされたタフな男達の厳しい掟」
と述べている.
 〔略〕

デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.17

 もっとも,何が正しいのかについて,各人で食い違いがあれば,延々と報復合戦が続くだろう.
 事実,復讐を恐れて一家で山奥に逃れる例もあるという.
 以下引用.

〔略〕
 ときとして,〔カラコルム山中の〕そうした険しい崖の途中に這いつくばるようにして建っている小さい粗末な民家が見えることがある.
 切り石を積んで外壁にしたり泥壁だったりする.
 3,4軒かたまっているところもあり,まるっきりの一軒家もある.
 近くにはむろん,店も畑も水場もない.

 何故,わざわざこのような不便きわまる山奥にぽつんと離れて住んでいるのか?
 サミイ氏の話によると,それらの民家には,それまで住んでいた土地で住めなくなり,遥々山の中へ移ってきた人たちが生活しているのだという.
 たとえばトラブルを起こし,相手を殺してしまった男がその被害者の家族からの血の復讐を恐れるあまり,一族郎党を引き連れて,人目につかないこうした山奥に移り住んでいるのだという.

 ここまで逃げこんで来ても不安は去らず,家長の男は一日中,銃を抱えて見張りをしている.
 働くのは女たちで,ときには子供も交えて高い山の上の畑へと作物を取りに行ったり,深い谷間へ水を汲みに降りていく.
 こうした生活が何十年も,ときには一生続くのだという.

 それほど用心深く暮らしていても,執拗に追って来た復讐鬼の手によって一家全員が撃ち殺される事件がたまにあるという.
 この付近はタマネギ一個のことでもメンツを潰されたとなればたちまち血の抗争事件が発生しかねないという土地柄.
 殺し合いが起こってもあまり報道されず,トライバルゾーンのため軍隊や警察も手を出せないのだという.

加藤久晴著『戦場のシルクロードを行く』(日本テレビ,1984.3),p.70-71

 日本の「サンカ」伝説を地で行く話である.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンの水の水質は?

 【回答】
 コバルトおよび石灰質が多いという.
 以下引用.

 アフガニスタンで生活したときは,大きな茶瓶を購入して,それに水道の水を入れて湯を沸かした.殺菌である.
 水道水には特有のコバルト成分が多く含有されていて,風呂に水を溜めただけでも水は青色になった.しかも石灰質が多いのか,茶瓶の中に石灰がこびりつくのには驚くしかなかった.
 湯を冷まして,それで料理したり飲んだりしたのである.

2004/6/12

(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.159)


 【質問】
 コームチョルッグとは?

 【回答】
 皮製の靴,というか皮そのもの.
 防寒性はあるが,雨や雪では滑り易くなるという.

 以下引用.

 起伏の激しい山道を歩くには,丈夫なはきものが必要だった.
 ぼくがはいているコームチョルッグは,紐を外すと,とたんに平べったい1枚の皮になってしまう.
 そのままにしておくと固くなって足が包めなくなる.
 一度ぬいだら,かならず水に漬けておかなければならなかった.
 手入れは大変だが,コームチョルッグはとても丈夫で,しかも軽くて歩きやすい.
 防寒にはもってこいのはきものだが,雨や雪のときは滑り易い難点があった.

フルグラ・コフィ著『アフガニスタンの星を見上げて』(小学館,1989/9/1),p.84

 ムジャヒッディーンはサンダルを履いているという情報もあったが,はて…….


◆◆国境問題

 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにとっての主な国境問題は?

 【回答】
 守屋和郎はアフ【ガ】ーン人の心理の面から考察して,次の3つを挙げている.
 以下引用.

然しアフガニスタンの人々の心理を割つて見れば,最も殘念に思つてる失地は,第1にカシミルからバルチスタン及びシンドに至るパタン族居住地帶,即ちヤギスタンである.
 第2にパミールのジクナン,ローシヤン及デルワズである.
 第3にパンジティである.
 之れ以外の領域に就ては深き怨を持つて居ないかの樣にも見えるのである.
 斯く言ふ理由は上記の領域に就てのみ,アフガニスタンの官民の注意が失地回復の企圖を成した跡が歴然と記録に殘つて居るからである.
 現在のソ聯邦トルキスタンに於ても,ダヂック族,ウズベック族及トルコマン族とが人爲的國境に依り二分されて居るに拘らず,アフガニスタンに在る同族の失地回復の慾求は,南方のパタン族の如く熾烈とは見えないのである.

(,「アフガニスタン」,岡倉書房,1941/11/15,
\1.70(外地1.87),p.233-234)

 国境の変更はそれ以後ないので,失地回復の欲求も変化ないだろう.


 【質問】
 デュアランド・ライン無効説はどういう理由によるものか?

 【回答】
 協定の性格の定義付けに起因する.
 英国との協定を結んだ当事者が誰なのかを巡り,パキスタンとアフガニスタンとの間で揉めている.解釈次第で協定は無効にも有効にもなるからである.

 以下引用.

 1893年11月12日に,アブドゥルラフマンと英領インド政府のデュアランド大佐との間で締結されたデュアランド・ライン国境画定合意は,現代のパキスタン・アフガニスタン関係にまで影を落としている重要な意味を持つ協定である.
 この協定がアブドゥルラフマンと英国との間の協定なのか,アフガニスタンと英国との間の協定なのか,英国の一方的圧力によるものであったのか,などの問題が残り,その後,アフガニスタン側からこの協定の性格に対する疑問が提起された.
 パキスタン側の研究の多くは当然ながらデュアランド・ラインの合法性を主張するものとなっており,パキスタンとアフガニスタンの国境問題は解決済みとする主張を行っている.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.108


 【質問】
 デュランド・ラインで確定された国境線は,アフガニスタン・パキスタン間のものだけか?

 【回答】
 それ以外にも,
・オクサス(アムダリヤ)川の国境画定
・ワハーン回廊のアフ【ガ】ーニスタンへの帰属
が含まれている.
 デュランド・ラインはパシュトゥニスタン問題を生み出すもとになり,その問題は現在も尾を引いている.

 以下引用.

 デュアランドのアフガニスタン側との交渉過程に関する記録,つまりデュアランドが英領インド外務省に提出した文書によると,これは単にアフガニスタンの南東部のパシュトゥーン民族の分断にとどまらない広範な国境画定交渉であったことが分かる.

 当時アフガニスタンの国境問題は英露間で深刻な問題となっており,ロシア側は1872〜73年の間の両国間の協定に含まれていたオクサス(アムダリヤ)川以北の領土をアフガニスタンが放棄する条項の厳格な実施を執拗に要求していた(Yumas 2003: 47).
 そのため第1に,英国はまず北部のロシア領との国境画定をオクサス川に置くことを強く主張する事になった.
 これはオクサスの右岸がアフガニスタンの北の国境であると同時に,ロシアの勢力圏の南端であることをロシアに確認させる意味を持っていたからである.
 英領インド・アフガニスタン国境画定問題は英露両国間でリンクしてとらえられていたと見られる.

 第2に,アフガニスタンと英領インドの国境画定は,国境周辺のパシュトゥーン系諸民族にどう対処するかという問題と深く関わっていたことである.
 今日オサマ・ビンラーディンが隠れていると言われるこの地域(FATA: 連邦直轄部族地域)は統制不能という意味で英領インド植民地政府にとっても悩みの一つであった.

