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以下はある統一協会の若者の掲示板から
23 名前:●● 投稿日: 2006/12/07(木) 08:43:33 ・・・Strategic Defense Initiative(防衛戦略構想)、別名は…スターウォーズ計画ね。スターウォーズと言われるようになったのはマスコミが「空想だ」とからかってつけた名称。ソ連からミサイルが発射されたら衛星みたいなものがそれを感知してレーザーかなんかでミサイルを破壊するんだよ。アボジが開発したんじゃなくてアイディアはアボジが出してそれをもとに開発。核兵器が使えないんじゃ戦争にならんってことで終結。でも今日になって左翼はSDIにはじゅうぶん対抗できたってほざいているが…どうなんだろうね。 34 名前:●●●● 投稿日: 2006/12/08(金) 19:29:05 ・・・さらに説明加えるとしたら当時の大統領は大統領選挙の時にどこの新聞社からももう1人の人が当選するって書かれていて(アメリカの新聞社は予言新聞といって未来のことを予想して書くことがあります(ありました?)。予想が多々当たればその年の最高の新聞社としての賞なども得ることができるし客も増えるので新聞社は予想記事を書きます)でもその時に一社だけ応援した会社がありました。それが後にワシントン・タイムズ社となるアボジの持つ新聞社です。(ついでにこの新聞社はその予想記事を書いて応援するために作られました。創設されたのは確か選挙日の一ヶ月前とかです)そういったことがあり大統領はアボジに感謝をしコンタクトをとるようになりました。ですのでアボジが提案したSDI計画を実行されたのです。ついでにこのSDI計画はワシントン・タイムズ社が新聞で書いたんです。それを読んでいた大統領・また国民から支持されたため政府は経費を出す事ができました。(この時の記事は4daysに出たときにみせていただきましたので)また、ロシアの方では誰がSDI計画を打ち出したのかを必死に調べました。その結果浮かび上がった人物がアボジです。それによりロシアの首相(ゴルバチョフ)はアボジと会談し冷戦終了へと向かったのです。簡単に書くとこんな感じだと思います。 統一協会のセミナーでは、冷戦を終結させたのは文氏だと教育しているそうです。 上で紹介した掲示板の若者達も「SDI計画は文氏のアイデア」だと教育を受け、それを堅く信じているのでしょう。 ところが統一協会系の光言社が1995年に出版した「世界を救う東洋の波」に、SDI計画の生みの親として紹介されたのは、元中央情報局(CIA)副長官、元国防情報局(DIA)長官で退役陸軍中将のダニエル・グラハム氏(ハイフロンティア会長)です。 彼は1976年と1980年にレーガン大統領候補の軍事顧問で した。(レーガン大統領の任期は1981年1月20日〜1989年1月20日) レーガン政権のシンクタンクであるヘリテージ財団の援助で、1982年に「ハイフロンティア――新国家戦略」というSDI構想の基礎になった報告書を米政府に提出しました。 米国防総省には反対意見もありましたが、最終的にジャック・ベッシー統合参謀本部議長とワトキンズ海軍作戦部長が、「ハイフロンティアの言う戦略防衛は可能です」とレーガン大統領に進言し、それから2週間後にSDI演説(1983年3月23日)が行われました。 国会でもSDI計画は取り上げられました。 参議院会議録情報 第102回国会 予算委員会 第3号 昭和六十年二月十三日(水曜日) ○内藤功君 米ソが核兵器の廃絶を目指していろんな会議をやっているというのは、やはり基本的には世界の平和運動というものが一番大きな力だと私は思うんですね。そこで私が伺いたいのは、レーガン政権のシンクタンクであるヘリテージ財団の援助で一九八二年に「ハイフロソティア――新国家戦略」という報告書が米政府に出されているんです。これはSDI構想の基礎になった文献だと言われております。これを書いた研究グループの代表は、元CIA次長で国防情報局長を務めた退役陸軍中将のダニエル・グラハムという人であります。この報告書によりますと、相互確実破壊戦略にかわって確実生き残り戦略、これを採用するように強く勧告しているんですね。そういう転換には全地球的な弾道ミサイル防衛しかない、こういう提言をしておるんです。私は、これでも明らかなように、核廃絶を目指すどころか、SDIというものは一方の核超大国の生き残り戦略そのものだと、こういうふうに見なければならぬと思うんです。私はこの点の総理の御認識を聞いておきたいと思うんですね。 ○国務大臣(中曽根康弘君) まず、ヘリテージ財団のグラハム中将の報告というものは民間団体の報告でありまして、政府の権威ある政策となっているものではない。また、その報告の内容を見てみると、同盟国の防衛にも使う、そういうことも書かれている由であります。そういう意味において、その報告に関する限りにおいてもあなたのおっしゃるようなものでは必ずしもないと思っております。 ○内藤功君 民間の研究所が大きな影響力をアメリカにおいては政権に与えることはあなたもよく御存じのとおりであります。しかもこの代表のグラハム中将はレーガソの選挙のときの軍事顧問をやっている腹心の一人なんですね。その後行われたスターウォーズ演説というレーガンの演説でも、それが非常に影響を受けていることが読み取れるわけであります。ですから、民間のだからということは私は理由にならないと思う。私の聞いておるもう一点答えがないんですが、この確実生き残り戦略を採用している、これはお読みになっているからおわかりと思いますが、これはどうお考えになりますか。核廃絶じゃないですね。 