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1944年、文鮮明氏が24歳の時、鹿島組(現・鹿島建設)の京城(ソウル)支店に電気技師として就職したそうです。
(コメント欄にkokoroさんから鹿島「就職」はありえないとの緻密な分析をいただきました。kokoroさん、ありがとうございます。) 1944年5月、キリスト教の異端とされた神秘神霊主義のイエス教会で、李浩彬の司式で崔先吉さん(18歳)と結婚式を挙げました。 1946年4月(陰暦3月1日)に文聖進さんが誕生。文氏は北へ布教に行きました。 文聖進さんは1973年に結婚。 相手は1960年に祝福を受けた金元弼さんと鄭達玉さんの子、金東淑さん(1955年生まれ) 1948年2月22日、夫のいる金鐘和さんと“子羊の婚姻”の儀式(SEX)最中に現行犯逮捕され、社会秩序紊乱罪で懲役5年。 相手の人妻、金鍾和さんも懲役1年。 統一協会では共産党が宗教抹殺を企て、既成キリスト教団の訴えにより内務省に拘束されたと教えています。 (3)再逮捕 そのような神の愛によって生かされた人々が、その後、教会に集ってくるようになった。金元弼、玉世賢、金仁珠、車相淳、鄭達玉、池承道の諸氏を中心として、40名ぐらいに増えていったが、それと共にその家族と既成教会からの反対と迫害が激しくなっていった。 そのころ、共産党は漸次その体制を固め、宗教抹殺のためのあらゆる作業を進めていた。そのために、1948年2月22日午前10時、既成キリスト教団の訴えにより、先生は再び内務省に拘束されることになった。 1948年4月7日、文先生に対する公判が開かれた。先生は共産警察により頭を刈られ、手錠をかけられて法廷に現れた。そこの傍聴席には多くの既成教会の牧師や信徒たちが参席していた。 そこで文先生は社会秩序を乱したという社会秩序紊(びん)乱(らん)罪で、重労働5年の刑を言い渡された。裁判長は「最後に言いたいことはないか」と先生に尋ねられた。そこで先生は「判決文の中にある『虚構』という2文字を削除して欲しい」と要請された。 (公式HPより) しかし共産党が宗教抹殺を企て、既成キリスト教団が訴えたなら、金元弼ら中心的に布教活動をしていた弟子達や、教会代わりの家を貸していた金鍾和さんの夫、鄭明善氏は何故刑に服さなかったのでしょうか? 結局、“子羊の婚姻”などと言って浮気をしていた文氏と金鍾和さんの二人は、鄭明善氏の告訴によって有罪になりました。 http://plaza.rakuten.co.jp/retreatcenter/diary/200711230000/ http://plaza.rakuten.co.jp/retreatcenter/diary/200711230001/ (4)興南監獄での路程 文先生は平壌の刑務所に1か月半ほど収監されていたが、5月20日、咸鏡南道の興南にあった「徳里特別 労務者収容所」に移送された。 労働する所は徳里から3・5キロメートル離れた所にあり、日本窒素株式会社が昭和2年に建てた「朝鮮窒素肥料株式会社興南工場」のあとで、第二次大戦後、北韓が囚人たちをそこで働かせるようになっていた。 徳里の収容所には約1500名ぐらいの囚人がおり、約6坪の監房に40名ずつ収容されていた。 食事は3回出たが、雑穀で作った握りこぶし大のご飯と粗末な汁だけであった。 収容所から工場までの3・5キロメートルの道を毎日歩いて往復したが、片道2時間かかった。 労働は朝8時から夕方の5時までの8時間であった。 特に文先生が担当した仕事は、硫酸アンモニアの工場で、粉がコンベアで工場の真中に落ちるようになっていて、それをハカリにかけて袋(カマス)に詰め、貨車に積み込むのである。 10人が1組になり、1日に1300袋(1袋40キログラム)やらねばならない。それができなければ食事の半分は減らされた。 ・・・・一握りのご飯のために牢獄に入ってきたのではない。万人の救いの道を開拓するために入ってきた。何よりも神を愛さなければならない。 この収容所にきてしばらくすると、どんな健康な人間でも、極度な過労と飢えとさまざまな病気で2、3年で死んでいくことがわかった。 共産党はそのことを知っていて5年の刑を下したのは、初めから先生を労働させながら殺してしまうつもりであった。 そのため、先生は5年間生き抜く力を何らかのかたちで補給しなければならない。 それで、そこにおいては何よりも貴重な食料の半分を飢えた囚人たちに与え、残りの半分で生きる決心をされたのである。なぜそうされたのか。 それはそのような牢屋での生活をしてみなければわからないと語られる。 死にかけた囚人たちに生命よりも貴く思う食物を与えた時、先生を見つめる彼らの視線が、先生にどれだけの生きる力を与えたことか。精神的慰めになったことか。 