 第3に,東部ワハン回廊をアフガニスタンに統治させようとしたことである.
 アブドゥルラフマンはワハン回廊をアフガニスタン領として保持する熱意を持っておらず,むしろ撤退の意図さえ表明していたのをあえて説得したものである(Yunas 2003: 45).
 英国はロシア・中国の合意のもとでワハン回廊をアフガニスタンを通じて英国の影響圏に置くことに関心を有していたのである.
 これはアフガニスタンの国境をロシアの意向も考慮に入れて画定しようとする英国側の全体のデザインに沿ったものであった.

 第1の北部国境に関しては,1872〜73年の上記の英露間の協定に沿って,英国の課題はアフガニスタンに対してオクサス川北岸のローシャンとシグナンからの撤退に合意させることであった.
 その見返りとして,ブハラ領となっているダルワーズ地区をアフガニスタンに帰属させることになっていた.
 つまり,オクサス川以北を放棄させる事により,アフガニスタンの北部国境の安定を目指したのである.

 第2の結果は,パシュトゥーン民族がアフガニスタンと英領インドに分断されたことである.
 現在パキスタンの北西辺境州は1747年当時アフガニスタンの領域であったが,英国の前進政策の対象として縮小傾向が続いた.
 19世紀半ばの英スィク戦争の結果,アフガニスタン支配下に置かれていたペシャーワルと現北西辺境州は英領インドの直接支配下に移されることになった.
 デュアランド・ラインによってパシュトゥーン民族のアフガニスタンと英領インドへの分断が固定化されたことは,周知の通りその後,パシュトゥーン問題を生み出した.
 つまり,英領インド,さらに後継国家であるパキスタンとアフガニスタン国家との間の国境に関する係争問題である.
 アブドゥルラフマンは英国の圧力でこの合意を飲まざるを得なかったが,この協定は英国への不信感を強化されるものであった.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.108-109

 アフガニスタン南東側が1893年のデュアランド・ラインによって確定されると,カーブル政権は北の非パシュトゥーン地域の拡大・編入に一層力を入れた.
 それはパシュトゥーン人の入植を促進させ,アムダリヤまでをアフガニスタン内部に強引に組みこむプロセスでもあった.
 その結果,アフガニスタンはパシュトゥーン人の支配下での非パシュトゥーンのタジク,ウズベクなどの多民族と混住する国家としての性格を一層強めることになった.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.109


◆◆国力

 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンの貿易品目は?

 【回答】
 現在では,中東調査会のHPを見ても,外務省のHPを見ても「不明」としか書かれていない.

 報道によれば,レーズン輸出が復活しているという.
カンダハルのレーズン工場(AP)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A31892-2003Jan9.html
という記事によれば,かつては輸出産業だったアフガニスタンの干しぶどう製造が復活している.

 タリバン時代には女性の就労が(一部を除き)禁じられていたわけですが,この工場で働くのは65名の女性従業員で,レーズンの洗浄・選別・パックなどをしています.
 多くは戦争未亡人で,その収入で家族を支えている人が多いとのこと(賃金は1日1.7ドル.なお去年,瓦
礫撤去をする作業員が1日1ドルと報道されていました).

 アフガニスタンのレーズンは70年代には7万トンを輸出していたそうですが,内戦期以後は生産が減少し,トルコやイランなど他の生産国が伸びていました.
 この工場ですでにチェコに100トンを輸出し,現在は英国からの数十トンの注文にかかっているとのこと.

(HN"533" in 軍事板)

 1960年代のデータでは,以下の通り.

 輸入16億アフガニ(ざっと130億円)の内,ソビエトの5億8千アフガニがトップで,トラック,建築資材,鉄製品が目立つし,輸出では,15億アフガニ(120億円)の内,トップがインドの4億4千,ソビエト4億,米3億2千アフガニという順になる.
 カラクル皮など皮製品が3分の1,果実類が3分の1,羊毛・綿花類が3分の1というのがアフガン輸出の大雑把な特徴なのだが,果実はインド,パキスタンに売れ,流行に左右され易いカラクル(アストラカン)のお得意先が米,最も手堅い羊毛,綿花の需要がソビエトという色分けができるのだ.

(平野一郎=イラン・アフ【ガ】ーニスタン・パキスタン特派員「シルク・ロードを行く」,
朋文堂,1960/8/30, P.276-277)

 ちなみに,1930年代では以下のような貿易が行なわれている.

 最後にアフガニスタンの貿易の振興であるが,貿易の振興だけは,アブドル・ラハマン王は考へ付かず,税を多く掛け過ぎたとの説が,在る本に載つて居た.
 然しアマヌラ王以來合理的な關税が定められて,今は申分ない貿易の振興策を執つて居る.

 アフガニスタン政府は獨逸,ソ聯邦,伊太利等との間にはバーター・システムに依る貿易協定を締結して居る.
 印度との間には是等の協定はないけれども,此の國との輸出入貿易は第1位になつて居る.

 アフガニスタンの輸出入貿易を一覽するに,獨逸からは主に武器,染料,藥劑品,鐵,機械等を輸入してをり,伊太利からは武器の一部,高級綿製品,人絹製品及毛織物類等を輸入して居り,ソ聯邦からは石油,セメント,鐵材,綿布,砂糖等を輸入して居る.
 英國及印度からは石油,セメント,鐵材,高級綿製品其他雜貨を輸入して居る.

 アフガニスタンの輸出は印度に對してはカーペット,乾果物,青果,皮革類,印度を通じて英國へは,カラクル,駱駝毛及羊毛を,獨逸其他の國への輸出は前記のカラクル,カーペット,棉花,乾果物,少量の阿片,棉花〔原文マヽ〕,ラピス・ラズリー(璢璃石)等の寶石,皮革,駱駝毛及羊毛を主たるものとする.
 アフガニスタンが輸出を増加しようとして増産を目指して居る品目は,此の中カラクルと棉花である.
 棉花は年額2萬tの内2千トンを國内消費する他は,獨逸,ソ連,伊太利及印度に輸出して居る.

 日本との間に於ける貿易は未だ直接貿易の状態には立到つて居ない.概ね印度人を仲介として行はれて居るのである.
 日本からアフガニスタンに行くものは,8割迄白い木綿である.
 其の額は正確な統計はないけれども,過去2,3年の平均は5,6百萬留比〔ルピー〕程度であつて,不幸にしてアフガン國産品にして日本の需要するものがないので,日ア貿易は片貿易の状態に在る.
 而して綿布は日本からばかりでなく,露西亞からも澤山入つて居る.印度からも入つて居る.
 ゆえに日本白木綿のアフガニスタンに輸入せられる額は,アフガン需要額の約25乃至30%である.
 アフガニスタン政府は,能う限り個人求償主義及バーター制で貿易協定を結ばうとしているから,片貿易の現状に於ける日ア貿易の調整は頗る困難であり,前途必らずしも樂觀を許さない.
 ア國綿布工場の竣工は,又必然的に日本品の輸入に影響するだらう.日本綿布は,印度がアフガニスタンより多く輸入し同國へ少く輸出してる關係に便乘し,あたかも印度品の如くに印度人によりアフガニスタンに賣られて居るのである.