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/102/1380/10202131380003c.html 当時の世界情勢を見てみましょう。 経済的に破綻寸前の状態で軍拡競争を続けていた二大国、特にソ連にとってはSDI計画が軍事政策転換のきっかけになりました。 1982年、アンドロポフ書記長がまだKGB議長の時代、ソ連はハイフロンティアの情報を掴みました。 1983年3月23日、レーガン大統領のSDI演説 1984年、ソ連軍部はSDI対策を練りますが、対抗して軍拡競争に応じる経済力はありませんでした。 1985年3月、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは政策転換を強いられます。 1985年11月、ジュネーヴ会談での軍縮交渉。国内の改革に取り組みたいゴルバチョフはアメリカとの関係改善を図ります。 1986年4月、「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手。 同年4月のチェルノブイリ原発事故をきっかけに情報公開(グラスノスチ)を推進。 1986年10月、レイキャヴィク会談での軍縮交渉。 1987年12月、ワシントンD.C.で調印された歴史的な中距離核戦力全廃条約。 レーガンも財政赤字と貿易赤字による「双子の赤字」に苦しんでおり、両者の思惑が一致して米ソの歩み寄りが実現しました。 1989年、ソ連における改革を受けてハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどの衛星国が相次いで無血革命で民主化。 ルーマニアでは長年独裁体制を強いてきたチャウシェスクが、改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成。 東ドイツはベルリンの壁の開放と翌1990年には西ドイツに吸収される形で統一。 ソ連は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して殆ど介入しませんでした。 ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により冷戦状態は事実上崩壊。 1989年12月、地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領が会談し、正式に冷戦の終結を宣言しました。 匿名掲示板のコメントを鵜呑みにはできませんが、光言社の本で「SDI計画の生みの親、ダニエル・グラハム氏」を紹介したにもかかわらず、4Daysセミナー等では「SDI計画は文氏のアイデア」「SDI計画はワシントン・タイムズが提案した」などと真っ赤な嘘を教育しているならば、それは悪質で確信犯的な「洗脳教育」そのものであり、純粋な若者を騙して入教させ、反社会的な活動に従事させる手口は「嘘つきは泥棒の始まり」の見本です。 上記のように冷戦終結の功績はあくまでレーガンとゴルバチョフにあり、文氏の出る幕はありませんでした。 もし皆様の周囲に「文氏が冷戦終結の立役者」だと信じている食口がいましたら、笑わないで、きっぱりと否定して教えてあげてください。 この記事のトラックバックURL:
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/kanteishoku800/diary/200812080000/30e92/
ゴルバチョフは、アンドロポフ書記長の時代から第2書記を務める実力者だった。
チェルネンコ書記長の時代には訪英して、サッチャー女史と会談し、厚い信頼を得た。 西側の善意を一貫して信じる誠意(無邪気さ)が伝わったのだろう。(2008.12.09 17:00:04)
文師がゴルバチョフと会談したのはモスクワでの会談通訳を介してのおよそ30分だけではないでしょうか、それ以前もそれ以後も関係性があるとは思えません。
そういえば同じ頃池田大作さんもゴルバチョフと会談したことを大々的に宣伝していました、教会内では億単位の金を積んだといっていたのですが今考えれば統一教会も同じだろうと思います。 ゴルバチョフは失脚後カーネギー財団の役員として天下りしていたのだとか。 結局彼はソ連の幕引きをするための西側エージェントではなかったのではないか。 ワシントンタイムズなどで媚を売っていた文師がそのルートでゴルバチョフとの会談を依頼したというような図式のように考えていますが(金はばらまいたでしょうね)。 (2008.12.11 15:49:14)
やまきちさん
>そういえば同じ頃池田大作さんもゴルバチョフと会談したことを大々的に宣伝していました、 いいえ、池田大作はもっと早い時期です。大統領に選ばれて4ヶ月後。 文鮮明の訪問は翌年で、クーデター騒ぎの4ヶ月前。 >結局彼はソ連の幕引きをするための西側エージェントではなかったのではないか。 それは結果論ですね。(2008.12.12 19:32:23)
韓定食さん
やまきちさんへのコメントを訂正します。 なお、私のブログでも年表を訂正しました。 冷戦終結、東欧革命よりも後に、文教祖、池田名誉会長、ローマ法王らが相次いでモスクワ詣(もうで)しましたが、 翌年、ゴルバチョフは呆気なく失脚に至りました。 (2008.12.18 23:04:49) ■トラックバック(1)
【人類の連帯を信じる第2書記の登場】ゴルバチョフは、書記長就任よりも前から、西ヨーロッパとの協調に徹する路線を歩んできたと見ることができる。学生寮で知り合ったチェコ・スロバキア人から影響を受けたとも伝えられる。その後、故郷で過ごし、農場経営には精通して...(2008.12.12 20:19:26)
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