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2007年1月14日 (日)

さよならジュピター

題名:ジュピターが集めた、熱いSF的視線

<リード>
この映画の誕生過程には、当時の世にあった“SFへの情熱”の影が焼きついている。
国産初の本格的SF映画誕生への期待──それは周囲状況と、どう関連していたのだろうか?

<本文>

●小松左京とSF映画

 本作で一番重要なのは、実は作品そのものではなく、「なぜあのとき『さよならジュピター』というSF映画が必要とされたか? どうしてあれだけ話題になったのか?」という部分ではないか。それを周囲状況を中心に確認したい。
 そもそも小松左京がSF作家として出発するきっかけにも、SF映画が大きく関係していた。1961年、早川書房の第1回S-Fマガジンコンテストにおいて選外努力賞として『地には平和を』が入選、これがデビューの契機となった。このコンテストには東宝も出資し、選者に『ゴジラ』のプロデューサーとしても知られる田中友幸が名を連ねている。換言すれば、小松左京デビュー作はSF映画のための原案提供として書かれていたことになる。
 1961年の東宝は、円谷英二特技監督が大作映画を発表していた全盛期だ。翌1962年の『妖星ゴラス』は、奇しくも『さよならジュピター』に通じる大作映画であった。地球に大質量の星が接近し、衝突の危機を地球の南極にロケット推進器をつけて軌道変更させて回避する──この大胆かつ破天荒なアイデアのイメージの映画が、小松デビュー時期と重なるのが面白い。
 60年代の東宝における小松左京の映画の仕事には、『日本アパッチ族』がある。岡本喜八監督、クレージーキャッツ主演とまで決まったが製作中止となり、現在の小説版は脚本をもとにしたものだ。70年代、小松左京は『日本沈没』で空前のベストセラー作家となった。この作品は、田中友幸プロデューサーのもと、1973年に東宝で映画化されてやはり大ヒットとなり、TV版も作られた。次いで小松原作の超能力アクション『エスパイ』が映画化され、田中・小松間の関係が続く。
 このように、小松左京とSF映画には、濃密な関係があったわけである。

●ジュピター発進

 1977年8月、その田中・小松の関係は、『さよならジュピター』を機に復活する。発端は、東宝映画社長(当時)の田中友幸が米国でヒット中の『スターウォーズ』への対抗作の相談を小松左京のところに持ち込んだこととされている。
 日本で『スターウォーズ』が公開されるのは、米国に1年遅れて1978年。しかし、1977年8月と言えば、『宇宙戦艦ヤマト』の劇場映画が大ヒットしていたタイミングである。ハイティーン中心に宇宙SF映画が受け入れられる素地ができていたわけで、田中友幸の来訪もヤマトのヒットを受けてのものと推察できる。。
 映画や出版業界では大SFブーム到来が期待されていた。その中で、新しいものに意欲的で行動力もあり、SF映画とも縁の深い小松左京に白羽の矢が立ったのは、歴史的必然であっただろう。
 小松サイドには前年アニメ用に準備した原案があり、すでに『さよならジュピター』という題名と木星太陽化計画という骨子もできていた。だが、そこで原作を渡してお任せにしようと思えばできたのに、小松は安易にGOを出さなかった。1977年9月から1年間、16回にわたってSF作家を集めてブレイン・ストーミングを行い、そこからアイデアをまとめていく方式がとられたのである。
 参加者は、1980年に小説版が週刊サンケイ誌上で連載開始されたとき共作者として名をつらねた豊田有恒・田中光二・山田正紀ら3人を筆頭に、高斎正・野田昌宏・伊藤典夫・鏡明・横田順弥(弥は旧書体)・井口健二・高千穂遙ら。スタジオぬえの高千穂遙は同社のデザイナー宮武一貴を初期からビジュアル化に投入。大きくイメージ固めをしていった。
 小松には、1970年にまとめたSFシンポジウムで、SF界のワーキング・グループ制でイベントを達成した実績と成功経験があり、もっと大きなものに育つという目算があった。

●小松左京の意気込みと周囲の期待感

 1978年のブレスト終了当時、新聞記事(報知新聞)では、「アイデア、フィロソフィー、どれ一つとっても外国に負けないSF映画を作ってみようじゃないか」と、小松左京自身がそのモチベーションの根幹を熱っぽく語っている。
 そこで対比されている米国の『2001年宇宙の旅』(1967年)は、SF映画の金字塔と呼ぶべき作品だ。空気も重力もない単一光源の宇宙空間を完璧な精度で模擬した映像と、人が宇宙へ出ていく意味性という思弁を、高い次元で調和させた点に、強いSF性がある。年月が経つにつれ重みの増すようなタイプの映画である。それに比肩しうるSF映画が、日本SF界の叡智を結集してつくられるというニュースそれ自体に、かけがえのない価値があった。
 それは、SFが拡散して、かつてはSF入門として必読だったはずの『アルジャーノンに花束を』がトレンディードラマとして放送されたりする現在は──そんな21世紀が来るとはSF界の誰が予想しただろうか──わかりにくいことかもしれない。だが、後に「オタク」と呼ばれるハイティーン層にとって、「SF」とは通過儀礼であり、価値観の頂点を成すものであった。
 たとえば1977年以前は、アニメ作品や特撮作品を語ったり、サークルを募集する場として、まずSF雑誌が利用された。成人を数年後に控えて、「いつになったら卒業するの」と言われ続けてきた当時のファンたちは、まず「SFとして大人の鑑賞にたえる」という枕詞を必要とした。このころ書かれた文章には、『ウルトラマン』も『宇宙戦艦ヤマト』も、「SFとして評価しよう」という気負いが充満しているはずだ。
 加えて70年代後半はSF界の成熟期でもあった。文庫で内外の名作が容易に入手できるようになり、SF雑誌も増殖し、若手作家も続々と傑作を発表。その中で「センス・オブ・ワンダー」という言葉は輝きを増す一方だった。
 科学的設定を突きつめた舞台で、価値観を相対化したドラマを展開することで、既成の閉塞からジャンプする感覚を得ること──それが筆者なりの「センス・オブ・ワンダー」の定義だ。小説・アニメ・特撮を問わず、幼少のころからつきあってきた作品群の価値を、センス・オブ・ワンダーでひとつに貫けると自覚したファンたちは、「SFマインド」を何より大事と考え始めたわけだ。