(守屋和郎=元アフ【ガ】ーニスタン駐在武官?,「アフガニスタン」,
岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87),p.127-128)

 その他,ラピス・ラズリという特産品も存在する.

 〔略〕アフガニスタンにも有名な貴石≠ェ産出される.「ラピス・ラズリ」だ.
 これも,幸福をもたらせてくれる石として,つとに有名である.
 「トルコ石」「ラピス・ラズリ」共に歴史的な石で,古代エジプト,メソポタミア,古代インド,古代中国の遺跡に,想像できぬくらい用いられた.古代ローマはもちろん,古代ギリシャでも珍重され,いかにして流通したのか驚かされよう.
 〔略〕
 ラピス・ラズリの産地は,アフガニスタンとロシア,天山山脈だけだが,アフガニスタン産が全てにおいて勝る.
 ラピス・ラズリは濃い「水色」というより,濃紺.「ラピス」はラテン語で「石」を意味し,「ラズリ」はペルシャ語で「空」とか「天」を言う.
 古代産地はアフガニスタンだけで,首都カブールでは今も専門店が軒を連ねる.

2004/5/9

(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.152-153)



 【質問】
 パンジシール渓谷のエメラルド鉱山はいつ発見されたのか?

 【回答】
 1974年だという.
 以下引用.

 〔故マスード将軍の義弟ラシッド・〕モハマディの話によると,28年ほど前に1人の羊飼いが鉱山を発見して一産業を興した.
 アフガン産エメラルドの高級品は今日,1カラット(200ミリグラム)が2000ドル以上する.
 より下級のは1カラット500ドルぐらいで売れる.
「羊飼いは緑の石を見つけて村に持ち帰り,友人に見せました.噂が広まり,1年後には彼らは採掘事業を始めました」
とモハマディは説明した.
「[アフガン大統領だったモハマド・]ダウド・ハーン政権下[1973-78]には,鉱山省が設立されてこの事業を監督しました.
 しかしこの政権が倒れたのち,鉱山はいろいろな人の手に渡りました.
 ソ連による征服とジハードの時代には,ムジャヒディンが鉱山を支配していました」
と彼は述べた.

タニヤ・グースージアン「アフガニスタンのエメラルド」
from 自由ヨーロッパ放送 2002年11月28日

(翻訳: HN"533" in 軍事板)


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンのエメラルド鉱山は現在どうなっているのか?

 【回答】
 現在も採掘は続けられているようだが,
・エメラルドの公的規制機関がないこと
・鉱山のもつ潜在的採掘可能性を予測する設備がない
・鉱山は宝石を切り出すための先進的技術がない
という点で問題があるという.
 以下引用.

パンジシール渓谷のエメラルドの話

 外国の地質学者や投資家たちが,北部アフガニスタンの豊かな天然資源を再び見ようと,少しずつパンジシール渓谷に入って行くようになった.
 この地域を訪れた人々は採掘の潜在的可能性に深い印象を受けるが,23年間の戦争はこの国の宝石資源をほぼ手つかずの低開発状態においたままにしている.

 〔略〕

 〔故マスード将軍の義弟ラシッド・〕モハマディはロシアのビジネスマンであるアレクス・ロガチンスキーとその仲間を5月にパンジシールに招いた.これはロガチンスキーの最初のアフガニスタン旅行で,その唯一の目的はアフガンのエメラルドの潜在的可能性を調べることだった.
 ボザラクの村に散らばる田舎屋敷の一つで,アフガン流に絨毯を敷いた部屋で豪華な夕食を満喫したあと,主人と未来の投資家は薄暗い明かりのついた客間に入り,そこの小さなテーブルのまわりに肩を寄せ合って座った.
 数個のガラスのボールにはダークグリーンの結晶した石の塊が縁までいっぱいに入っていた.
 ロシア人たちは拡大鏡を取り出して,朝食のシリアルのように彼らの前に置かれたこの貴重な緑の石をもっと精密に調べた.
 宝石は原石で,カットされていなかった.訓練された彼らの眼は石の非常に深くまで入っているかもしれない亀裂を探した.
 ロガチンスキーはこのエメラルドは非常に高い品質であることを認めたが,いくつかの問題を起こすかもしれない取引の一側面を見て取った.
「最大の問題は,アフガニスタンにはエメラルドの公的規制機関がないことです.価格を決定する委員会もコンソーシアムもありません.政府は取引をコントロールしていません.数家族が運営しているのです」
と彼は述べた.
 モハマディはこの批判を退けた.エメラルドの価格は石の価値で決まる,と彼は強調した.
「キロあたりいくらで売っているわけじゃない」
と彼は警句を吐いた.

 〔略〕

 モハマド・カシム・ファヒム国防相の下にあるアフガン国防省が,現在は鉱山をコントロールしているが,鉱山は宝石を切り出すための先進的技術がないことに苦しんでいる.
「地表近くに非常にたくさんのエメラルドがあります.…これは山の地下深くに眠っている富を示すインジケーターです」
 モハマディは説明した.「われわれは採鉱のために開発されたものではない鑽孔機を使っていますし,ダイナマイトも使います.ときどき,でたらめな爆発で宝石が損傷したり失われたりすることがあります.
 われわれには爆発物を仕掛ける前にエメラルドのようすをチェックするための新しい機械やレーザー,X線が必要です」
と彼は言った.
 モハマディは西側の服装をパリッと着こなし,このビジネスを「カジノ」にたとえる.
「何年もかけて10万ドルを費やしても,何も得られないかもしれません.
 しかし別の時には,ただ1度で何百万ドルも作れます.
 私たちは,自分の鉱山のもつ潜在的採掘可能性を予測する設備を持っていません」

 800名から1200名のアフガン人労働者が採掘場で働いている.
 これらの労働者の年齢は12歳から65歳にわたり,閉所のトンネルの末端で金属の棒や鉄槌,かなてこ,シャベルを使い,またダイナマイトで破砕された粗石をより分ける辛い作業に従事している.
 彼らは週5日山麓に泊まり込んで働いているが,それは鉱山への道が毎日通うにはあまりに遠いからである.一番近い村にも徒歩で2時間かかる.

 労働者も彼らが掘り出した宝石の小さなかけらを貰っているが,道具類を支給し経費を支払っている実業家はかなり大きな宝石を得ている.
 パンジシール渓谷でエメラルドの取引に携わっているのは30家族ほどで,その大部分は北東部で支配的なタジク人の部族に属している.

 パンジシール渓谷のエメラルド採掘に対する課税は,ソ連占領期からマスードの資金源になっていたが,近年には彼は採掘や宝石の販売に対する統制を強化していた.
 彼が作ったシステムは去年(※2001年)の9月に彼が暗殺されてからも存続している.
 今は誰が取引をコントロールしているのかと聞かれて,モハマディは冗談まじりに答えた.
「誰かだ!」

 タニヤ・グースージアンはアフガニスタンが専門のジャーナリストである.

タニヤ・グースージアン「アフガニスタンのエメラルド」
from 自由ヨーロッパ放送 2002年11月28日

(翻訳: HN"533" in 軍事板)


 【質問】
 ロガール州の銅山の現状は?

 【回答】
 ロシアの推計では埋蔵量世界最大だと言うが,疑問の声もある.
 政治的安定,インフラの整備,安定した金融システムの欠如によって外資導入による開発が妨げられている模様.
 以下引用.

