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私が原理を信じるようになったきっかけの一つは「同時性再臨論」でした。
第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数 (一)エジプト苦役時代四〇〇年 (二)士師時代四〇〇年 (三)統一王国時代一二〇年 (四)南北王朝分立時代四〇〇年 (五)ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年 (六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年 第四節 復帰摂理延長時代を形成する各時代とその年数 (一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年 (二)教区長制キリスト教会時代四〇〇年 (三)キリスト王国時代一二〇年 (四)東西王朝分立時代四〇〇年 (五)法王捕虜および帰還時代二一〇年 (六)メシヤ再降臨準備時代四〇〇年 (原理講論 後編 第三章) 同時性再臨論は下記のように、歴史が繰り返すには理由があると誘導します。 「なぜ歴史は繰り返すのか? これは難しい問題のようですが、実は理論的に理解することができるのです。」 「ユダヤ教の歴史をキリスト教が反復しているという驚くべき事実」 「神の選民としての使命を持っていたイスラエルがイエスを救世主として受け入れずに十字架で処刑してしまったために、紀元後の歴史はイスラエルに代わる神の選民としてキリスト教を編成して拡大し、イエス(救世主)の「再臨」をめざして『もう一度、歴史をやり直そうとしている!』という驚くべき神の計画(摂理)が人類史の背後に存在する。」 (人類史の大真実 http://www.chojin.com/main.html) BCの時代(原理では「復帰摂理時代」)、ヤコブ(イスラエル)達がエジプトに入ってから、イエス様が降臨されるまでの期間を400+400+120+400+210+400=1930年と教えます。 そして同様にADの時代(原理では「復帰摂理延長時代」)、イエス様から400+400+120+400+210+400=1930年前後に再臨の主が現れると教えます。 そしてこの歴史の秘密を紐解いた人、1920年生まれで少年期にキリスト教に改宗した人、文鮮明氏こそが再臨主だと教えます。 本当でしょうか? 旧約聖書にはこのように書いてあります。 出エジプト記12:40〜41 イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。 四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。 申命記 29:5 わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。 ヨシュア記 5:6 イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。 旧約聖書では、イスラエルの人々がエジプトに住んでいたのは430年で、モーセが荒野でイスラエルの民とさまよったのは40年ですから、イスラエル民族がエジプトに住み始めてから、エジプトを出てカナンに入るまでは470年です。 しかし同時性再臨論では、あくまでも文氏を再臨主だと証明するのが目的ですから、イスラエル民族がエジプトに住み始めてからイエス様降臨までが、470+400+120+400+210+400=2000ではまずいのです。 それで誰が悪知恵を働かせたのか、こちらの聖句を強調します。 創世記 15:13 時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。 原理では創世記の聖句から「400年」を持ち出して、「エジプト苦役時代四〇〇年」と偽ります。 エジプト苦役時代には、ヤコブとその十二子息を中心とした七十人家族がエジプトに入ってきて、それ以来、その子孫たちは四〇〇年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けたのであった。 (原理講論 後編 第四章 第一節) モーセの使命を継承したヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした、十二士師のあとに引き続いて、サムソン、エリ、サムエルに至るまで、合わせて十五士師が、イスラエルを指導した四〇〇年間を、士師時代というのである。 (後編 第四章 第二節) 聖書の権威を利用して、聖書からの引用だと思わせて、実は別の聖句を持ち出し、エジプト苦役時代400年の後に士師時代400年があったと教え、400+400+120+400+210+400=1930と捏造することで、1920年生まれで少年期にキリスト教に改宗した人、文鮮明氏こそが再臨主だと教えます。 それまで聖書と無縁だった私は、このペテンにすっかり騙されて同時性再臨論を信じるようになり、この歴史の秘密を紐解いた方は凄い方だし、もしかしたら・・・と思うようになりました。 ADの時代を原理では「復帰摂理延長時代」と言い、ユダヤ教の歴史をキリスト教が反復していると教えますが、これにも多くの捏造があります。 ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。ローマ帝国の過酷な迫害が終わって、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認したのが西暦三一三年であり、テオドシウス一世がキリスト教を国教として定めたのが西暦三九二年であった。それゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、イスラエル民族のエジプト苦役時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に相当するのである。 (後編 第三章 第四節(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年) 元々ローマ市民はギリシア神話から受け継がれたローマ神話の神々を信じていました。 町にはユピテル(ゼウス)、アポロ(アポロン)、ビーナス(アフロディテ)等の神々の像が祭られていました。 ローマ皇帝コンスタンチヌス1世(大帝、在位306年 - 337年)が311年にキリスト教寛容令、313年に信仰公認令(ミラノの勅令)を出すと、キリスト教は帝国の最大宗教になります。 この頃皇帝の命令で、国費を投じて教会の建設ラッシュが始まりました。 サン・ジョヴァンニ(聖ヨハネ)・イン・ラテラノ大聖堂は、コンスタンティヌス帝が312年に建築した世界で初めての本格的なキリスト教聖堂。 エルサレム聖墳墓教会は、325年頃イエス様の磔刑の場所ゴルゴタに建てられました。 サン・パオロ(聖パウロ)・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、コンスタンティヌス帝が聖パウロの墓の上に建て、386年には大規模に拡張されました。 サン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂は、330年頃に着工され390年頃完成しました。 皇帝自身も335年に洗礼を受けますが、教会の諸活動を支える経費をまかなう為に、農地や工場や商店が教会に寄進されました。 当初は聖職者のみ無税でしたが、教会関係の商店なども税の優遇を受けるようになり、ローマの重税から逃れる為、生活の為にキリスト教徒に改宗する者も多く現れ、かつてのローマ神話の神々の裸像は次々に壊され始めました。 そして392年、キリスト教が国教になると他の宗教は認められなくなります。 以上の様に皇帝自身がキリスト教を支持し、教会建設を命じた時代を「迫害時代」と言えるのでしょうか? 「ローマ帝国迫害時代四〇〇年」は、明らかに歴史の捏造です。 つづく この記事のトラックバックURL:
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/kanteishoku800/diary/200809120000/eeef4/
ローマ帝国によるキリスト教迫害は、ミラノ勅令による公認によって終わった、
ということは(カトリック要理にも書かれているくらい)常識的な歴史だろう。しかし、 原理講論では、公認だけでは「迫害」は終わらず、異教を禁じ、異教徒の口を封じる体制を敷くまで続くものと解したのだろう。 彼らは家族などからの批判を「迫害」と称している。(2008.09.13 15:24:42)
じじい50さん
御意。 統一教会では、反目する人達はサタンで有り、批判や説得を迫害と称していました。 …… 即ち、自分以外の考えは相入れない、独裁的思想であると。(2008.09.14 16:50:54) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |