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統一協会では、昔の日本がサタン側の国であり、韓国を残酷に迫害したと教えています。
善良な日本食口に贖罪意識を持たせて支配する為に、何度も繰り返し教えます。 韓国は、四十年間日本の支配を受けなければなりませんでした。 日本は、サタン側の女性国家でした。四十年期間に日本は韓国のすべての文化的伝統、そして甚だしくは韓国の言語までなくそうとしました。 先生自身も、その期間に日本人たちによって投獄されました。 そのように日本政府によって投獄され、抑圧を受けた韓国人たちがたくさんいました。 (真の御父母様の生涯路程1より) 西暦一九一〇年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし、一九一九年三月一日韓国独立運動のときには、全国至る所で多数の良民を殺戮した。 さらに、一九二三年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。 一方、数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。 日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。 このように、三・一独立運動で、あるいは満州広野で倒れた民衆は主としてキリスト教信徒たちであったのであり、さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。 それだけではなく、八・一五解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。 しかし、日本の天皇が第二次大戦において敗戦を宣言することによって韓国民族は、ついにその軛から解放されたのである。 このように韓国民族は、一九〇五年の乙巳保護条約以後一九四五年解放されるときまで四十年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。 そして、この独立運動が主に国内外のキリスト教信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト教信徒たちであったことはいうまでもない。 (原理講論 後編第6章より) 統一協会では韓国のキリスト教が日本に迫害されることで「キリスト教=選民」の資格を得たと教えます。 しかし実際には李朝朝鮮の時代にこそ、世界史上最大規模のキリスト教迫害が行われたのであり、日韓併合の時代にキリスト教は発展し、キリスト教系の病院や学校が多数建てられました。 <朝鮮キリスト教> 年次 /キリスト教人口/ % /国民人口 1794 / 4000 1801 / 10000 1857 / 15000 1866 / 23000 1883 / 12035 1890 / 17842 / 0.18% / 1000万 1900 / 60522 / 0.60% / 1000万 1910 / 240869 / 1.78% / 1300万 1920 / 305549 / 1.77% / 1726万 1930 / 415071 / 1.98% / 2043万 1940 / 522000 / 2.21% / 2354万 <以後韓国のみのキリスト教人口> 1950 / 857668 / 4.1% / 2000万 1960 / 1623396 / 6.4% / 2500万 1970 / 3037047 / 9.7% / 3100万 1980 / 7176472 / 19.3% / 3735万 1990 / 12649403 / 29.1% / 4342万 統一協会の教理に反して、韓国がキリスト教国家と呼べるようになるのは、人口の4分の1が信仰を持つようになった1990年以降のことです。 李朝時代の朝鮮王室は閔妃一族の横暴がひどく、無計画な浪費と贅沢の為に、外国から莫大な借金をしていました。 売官は常識で、知事級は2万〜5万両、市長級は2万3千〜4万5千両、郡守、県令級は千〜2千両で売買されていました。 多くの国民が貧困に苦しむ声は彼女には届きませんでした。 日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、閔妃一族の勢力は力を失います。 そのため閔妃は、親ロシア政策をさらに推し進めていき、1895年7月6日にロシア軍の力を借りて権力を奪回します。 その後、閔妃に不満を持つ反対派の武装解除等を行った為、大院君や開化派勢力、日本などの反発を招きます。 そして1895年10月8日、閔妃は大院君を中心とした開化派武装組織によって景福宮にて殺害され、その遺体は焼却されました。(乙未事変) 日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられ、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放されました。 なお朝鮮政府は三浦らの公判中の同年10月19日に李周会、朴銑、尹錫禹ら3人とその家族を犯人およびその家族として処刑しました。 <1888年の南大門大通り> <1897年の南大門> 政治の混乱と貧困の原因であった閔妃が暗殺された後、日本の朝鮮への影響力は強まります。 朝鮮は中国の属国から独立し大韓帝国を名乗りますが、やがて日本の保護国(植民地)になります。 伊藤博文が韓国統監になった1905年から3年間、彼は日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、水道、土木工事、鉄道、病院建設に充当しました。 <1910年の南大門> 李朝朝鮮時代の約500年間に4校しかなかった学校が、日本のお金で100校以上建てられ、日韓併合下の1936年には2500校、1944年には5213校に達し、李朝朝鮮の両班から蔑視されていたハングルを必修で学ばせました。 日本の(お節介な)学校教育がどれほど素晴らしい事だったかは、アメリカ、イギリス、フランスの植民地だったフィリピン、インド、ベトナムと韓国、台湾の現在を比べれば分かるのではないでしょうか? 文氏の語った「文化的伝統、そして甚だしくは韓国の言語までなくそうとしました」は真っ赤な嘘であり、ハングルを奪うどころか教えていた併合時代の写真もあります。 