ロガール州の銅山開発(BBC)

 ラジオ・アフガニスタンの放送によると,アフガニスタンの鉱工業相が,ロガール州の銅山の開発について9月までに国際企業数社を招いて契約先を決める意向を示した.
 ロシアの推計では埋蔵量110億トンで世界最大だとのこと.
 昔はソ連が採掘しており,98年にも国際コンソーシアムが組織されたが,内戦で開発は中断したそうです.
 ただ専門家の間には,そんなに大きな鉱山かどうかは検証が必要だと警告する声もあり,ある専門家は外資を呼ぶには政治的安定,インフラの整備,安定した金融システムが必要だと指摘しています.
BBC, 2002/9

#タリバン時代のこの銅山の記事.
http://www.afghan-info.com/Research_Articles/Afghan_minary.htm
 98年11月の記事ですが,旧ソ連の出した推定埋蔵量については再検証が必要だとタリバンの鉱工業相が述べていたとのこと.

(翻訳: HN"533" in 軍事板)


 【質問】
 カラクル皮や絨毯の産業は,いつ頃アフ【ガ】ーニスタンで始まったのか?

 【回答】
 ロシア革命後と比較的新しい.
 革命による動乱の中央アジアから逃れて来た人々によって移植されたという.

 以下引用.

――――――
 〔ロシア革命から1920年のボルシェビキ軍によるブハラ王国征服までの〕一連の激動の中で,多くのタジク人,ウズベク人,トルコマン人がアフガニスタンに流入したが,その際に絨毯産業の伝統的ノウハウとカラクル用羊を持ちこむことになった.
 これがアフガニスタンに移植され,現在に至るアフガニスタンの重要な外貨獲得産業の一つになったのである.

――――――柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.113-114

 ただし,長い戦乱を経るうちに,絨毯は以下の写真のごとき劣化したデザインになっている.
 これで外貨を稼げるようには思えず,2009年現在も内戦状況につき,絨毯産業が復興できるかどうかは疑わしい.


◆◆チャダル(ブルカ)


 【珍説】
 産経抄によれば,その「自由」の証拠が,ブルカを脱いだことだそうだ.
 無知にもほどがある.
 ブルカを脱いで喜んでいる女は,既に西洋化・近代化されていた裕福な進歩的文化人であって,アフガニスタンの村の伝統では女性は顔を隠すものなのだ.

(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.166)

 ターリバーンは外出する女性に、ブルカ(チャドル)の着用を義務づけています。これが欧米の人権活動家には女性抑圧の最たるものと映っています.
 しかし、ブルカ着用は農村部での常識です。農村出身者が多いターリバーンは農村の常識を、都市部で強制しているにすぎません.

(ペシャワール会・中村哲医師,'01年9月30日,福岡市・河合塾講演)

 ターリバーンはいろんな意味で原理主義的というよりは,国粋的な政権で,アフガンの慣習法を徹底した.例えば女性にブルカを強制した.これは実は99%の人は強制されているのではなくて,自発的に着ていたのです.
 例えるならば,日本人に1日に一遍はみそ汁をすすれというようなものでしょう.あるいは洋服を禁止して和服にするだとか.

(同 「医者よ,信念はいらない まず命を救え!」 P.99-100)

 【事実】
 無知にもほどがある.
 ブルカというのはパシュトゥニスタン(アフ【ガ】ーニスタン南部〜パキスタンに跨る地域)の伝統.パキスタン国内にあった難民キャンプ出身のターリバーンが,それを勘違いしてアフ【ガ】ーニスタン全土に強制しようとしたことが問題なのである.

 そもそも,「ブルカ」という言葉自体,それがターリバーンと共にパキスタンから移入してきたものであることを示している.アフ【ガ】ーニスタンでは,これは元は「チャダリー」と呼ばれていた.
 ちなみに,「チャダリ」という,イランのチャドルと似たものも,アフ【ガ】ーニスタンには存在する.(レシャード・シャルシャー監修,島岡尚子著「旅の指差し会話帳 アフガニスタン」,情報センター出版局,'03)
 中村哲医師すら,ターリバーン台頭前に出版した本「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)の初版('93)では,ブルカを「チャダル」と表記(P. 91)している.中村医師は,自分が書いたことを忘れてしまったのだろうか?

 また,そのパシュトゥンにしても,

――――――
 遊牧民達の女達は,定住民達のようにはチャドリを被らない.移動にも作業にも不便であり,家畜を扱うときの支障となるからである.
 彼らにとっては女性は単なる愛玩の対象ではなく,主要な屋外労働力の一部なのである.
 搾乳,機織りはもちろん,調理もある程度までは屋外作業である.
 部族によっては,移動中のテントの設営を,専ら女性が負担することもある.

――――――「アフガンの四季」(佐々木徹)

 遊牧民に限らなくても,ブルカを着ない人もかなりいることは,国連高等難民事務所職員,千田悦子の「アフガニスタン祈りの大地」に記述がある.

 また,50年代にアフ【ガ】ーニスタンを調査旅行した京都大学学術探険隊の,梅棹忠夫の証言.

――――――
 下層階級や農村の女は,働かねばならぬから,かぶりものがいくらか簡単で,顔は出している.
 しかし,写真は撮らせない.

――――――『アフガニスタンの旅』(梅棹忠夫監修,岩波写真文庫,1956/10/25), p.18

 京都大学学術探険隊が,ワジリスタン地方を訪問したときの記述.

――――――
 途中,たまに見かける女は,ヴェールを被っていない者が多い.
 男はみんな銃か,または鎌を持っている.
 この鎌は草刈のためではなく,主として武器として使われることは,後で知った.

――――――(木原均編「砂漠と氷河の探険」,朝日新聞社,1956/3/10,P.80)

 ちなみに,同書にはこのような記述もある.

――――――
 カーブルその他の都会では,相当女も歩いている.
 しかし,裸で飛び回れる年頃の女の子以外は,老若男女を問わず,一人残らず頭から足の先まですっぽりとチャドルを被っている.

――――――P.106

 安川茂雄(日本山岳会員)の文献にも,似たような記述がある.

――――――
 地方へ出るとチャドル〔ブルカ〕は少なくなり,赤や緑の派手なスカーフでスッポリと上半身を包みこんで,目だけ出している.
 明らかに男性の目を惹きつけようという女の本能と,男性に見られてはならないというコーランの掟〔原文ママ〕に挟まれた奇妙な矛盾に苛まれながら,彼女達は生活しているのだ.

――――――(「アフガニスタンの山脈」,あかね書房,1966/12/25,P.102)

 50〜60年代当時はむしろ,農村より都市部のほうがチャダル着用率が高かったことを伺わせる.
 農村では女性も働かねばならないため,チャダルを被っていては仕事にならないからだろう.
 古代南アジアでは,チャダルが元々,働かなくてもいい上流婦人のための衣装であったことと符合する.
「農村部ではチャダリー着用が普通」
どころか,真逆だったようである.

 '77年にアフ【ガ】ーニスタンを周遊した中央アジア史学者,金子民雄の証言.

――――――
 年配者でもない限り,アフ【ガ】ーンの若い娘達はもうヴェールを被る者は滅多にいない.
 1960-70年代の教育改革が効を奏し,古い回教法が緩和された結果だった.
 だから若い娘達は何の屈託もなく,会えば微笑して挨拶し,なに分にも態度に悪意が感じられないことだった.
 多分,この民族としての誇りや賢明さが,欧米の植民地にならなかった最大の理由だったのだろう.