●ビジュアル派SFファンの覚えた疎外感

 だが、事態はそう単純で甘くはなかった。
「ビジュアルが引っぱるSF」という新たな価値観をもった新規参入者は、もともと一種の選民意識と被害者意識を表裏一体で持つようなところのある古参のSFファンに反発を招いたのではないだろうか。次第に軋轢や分断が生じ始める。
 アニメや特撮を大人の言葉で語りたくてうずうずしていたビジュアル派は、当初「SF性の発見」さえ行えば先達のSFファンにも認められ、仲間入りができると踏んでいた。だが、SFの世界で待ち受けていたのは「○○はSFではない」という、冷たいリアクションだった。
 たとえば「月刊スターログ」(1980年10月号)の表紙には、「賛否大論争直撃ルポ SFアニメ・ブームを斬る! ヤマト、ガンダム、コナンはSFなのか?」と大書されている。新しく立ち上がったアニメ文化ごときは斬り捨てようという閉鎖的空気がSF界にあった証拠だ。他にも不毛なSF論争は、いくつも存在した。
 さらに不幸なことに、SFに踏みつけられたアニメファンが、今度は特撮を踏みつけるという構図すら発生した。ハイテクを導入した欧米SFX大作と、日本の伝統芸化しつつあった当時の特撮を対置した文章もこのころ多いはずだ。

●集まっていったSF界の熱い視線
 疎外のあった反面、1981年の日本SF大会ダイコン3では、ダイコンフィルム制作のオープニングアニメが拍手大喝采で受け入れられた。既存の国産アニメ・特撮・漫画へのビジュアル的オマージュに満ち満ちた、フュージョン感覚のフィルムである。前述の閉鎖現象とはまったく正反対のベクトルも同時に発生し始めていたのだ。
 このように、SF界と国産ビジュアル(アニメ・特撮)の仲は、引き裂かれながらも、新しいものを求めて引き合い融合するという、次のステージに向かうとき特有の、複雑で不安定な時期を迎えていた。そうした空気の中で、準備段階の『さよならジュピター』が発信するニュースには、SFに興味を持つ者の熱い視線を集めさせるものがあった。純粋なSFマインド、欧米を参考にした撮影技術、アニメ的手法やデザインの導入などなど……これまでの国産映像世界に風穴を開けるのではないかという期待、そして同時に反発も大きかったはずだ。
 大好きなアニメのSF性を否定されて泣いたファンは「そんなに言うなら本物のSF映像をやってみせろよ」と冷淡な目で見つめただろうし、確かに既存作品にはSF性が少ないと不満に思っていたファンは「今度こそ……」という必中の期待に夢をふくらませていたことだろう。

●ジュピターが担っていた明日への意味

 周囲のテンションが高まれば高まるほど、無数のファンをSFの世界へと誘ってきた巨人・小松左京は、前人未踏のプロジェクト達成に燃えたのではないか。2003年ではデーターベースソフトで映画を管理するのも一般化しつつある。だが、小松左京はそれを1980年代初頭に実行していた。当時先進のOA(この言葉もそろそろ死語)を、まるで21世紀からやってきた未来人のように予見的に導入し、さまざまな手法を駆使して準備を進めていた。
 クリエイターやボランティアの労働力を束ね、入念すぎるほどのプリ・プロダクションを積み重ね、大勢のSF界のリソースを引っぱっていった小松左京の原動力とは、未来(つまり21世紀のいま現在だ)におけるビジュアル全盛時代への予感と先行投資だったのかもしれない。だとすれば、それは時代の空気とその流れに敏感で、1970年大阪万博以後、常に未来を志向して活動してきた小松にしかできなかった総決算的な仕事と言える。
 以上述べたように、SF界のビジュアル新世代への入り口に起きた、坩堝か闇鍋のようなグツグツした、温度だけは異様に高い状況は、確かに存在した。それは肯定するにせよ、否定するにせよ、日本のSFとSF映像の未来を真剣に思いやった熱の発散であった。その情熱の温度を念頭におかないと、『さよならジュピター』の完成フィルムに対して、なぜあれほどまでに、みんなが一喜一憂したのかがわかりにくくなってしまうだろう。
 もちろん、フィルムは独立したひとつの映像作品で、状況と切り離されてその時代時代の基準で鑑賞されるべきではある。だが、『さよならジュピター』という題名を聞いただけでも脳内をめぐる往時の熱い記憶もまた、ある世代にとってはかけがえのない「自分の一部」ではないか。
 想いの熱さを、いままた共有できるかは不明だ。だが、こういった流れを時代の記憶として再見の前に確認するのも無駄ではないと信じている。
 そうすることで、この映画の「明日への意味」がまたひとつ見つかれば幸いである。
【初出:「さよならジュピター」DVDデラックスエディション解説書 脱稿:2003.02.07】

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