http://f17.aaa.livedoor.jp/~kasiwa/korea/photo/hg.html 大韓帝国の国家歳入が784万円(1905年)しかなく、自力での鉄道敷設が夢でしかなかった時代に、京仁線・京釜線・京義線・馬山浦線の建設費、合計6638万円を日本が負担し、韓日合邦、韓日合併を提案した韓国の政治団体・一進会(100万人会員)の協力もあり鉄道を敷設しました。 近代的な病院と上下水道を整備し、衛生環境を向上させたおかげで平均寿命が26歳から42歳になりました。 医療制度が確立し、伝染病の予防がおこなわれました。 1910年から徹底的な検疫を実施し、コレラ、天然痘、ペストなどは、1918年〜1920年の大流行を最後に押さえ込まれ、乳児死亡率が激減しました。 李朝朝鮮時代は、現在の北朝鮮同様、森林を破壊するだけでした。 定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、冬には暖房の為に乱伐します。 そこに豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまいます。 森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつとなって、農業生産は崩壊します。 治水の前に治山が必要という寺内初代総督の方針で、朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行いました。 植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、内地(日本)にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模で総合的な国土開発事業が展開されました。 これらの結果、水田開発が進み、1910年の84万町歩が、1927年には162万町歩と倍増しました。 宇垣一成総督による「農産漁村振興運動」などの民生向上活動では、30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られ、1910年の生産量が約1千万石であったのが、1930年には、約2千万石に倍増しました。 近代的な警察と裁判制度も導入しました。 3.1運動の時には、キリスト教を隠れ蓑にして集会する運動家のうち、暴徒と化して学校、役場、民家、警察に放火狼藉を行うものは射殺しました。 取り締まった警察官ですが、当時朝鮮半島全土に約7000人いた警察官のうち、約4000人が朝鮮人だったので、当然、暴徒の射殺や犯人の拷問も行いました。 独立運動時の朝鮮全土の死者は総督府の発表では553人でしたが、当時上海に亡命していた朴殷植(パクウンシク)が反日プロパガンダのために出版した『朝鮮独立運動の血史』では7509人と書かれています。 朴殷植自身が「今回の独立運動は日本の厳密な秘匿のため、運動の詳細、確実な実態調査を得る事は難しい。いわんや海外にあって、ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであって見ればその事実調査の困難性は、推して知るべきであろう」と書いており、数字の不正確さを認めています。 後日、終戦により独立政府の主張する「死者7509人」が韓国の史実となり、多くの人がそれを信じてきましたが、朴殷植本人の言葉通り根拠のない数字です。 関東大震災時の日本人が、火事場泥棒や狼藉を行った朝鮮人を殺しましたが、同じように朴殷植によって数十倍に水増しされて、韓国の史実になりました。 3.1運動で逮捕、投獄された独立運動のリーダー達は、孫秉煕(ソンビョンヒ)、崔麟(チェイン)等8人が僅かに懲役3年、崔南善(チェナムソン)等6人が2年6ヶ月で、有罪となったのは37人に過ぎません。 この刑の軽さから分かるように、日本がもたらした裁判制度は公正であり、独立運動は日本にとって大きな脅威ではなく、神の心情の対象になるような、世界一過酷な迫害でもありませんでした。 当時は白人が黒人を奴隷にして、死ぬまで酷使した時代であり、インド独立戦争(1857〜1859)ではイギリスが植民地インドの全国的な反乱を押さえましたし、米比戦争(1899〜1913)ではアメリカがフィリピン人市民を大量虐殺(60万人とも言われる)して植民地にしました。 こうした西欧諸国の植民地政策に比べれば、日本の朝鮮統治は比較的緩やかであり、日本は朝鮮に国税を投入して、道路、鉄道、通信、医療を整備して、農漁業と重工業を興して、社会のインフラを整備して工業国家としての基礎を築いただけでなく全国に学校を建て、全国民に義務教育を徹底して、食糧増産に成功して、乳児死亡率を激減させた為、1910年に約1300万人だった人口は、1942年には2倍の約2552万人に増えました。 <1936年の南大門通り> <1940年の南大門> 以上のように日本による統治時代は、イスラエル民族のエジプト苦役の時代や、ローマのキリスト教迫害のような時代ではありませんでした。 この時代は韓国人が言うような日帝に搾取され迫害された時代ではなく、日本の国税によって朝鮮が大きく発展して近代化した時代でしたから、文氏の説教や原理の解釈は歴史の歪曲です。 この記事のトラックバックURL:
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/kanteishoku800/diary/200806210000/273c1/
米国は日系市民を敵性集団とみて収容キャンプに予防拘禁しました。即物的。
併合した隣国の住民に「戦勝祈願」を要求した国は、日本だけでした。 日韓の確執には宗教戦争の一面がありましたね。 (2008.06.22 14:52:27) ■トラックバック(1)
●現代のジュングンがイチローを殺す?2009年WBCは日韓対決を日本が制して幕を閉じた。イチローの「相手が向こう30年は手を出せないなと思うぐらいの」という発言は、もちろん韓国を名指しにしたものではなかったにせよ、もともとケンカ腰の相手を刺激するに十分だった...(2009.05.09 16:58:46)
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