――――――(「アフガンの光と影」,'97)

▼ 『バタクシャンからヌーリスタンへ』(佐藤優編,日本ヒマラヤ協会,1977.3.1),p.102,カランガンに関するの記述より.

――――――
 ワマは〔補給拠点としては〕期待していた村ではなかった.
 〔略〕
 女性はあまり顔をかくさない地域になった.
 ワマの橋のたもとの大石のところにおいた荷をとりに来た女性の顔ははなの高い目のぱっちりした美人だ.
 またテラスにあらわれたスカイブルーの服を着た女性も美しそうだった.

――――――

 同書p.101には,その女性の写真(遠影)も掲載されている.▲

 対ソ戦時代のムジャヒディン指導者である,ハリカト党指導者アミル・モハマディの証言.

(「ソ連は,アフガニスタンの女性を解放したと主張していますね」という著者らの質問に対し,〕
「ソ連侵攻以前だって女性は自由になりつつあった.自分が望めばベールを被ることができたし,そうする女達もいた.
 さもなければジーンズとセーターでもよかった.
 農村部の女達は殆どベールを被っていなかった.北のほうにいるタジクやモンゴル,ウズベク等々の女達はベールをつけていなかったし,そんな伝統もなかった.女性の状況を変えるのはイスラム自身のためではないか」

(ドリス・レッシング著「アフガニスタンの風」 晶文社 '88)

 久野健著「アフガニスタンの旅」(六興出版,1977/6/5),p.31には
「女子学生(カブール)」
というキャプションのついた白黒写真があるが,これを見ても,ミニ・スカートの下にズボンを履いている.

 都市住民がブルカについてどう思っていたかは,亡命アフガン人女性ラティファ(生命の危険があるため,仮名)の著書「ラティファの告白」に見られる.

 私はチャドリがどんなものかは知っている.ターリバーンがやってくるずっと前から見たことはあった.母のところに田舎から診察を受けにやってくる女性達の中には,伝統を重んじる気持からチャドリを着ている人もいた.
 でも,あくまでも自由意思によるものだ.
 それでも,やはり首都カブールでチャドリ姿の女性を見かけることは本当に希だった.
〔略〕
 チャドリ姿の女性ととおりで擦れ違うと,高校の友達と一緒になって,よくからかった.私達は彼女達を『瓶』とか『逆様のカリフラワー』とか『買い物篭』とかあだ名をつけ,複数で歩いているときには『パラシュート降下の連隊』と呼んだりした.
〔略〕
 私は,その服装をしげしげと眺めた.頭をすっぽり覆う帽子.その帽子の裾に刺繍を施した布が縫い合わされ,足元まで垂れている.中にはもっと丈の短い,歩き易いものもある.
〔略〕
 息が詰まる.布が鼻のところにまとわりつく.なかなか格子をちょうどよい目の高さに合わせられない.
『どう? 私のことが見える?』
とファリダが訊いた.
 彼女と正面に向かい合って立っている限りは,彼女の姿が見える.頭を横に向けるには,位置をずらさないように顎で布を支えていなければならない.自分の後ろを見ようと思ったら,完全に回れ右をしなければならない.自分の息遣いが聞こえる.暑い.布の中で足が絡まる.こんな服,絶対に着ていられない.
〔略〕
 屈辱を覚え,腹を立てながらチャドリから抜け出した.私の顔は私のもの.クルアーンには,女性はベールを被ってもいいとは書かれていても,誰であるか見分けがつかなければならないとも教えている.
 ターリバーン達は私の顔を,全ての女性の顔を奪おうとしている.そんなこと問題外だ!

(p.66-68)

 イラン現代政治研究家,中西久枝の報告.

 今年(2001)イランに半年間調査に出かけていたが,時折アフガン難民に出会った.
 下宿先で門番をしていたアフガン難民のフセインに,故郷で待っている奥さんの写真を見せてもらうと,17歳の彼の奥さんは,簡単なスカーフしかしていなかった.
 しかし,ターレバンが来るという噂が立つと,すぐにブルカーに着替えるとのこと.

( from 「だれでもわかるイスラーム」,河出書房新社,2001/12/31, P.141)

 つまり,チャダリ(ブルカ)は,総人口の内の38%しかいないパシュトゥン人の中の習慣に過ぎず,パシュトゥン人全体の習慣というわけでもない.それを強制することは,じゅぶんに問題である.

 加えて,30ドルもするブルカを買えない女性にとっては,この強制は餓死刑に等しい(マイケル・グリフィン『誰がターリバーンを育てたか』).

 中村医師の受け売りをしているに過ぎないと推測される小林は論外として,では,なぜ中村医師はこのような勘違いを起こすに至ったのか? それは,パキスタンにおけるアフ【ガ】ーン難民キャンプの様相を見て,そのように思いこんだためと考えられる.

 まず, パキスタンのハク将軍は民主化運動抑制のため,イスラーム過激原理主義組織に軍政の支持基盤を構築し,それが過激原理主義が国内に広まる結果となったことは,【珍説】「アフ【ガ】ーニスタン紛争で,アメリカはパキスタンを使い捨てにした」???の項で述べられている通り.

 そのため,同じパシュトゥニスタン(パシュトゥン人居住地域)であっても,国境を挟んでパキスタン側のパシュトゥン人は,過激原理主義の影響で保守化.ダウド政権によって徐々に自由化が進められていったアフ【ガ】ーニスタン側のパシュトゥン人との間に,文化的差異が大きくなり,それが対ソ戦が始まって発生したアフ【ガ】ーン難民キャンプにも波及していたようである.

 例えばドリス・レッシングはこう書いている.

 私は不安だった.『ムッラー』という言葉から,ごく単純な連想しか浮かばなかったからだ.前に女達がこぼすのを聞いていたのだ.
『ムッラー達のせいで,難民キャンプで私らは手も足も出ないんです.私らのすることを指図するし,パキスタンもそれを認めているんです』
(ムッラーが今ほどの有力になった理由の一つが,まさにこれだった.
 パキスタンはキャンプ内の治安維持という問題を抱えていた.女性の宿舎には男性は入れないからだ.
 だがムッラーは,極めて高潔であるから〔という理由で〕,入ることができる.
 そこでパキスタンは,ムッラーを使って女性を管理したわけだ)
 私はそれまでこうした頑迷で無知な(大半が年寄りの)男達に会ったことがなく,いまだに出会っていない.
 だが,私のグループの何人かは,彼らをフィルムに収め,インタビューもして,愕然として帰ってきた.