またそのような中で朝は定められた時間より早く起床されて、祈祷をされ、体を清め、体操をし、夜も12時以前に休まれることはなかった。 日曜日は休日でみんなは死人のように倒れて寝てしまうが、先生は休まれなかった。 それゆえに、文先生が眠っている姿を、誰も見たことがなかったのである。 さらに差し入れの食物や衣服があれば、それらをみな他の囚人たちに分け与えられ、厳寒の北韓の冬にあっても同じ1枚の古びた薄い服を着ておられた。 (公式HP) 「朝鮮窒素肥料株式会社 興南工場」強制労働(九:〇〇〜一七:〇〇) 私たちが仕事をした工場が、興南肥料工場でした。その肥料工場に行けば、アンモニアがコンベヤーを通って降りてきて、山のように積まれます。 それは熱いものですが、時間が多く経過すると、溶けて、氷のように固まります。 コンベヤーを通じて大きな広場の真ん中に積まれるのですが、その姿は正に滝のようです。 滝の水が落ちるように、真っ白いものがざーっと落ちるのです。 これは、高さが約二十メートルになります。そのような肥料の山があるのですが、それを袋に詰め込むのです。大きな広場に八百人、九百人が出て行いますが、大体、大きな山を二つに分けて置いたようです。 本当に骨の折れる重労働でした。 一組の一日の責任量は千三百かますであって、八時間以内に終えなければ、食糧が半分に減るようになっていました。 一組が十人なのですが、十人の責任量として、四十キロ入り、千三百かますをつくらなければなりません。 指ぬきをはめるのですが、かますをくくっていると穴が開いて、抜けてしまうのです。 一日の責任量が一人あたり百三十個としたら、それは重労働です。 一般社会の人は、七十個、八十個もできないのに、「倍の基準でしろ」と言うので、それは「死ね」と言うことと同じなのです。 そのようにして、それを港で待っているソ連の船に積むのです。数万トンずつ積むのですが、それを毎日計算してしなければなりません。・・・・ (真の御父母様の生涯路程 2) 「半月かかった決心」 先生は共産党の政策をよく知っているから、それにひっかからないようにした。 先生は与えられた御飯の半分で生きる決心をした。人間はパンによって生きるのではないんだよ。 神様からの言葉で生きるんだよ。どうせこの御飯では死んでしまう。 だから、この御飯の半分で生きようと決心するまでに半月かかった。 自分が半分食べてあと半分は配ってあげる。いかに自分が精神的に幸福か。 日々いかに感動の量を大きくするかが問題だ。精神的慰めは実に大きなものだよ。 生活は科学的である。働いても働いていることを考えない。 仕事の時間が祈りの時間だった。いつも世界的に色々な事を探っている。 朝、牢獄を八時に出発して、工場に十時に到着する。十分間トイレの時間が与えられた。 もう死にたい位疲れるのだよ。胃が溶けてしまう程の辛さを感じる。 だからそのことを全然考えない。それを考え出すと、ただ休憩の時間ばかりを頭に描く。 四十キロの中身を入れてそれを持ち上げるのが一番難しい。皆嫌がる。 先生は、みんなが嫌がるこの難しい仕事を自分が担当する。この難しい仕事を自分が担当する。 この難しい仕事を続けたら死ぬ。だからこの一番難しい仕事をやりぬく体力を造るより生き抜く道がない。 みなさんも一番難しい仕事を担当せよ! そういうように前進的に考えよ! 一日に千三百俵以上入れて運ぶのだから、もう休む暇がない。 千三百俵といったらこの講堂(水沢里)よりも大きな山になるよ。考えてごらん、千三百俵だよ。 これを一日八時間でしなければならない。粉を入れて計って袋を移動するのに五分から十分かかる。 平均五分でやった。みんなは十五分かかる。 こんなに時間をかけていたら責任分担を果たせない。 山を崩していくのだから、秤を移動していくのだが、四五メートル以上秤を動かしたら遅くなる。だから余り動かさないで入れるように工夫した。 みんなこれに従わないから、仕方なく自分一人でやる。 そういうふうにやるとみんなやはり良心があるから、先生は千三百俵のうち半分以上は一人でやるから、結局はみんなが従ってくるようになる。 先生は模範労働者だよ。共産党から毎年、模範労働賞をもらった。 その時の体重は一九貫三百(七二キロ)あったよ。今は二十一貫(八一キロ)近くある。 先生は見たところ余りないようだけれど、骨が重いのだよ。 囚人は皆痩せ衰えるのに先生は痩せない。だからみんな研究の的だった。・・・・ (信仰と生活 第四集 P119) 労働は朝8時から夕方5時までの8時間だそうですが、「朝、牢獄を八時に出発して、工場に十時に到着する」そうです。 帰りも3時に工場を出発して5時に牢獄に到着なんてことはないですよね。(笑) 文氏は1袋を仕上げるのに平均5分で作業し、他の囚人は15分かかったそうですが、1袋5分なら1時間で12袋、8時間で96袋です。 1袋15分なら1時間で4袋、8時間で32袋ですから、一日の責任量が一人あたり130袋なら誰も達成できないことになります。 