(「アフガニスタンの風」)

「若い女医の話では,カーブルでは自由に生きていたし,洋服を着て,勉強も仕事も自分の好きなようにやっていたという.
 今ではパルダ(女性隔離)に従わねばならず,ドアから顔を出した途端,ベールを被らなければならない.本を取りに図書館へ行くこともできない.兄弟に取ってきてもらうしかないのだ.
 夜になると本を読む以外,なにもすることがない.
『他に私達に何ができるでしょう』
 私〔レッシング〕があくまで,厳格で禁欲主義的なパキスタン精神に影響されてしまっていることが,そこで判明する.
『あなたがたが行けるカフェやレストランや劇場すらもないの?』
と尋ねるのに,まるで
『売春宿に繁々いらっしゃるの?』
と聞いているような気になったのだ」

(同)

 アフガン女性のタイプあるいは全体を代表する女性として,仮に名前をアミナと呼ぶ女性の身の上を聞かされた.教育を受けているか若干の教育があり,アフガニスタンでは洋服を着てベールも被らず出歩く自由を持ち,自分から進んで,おそらく看護婦か会計士になるための教育と訓練を受けていた.
 〔略〕
 難民キャンプでは,2つの小部屋とベランダのある,ましなキャンプの一つに住んでいる.
 そこで彼女は突然,因習的な考え方の女達に取り囲まれてしまった.アフガニスタンでは全く付き合ったことのない女達だ.
 この女達は,彼女が自分達より高い教育を受けていて,あらゆる種類の危険な近代的観念を持ち,それを隠しておけないことを知る.もっと酷い状態にある者達の妬みが,それぞれの苦労に加えて,悪行を摘発し,律法を主張してキャンプをうろつくムッラーによって増幅し,この女性を迫害する.
 彼女はパルダに戻り,女性の居室を出るときはベールをつけなければならない.この掟をほんの僅かでも破ると,ムッラーに通告される.
 彼女がいるのは政党のキャンプだし,食料も政党に頼っているし,彼女の不品行によって子供達が酷い目に遭うだろう.
 彼女の状態は獄中にいるのと変わらず,〔ソ連軍との〕アフガニスタンの戦争が終わるまでは,出口は全くない.

(同)

 チトラルに発つ前,私は,探していたような教育ある女性の代わりに,ある男性の教授に会う機会があった.
 彼は同胞の女性を擁護して,実に雄弁に語った.
 このマジュラ教授は,カーブルで文学を講じていたが,今はペシャワル大学で教鞭を取っている.
 彼はこんなふうに語った.
『〔略〕
 我々は山の民であり,砂漠の民なんです.広いところに慣れている.アフガニスタンでは街の中でも外でも,誰一人窮屈な思いなどしないのです.ソ連侵攻までは女性の生活も楽だった.ベールを被っている女性はごく僅かしかいなかったし,ベールを強制されたりもしなかった.ムッラーの権力なんて,今と比べると取るにたりないものだったんです.
 ムッラーがこんなに影響力を持つようになったのは,この戦争〔対ソ戦〕の悲劇です.アフガン人は本来,狂信的な民族ではないのです.〔略〕』
『女達はみんな歌を歌わなくなってしまった』と,忘れがたい様子で教授は言う.『昔は,あの大破局が起こる前は,どの村へ行っても,女達の歌声が聞こえたものです.
 今では子供達と一緒に,いつ戦争が終わるとも知れず,キャンプの中に動物のように閉じ込められています.男達は戦っているし,戦闘の合間にしかやってきません.何ヵ月も来ないこともある.
 あなたの国の女性達も,時には鬱状態になるという話を読みますが,それと同じように女性達は鬱状態になって,鎮静剤に頼っています.もっとも,運良く手に入れればの話ですが.
 パルダに入り,ベールを被ることを強制され,キャンプから一歩も出られず,キャンプを管轄するパキスタン当局の管理下に置かれているのです.
 いや,私はパキスタン人を批判しているわけじゃありません.パキスタン人がいなければ,私達は全員死んでいたでしょう.アフガン人は一人も残っていなかったに違いありません』

(同)

 過激原理主義の流入が,それまでの穏健なイスラームを過剰に禁欲的なそれに変えてしまうことは,例えば現代インドネシアでも現在進行形で見られる現象である.

 このような難民キャンプないし国境沿いの村村を見て,「これがアフ【ガ】ーニスタンでも当たり前の状態なのだ」と,中村医師は思い込んでいるのではないかと思われる.

 さらに言えば,「慣習だ」と解しているほうのアフ【ガ】ーン人の中にも,こんな意見もある.

「私達は慣習に従わねばならない」
と〔ダシュティ・カラの地区司令官,マムール・〕ハッサンは言う.
 しかし,彼は必ずしもそれに賛同しているわけではない.
「最も神聖なるイスラム教の地,メッカで,女性が顔を覆わず,男性も頭に何も被らないのは何故か? イスラム教の中心地なのに,どうして彼女達はブルカを着ないのか?」
 彼は悲しげな笑みを浮かべて,締めくくった.
「思うに,ブルカは時代遅れのアフガンの慣習に過ぎないからだ」

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.42

 中村医師は,その著作から観る限り,生来,思い込みが激しい御仁のようである.
 それは,今も中村医師がしつこく「らい」という言葉を使い続けている――ハンセン病患者らは,この「らい」という言葉を使うことをやめるよう,運動を続けている――ことからも分かるし,また例えば,彼がアフ【ガ】ーニスタンに渡る前,偉大を卒業したてで日本の病院で常勤していた頃,植物人間となっていた患者について,「家族が大変だから」と上司と口論した挙げ句,当の家族と相談したようにも見えないのに,生命維持装置を外して安楽死させた――法律上,殺人罪に該当する――ことからも分かる.(安楽死については中村哲著「ペシャワールからの報告」 河合ブックレット '90 P.51-52を参照)
 「らい」という言葉を使い続けるのは正しいに違いない,家族の負担を軽減してやったのだから,自分の好意は正しいに違いない,と思い込んでいるのである.

 観察に最も禁物なものは予断である.
 したがって,中村医師は,客観的にアフ【ガ】ーン情勢を観察し,報告する人間としては不適格であることが分かる.


 【珍説】
 「ターリバーン」の著者,田中宇氏によれば,ブルカは伝統的な上着の一形態であり,ブルカを着たくないと思っている女性は,カブールで一割しかいないという.
 ところがアメリカの女性団体は,ブルカが「女性差別」と主張する.
 これは民族衣装を否定されたも同然で,カブールの女性は怒っているというのだ.(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.167)

 【事実】
 引用するときには正しくやるべきです.
 田中氏の原文はこうです.
「ターリバーンに対する歪んだ見方は,カブールの女性達が着用している『ブルカ』に象徴されている.ブルカは伝統的な上着の一形態であり,ブルカ自体を着たくないと思っている人は,カブールの女性のうち,1割しかいないという調査結果が出ている.彼女達が嫌悪しているのは,たまたま何らかの理由でブルカを着ていない女性に対し,ターリバーンが暴力を振るったり,投獄したりすることである.
 ところがアメリカの人権団体などは,ブルカの存在自体が『女性差別』であると主張している.これはカブールの女性達にとっては,民族衣装を否定されたことになるため,多くの女性が怒っているという」(p.155)
 小林氏の引用では,ブルカの問題の核心部分がすっぽり抜け落ちています.
 アメリカの女性団体によるターリバーンへの非難の核心は,ヒラリー・クリントンの99年のスピーチに見られるように,女性の就労問題・教育問題と共に,こうしたターリバーンの女性への暴力行為なのですが,同書では殆ど触れられておりません.

 例えば,アハメド・ラシッド著「タリバン」には,以下のような酷い例が幾つも見られます.
「('98年2月頃),ターリバーンは新しい規則を布告,男性の顎鬚の長さを正確に定め,新生児につけることのできる名のリストを示した.
 ターリバーンは,カブールで開かれていた女子の家庭学級を閉鎖,宗教警察が街をパトロールして,女性を路上から追い払い,家主に対し,外から中の女性が見えないように,窓を黒くするよう指示した.女性は一日中,日の光も差さない屋内にいるよう強制された」

 '95年,ターリバーンがヘラートを占領すると,
「彼らはやってくるなり,ヘラートの女性たちを屋内に追い込んだ.〔略〕 ターリバーンは女子学校を全て閉鎖し,ムジャヒディンの司令官イスマイル・ハンが何年間も努力した,住民の教育を抹殺した.殆どの男子学校も,教師達が女性だったため,閉鎖された.数少ない病院も男女隔離され,浴場は閉鎖,女性はバザールに行くのを禁止された.
 その結果,ヘラートの女性たちは,ターリバーンのやり過ぎに対する,最初の反乱を起こした.'96年10月17日,市の浴場閉鎖に反対して,100人を超える女性達が,知事官邸の外で抗議行動をした.女性達は,ターリバーンの宗教警察に鞭打たれ,逮捕された.宗教警察は家から家へと,男性に女性を外に出さないよう警告して回った.
 〔略〕 長時間の内部の討議とヘラートのターリバーンとの実りのない交渉の後,ユニセフとセーブ・ザ・チルドレンは,ヘラートでの教育援助事業を停止した.少女達が教育から除外されたからである」(同)

 '96年にターリバーンがカブールを占領したときは,
「カブールの美容院も,女性達がお湯を使える唯一の場所,女性浴場も閉鎖された.服の仕立て屋は,女性のサイズを測ってはならないと命令され,常連客のサイズを頭で覚え込まねばならなかった.ファッション雑誌は破棄された.
『爪を塗ること,友達の写真を撮ること,フルートを吹くこと,ビートを叩くこと,外国人をお茶に招くことをすれば,ターリバーンの布告に違反する』と米国人記者は書いている.
〔略〕
 〔略〕国連は'96年10月までに,カブールでの女性のための収入発声援助事業8件を停止した.もはや女性達が,それらの援助事業で働くことが許されなくなったからであった.
 〔略〕 ターリバーンは更に締め付けを強化した.彼らは,継続が許されていた,女子のための家庭学級も閉鎖,女性が一般病院に行くことも禁止した.
 '97年5月,宗教警察が米国のNGO,ケア・インターナショナルの女性スタッフ5人を鞭打った」(同)

(それに,ブルカの存在自体が女性差別であると主張している「アメリカの女性団体」も発見できておりません.噂が独り歩きしているきらいがあります.心当たりのある方はご一報を)

 なお,田中氏のほうの「タリバン」はラシッドの「タリバン」と異なり,ヘクマチアールを死亡したとする(2004年1月現在,なお存命)など,田中氏が直接見聞した以外の記述については,信頼性に欠ける部分も多いので,気をつけるべきでしょう.それが情報ソースを明示していないとなれば,尚更です.


 【珍説】
 カブールの女性の80%が,未だにブルカを脱がないのはなぜか,分かったか?
 パキスタンで,今からアフガニスタンに帰る難民に,ブルカが飛ぶように売れているのはなぜだか分かるか?
 それはブルカがアフガニスタンの村村の「伝統」だからだよ!(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.190)

 【事実】
 伝統なら,わざわざ買わなくても1着ぐらい持っていそうなものですがね…….
 上述のように,ブルカはアフ【ガ】ーニスタンの一部地域の習慣でしかありません.

 複数の街頭インタビューによれば,女性は,ターリバーン政権が倒れた後も,街に過激原理主義者は市民の顔をして残っており,彼らから暴行を受けかねないため,また,治安への不安もあるため,自衛のためにブルカを着ているとのことです.

 例えば,毎日新聞2002年6月22日東京朝刊から.
「女たちが、ターリバーン政権時代に強要されていたブルカ(頭からつま先まで覆う伝統衣装)をまだ脱がない理由を知ってるか。顔を見せて目をつけられたら、彼らは夜中に家を尋ね当て、銃で脅して女を奪っていく。彼らが銃を持ち歩かなくなれば、市内の女は一斉にブルカを脱ぐだろうよ」

 2002年4月に行われた,宇佐波雄策氏(朝日新聞アジア総局長)の講演会から
「5年間着用しているうちに市民が慣れてしまった一面があります。
 すぐにはブルカを脱がない人が多いです。
 政情もまだ不安定なため,いつ元の体制に戻るかもしれないという怯えから自己防衛のためにブルカを脱がない人が多いのです。
 またターリバーンの前の政権も悪い政権だったことがややこしくしています」

 新聞縮刷版を当たれば,他にも同様記事を幾つも発見できるでしょう.

 これと同じ現象は,対ソ戦の頃にも起こっています.例えば,ジャン・グッドウィン著「アフガンゲリラとの100日」(光文社)には,次のような記述があります.
「例えばカブールの,特に教育水準の高い家庭の娘達の中には,戦争開始後,生まれて初めてチャドリを着たという人が少なくない.
『それは,酔ったソ連兵に若い女性が誘拐されたり,強姦されるという事件が続発しているからなのです』そうした娘の一人が私に言った.『チャドリを着ていれば,少しは身を守れますから』」(P.188)

 「伝統だから」とは全く無縁の現象であることが,これからも分かります.

▼ 田中香(民間開発コンサルタント会社社員)は,伝統だから〜〜という論法は詭弁であると断じています.
 チャダルは現実上,女性にとって悪影響を及ぼすことが問題なのだそうです.
 以下引用.

――――――
 チャドルの問題は,単にチャドルを強制的に着用させることが是が非かという問題に留まらない.
 チャドルを着ることによって視野が狭まり,日常的な動作さえ不便になり,道端の障害物からでさえ自分の見を守ることができず,走って危険から逃れることもできない状況に置かれるということは,女性の行動や態度,ひいてはパーソナリティや心の状態,価値観などにも大きな影響を及ぼすことは想像に難くない.
 つまりチャドルが女性への抑圧の象徴的・現実的意味を持っているからこそ問題とされるのである.
「チャドルは宗教的・伝統的意味を持っているから是であり,他国やイスラム教徒ではない者が口を出す問題ではない」
という主張は,問題の矮小化,すり替えといわざるを得ないだろう.

――――――『国際人道支援におけるこころのケア アフガニスタンでの試み』(河野貴代美編著,新水社,2007.6.10),p.40

 また,田中香はこうも述べています.

――――――
 たとえチャドルの着用が制度として強制されなくなったとしても,その影響は何年にも,何世代にもわたり受けてきた女性が,あるいは社会全体がただちに変化するのはむつかしい.

――――――同上

 考えてみれば当然の話ですね.▲


 【珍説】
 アフガニスタンでは今でも米軍のアルカイダ掃討戦は続いている.
 村村を誤爆する事故も続いている.

 例えばある村で,男達が留守のところを米軍が急襲し,女達のブルカを脱がせてボディチェックしたという.
 これは彼女達の価値観ではレイプに等しい恥辱になる.
 女は米兵を射殺してしまった.

 すると米軍はこの女をテロリストと勘違いして,村ごと空爆して民間人を虐殺するのである!