しかし文氏は「先生は千三百俵のうち半分以上は一人でやる」と語っています。(笑) ノルマを達成できなければ食事の半分を減らされたそうですが、計算上ではノルマは絶対に達成できませんからこれも嘘でしょうか? 息をするように嘘をつく韓国人らしい説教ですが、文氏の説教はコロコロ変わるので、もう何が本当なのかまったく分かりません。 統一協会では、共産党が過酷な労働をさせて、メシヤ殺してしまうつもりであったと教えていますが、差し入れが認められたせいか、文氏の栄養状態は良かったようです。 やはり共産党の真の目的は、人妻との浮気で懲役5年の囚人を殺すことではなく、港で待っているソ連の船に肥料を積むのに必要な労働力として「こき使う」ことにあったのでしょう。 この記事のトラックバックURL:
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/kanteishoku800/diary/200808130000/fce0a/
いつも、大変分かりやすく文鮮明の偽りを説明して下さり、有難うございます。
まさか人妻との浮気で有罪になったとは、現役時代は思ってもみなかったので、本当にびっくりしました。崔先吉と夫婦であるにも関わらず、入教間もない金明煕を妊娠させた件といい、この理性のなさは、汚い表現になりますが、盛りのついた犬状態ですね。本当に呆れました。(2008.08.14 10:32:28)
こんにちは、姜徳相著「朝鮮人学徒出陣」を読んで文鮮明の「就職」(鹿島)はありえないと思います。すこし長くなりますが、ごめんなさい。
当時の情勢は、1943年9月21日時の首相東条英機は非常体制下、根こそぎ動員の方策として法文系大学と専門学校の徴兵猶予の停止に言及。10月25日から11月5日までに臨時徴収検査がおこなわれた。これが日本人の学徒出陣です。9月30日文鮮明は早稲田高等工学院を戦況悪化のため半年繰り上げて卒業させられます。そしてすぐ半島に戻ります。 朝鮮総督府は10月25日から朝鮮人学徒の兵役志願を受け付け、11月20日締め切り、12月12日〜20日徴兵検査、44年1月20日入営であった。志願といいながら実際は強制的なものであり、既卒者も対象としたもので、11月に入ると関釜航路の船内で官憲が非志願の学生を捕まえて志願書を強制的にださせるなど、強行手段がとられたのでした。そのとき文鮮明は既に半島に戻っていたので捕まる事はなかった。半島内では、11月28日、未志願者に対し、応じなければ「2年以下の懲役千円以下の罰金」が発された。こうして未志願者は12月5日京城第一志願訓練所にあつめられた。こうして集められた未志願者は「応徴士」とよばれ、12月23日まで囚人服でおもに精神教育を強要されたのであった。応徴士の数は当時の適格者志願統計の在朝鮮96%、帰省組93%から逆算した未志願者全員となると139名になるが、就職者、既卒者を配慮すると算出不能となる。実際入所したのは350名ぐらいのようであった。これを第一次応徴士といい、さらにその後第2次応徴士が百名以上うまれいる。これには日本で隠れていて逮捕された学徒も含まれていた。彼らは修練後、交通局、三井油脂化学、小野田セメントで働かせられた。続きます。 (2008.08.15 08:13:50)
さてここで、私の推測を紹介します。江本が鹿島に「就職」する時期(1944年初め)と応徴士が半島の企業に徴用されていく時期が一致します。私はひょっとしたら、江本は応徴士として、鹿島に徴用されたのではないか、と思いネットで検索しました。
ありました。戦前型会社企業官僚論. −雇用経営者:財界理論派闘士 前田 一 の活躍(その4)というPDFファイルの34ページです。鹿島は半島で応徴士を雇用していました。鹿島では「応徴」といっていたようです。昭和17年52名、昭和18年37名以後はその数が増大していったという記録がありました。 さらに、姜徳相さんの資料によれば官公庁資料に「陸軍特別志願兵非志願兵勤務状況調査」(1944年4月20日)というのがあるそうです。ここに個人名があるかどうかですね。もしあれば、江本はみっともない話ですが、早稲田高等工学院卒業後、徴兵逃れで半島に隠れていたが、逃れきれず出頭して鹿島へ応徴士として雇用された可能性が高いと思います。 韓定食さんのご意見をお伺いしたいと思います。 長くなってすみません。・(2008.08.15 08:15:50)
じじい50さん
>× 早稲田高等工学院 >○ 早稲田高等工学校 ----- 訂正ありがとうございます。文面で「文鮮明」が途中から「江本」にかわりましたが、同一人物です。(2008.08.15 17:09:06)
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