 民衆の間には反米感情が高まって,遂に米英の国旗と共に日の丸まで焼かれるデモが行われたという.

(小林よしのり「戦争論」3,P. 90)

 【事実】
 google検索してみたけど,そういった事件は見つからなかった。本当にあったならオオゴトだから見つかりやすいと思うが。
 まずこのような緊張した状態で米兵が殺される可能性が少ないというは兎も角とする。
 上述のように、アフガンの女性がブルカを羽織るのは,「ブルカを羽織るべき」と思っているからではなく
「ブルカを羽織っていないと残った原理主義者の類に酷い目に合わされる可能性が有るから」
というのが殆どの女性のブルカ着用理由だという事を考えると、この情報自体疑わしい。
 #ソースあったら宜しく。

(キルロイ ◆dtIofpVHHg in 軍事板)

 それは親過激原理主義系メディアのどこかが報道し、それを真に受けたペシャワール会の中村医師が言いふらしているだけの代物。
 要するに「雨乞い」と同じで、ターリバーン発のプロパガンダと見てほぼ間違いない。

(イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw in 軍事板)


 【質問】
 チャダル,チャダリーにはどのような歴史があるか?

 【回答】
 インドのチャットラ(日傘)と関係付ける説もあるが,語源は明らかではない.
 プルータルコスは,ペルシア王アルタクセルクセスの妃スタティラは,車駕に下幕を垂らさないで乗り,民衆の女達が近付いて挨拶できたため,王妃は民衆に愛慕されたという話を伝えている(「対比列伝」).
 この話は,王家の女性達は通常,下幕を垂らした車駕に乗り,その姿を見ることはできなかったという事実を示している.
 〔略〕
 今日,ヤズドに残るゾロアスター教徒の女性達はチャードリをつけているが,蔽っているのは頭と首であり,顔ではない.

 イスラーム時代になっても,初期の頃には尚こうした慣習が続いていた.クルアーン(コーラン)の規定も曖昧で,
「胸には蔽いを被せるよう」とか,
「自分の夫,親,舅,自分の子供以外には,自分の身の飾りを見せたりしないよう」とか,
「人前に出るときには必ず,長衣で頭から足まですっぽり体を包み込んで行くよう」
と記しているだけである.

 やがて,より厳格な基準が求められるようになり,例外的であった顔と手も蔽うようにと,クルアーンの規定が拡大解釈され,面衣が生まれた.初めの頃は,チャードリは面衣と,胸から足元までを蔽う長衣と2つに分離されていたようである.
 現在でもイランで着用されるチャードリ〔ダリー語ではチャダル〕は,1枚の長方形の布で,頭から足元まで蔽う型のものである.
 アフ【ガ】ーニスタンでは頭からすっぽりと全身を覆い隠す型のもの〔ダリー語ではチャダリー〕とイラン型とが併用されている.
 色彩も外出用は一般に暗色であり,お祈りには比較的明るい色が使われている.
 近代化が進み,ヨーロッパとの接触によってチャードリ着用の宗教的軌範も揺らぎ始め,イラン(レザー・シャーによる着用禁止令)でもアフ【ガ】ーニスタンでも,若い人達がチャードリを次第に着けなくなっていった.

 しかし,その反動もまた起こり,1960年代と70年代のイスラーム復興運動の中で,チャードリは女性の尊厳の保持と謙譲の美徳の象徴として称揚され,積極着用が勧められた.

 チャードリもまた歴史の流れの中で,イスラーム社会の文化の徴標として,形や意味を変えてきたのである.

(前田耕作 from 「アフガニスタン史」,河出書房新社,2002/10/30, p.129-130,抜粋要約)

 なお,本書はチャダルとチャダリーの区別ができていないようなので,その点,留意されたし.


 【質問】
 チャダリ着用の利点は?

 【回答】
 しゃがむだけで用を足すことができる,男達の目からも逃れ得る等,機能的であるという.
 以下引用.

 さて,「チャドリ」に話を戻そう.
 この奇異に映るファッションが,現地にあっては機能的であることを,実は私達は知らない.
 単に,女性は抑圧されている,自由な服装が認められていないと思いこんでしまってはいまいか.
 アフガニスタンの風土は,一年中,砂漠の砂埃をオアシスに運ぶ.
 「チャドリ」は,その砂埃を防ぐのにとても都合がよい.
 公衆トイレのない社会にあって,女性達は困り果てる.
 しかし「チャドリ」着用は,しゃがむだけで用を足すことができる.
 しかも,外観からその女性の年齢を含めた容姿をはかることができないので,男達の目からも逃れ得る.
 「チャドリ」の下におしゃれを楽しむ女性も多いが,この「制服」のおかげで,貧富の差を感じさせないのも事実であろう.

 「チャドリ」は,ある意味では不自由に見えるけれども,自由に行動できるユニホームでもある.
 「女性の隔離の習慣」を知らない人達は,「チャドリ」こそが女性の後進性のシンボルだと信じているかもしれない.
 宗教的に「チャドリ」を押しつけているのではない.アフガニスタンは,ずっと昔から女性を登用し,能力主義の国でもあった.
 ただ,タリバンがその伝統を閉鎖してしまっただけの話で,「女性を蔑視する国だ」というイメージだけが走っている.

2004/12/7

(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.68-69)


 【質問】
 現在,チャドリ着用率はどれくらいか?

 【回答】
 ジャーナリストの報告では,2005年頃でだいたい半々であるという.
 以下引用.

 「強烈な日差し」と「乾燥した空気」と「強い風」というバーミヤン3点セットは,言うまでもなく肌にとって大敵である.ただ日に焼けるだけではなく,頬や唇などの水分が奪われてかさかさに荒れてしまうのだ.
 〔略〕
 アフガニスタンの女性がチャドルやブルカといった被り物で顔を隠すのも,男性が頭に長いターバンを巻き付けているのも,強い日差しと砂埃を避けるためなのだということを,僕はこの土地を歩き回ることによって初めて実感した.
 イスラムという宗教が砂漠で生まれ,日差しが強く,乾燥した国々で受け入れられていったことと,ムスリム女性が顔を隠して歩くことは,おそらく無関係ではないだろう.
 外部から見れば理不尽なようにも見える風習も,その土地に根ざした合理性があるのだと思う.

 しかし,頭からつま先まで全身をすっぽりと覆ってしまうブルカは,アフガン人の間でも評判が良くなかった.
 特に,英語を話すことができる進歩的な考えを持つ人の多くは,
「ブルカは女性を縛りつける醜いものだ」
と断言した.
 ブルカというものは,元々イスラムの習慣などではなく,一地方の風俗に過ぎなかったのだが,それをタリバン政権が国民全員に強制したのだ,と彼らは主張した.
 とりわけ,タリバン政権によって迫害を受けていた少数民族のハザラ人やタジク人達にとって,ブルカが「抑圧のシンボル」であったのは確かなようだ.

 今ではブルカを被るのも被らないのも,個人の裁量に任されている.
 地方によっても違うのだが,ブルカを被っている女性の割合は,だいたい半分弱というところだった.
 特に首都カブールでは,「非ブルカ率」が高かった.
 ブルカを脱ぐ女性の数は,おそらく今後もっと増えるだろう.

(三井昌志著「素顔のアジア」,ソフトバンク・クリエイティヴ,
2005/10/15,p.173)


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