交流会の様子。中央が蒲豊彦氏、右が和仁廉夫氏、左が筆者。
昨年12月27日、香港で紀念抗日受難同胞連合会(簡兆平会長)の主催による「蒲豊彦教授演講交流会」が行われ、私も参加の機会を得た。
蒲氏(京都橘女子大学教授)の講演は、25〜26日に訪問した華南・三竈島(さんそうとう(「竈(かまど)」は中国文字では「火偏に土」。現在は埋め立てられて陸続きとなり、広東省珠海市に属する)をテーマとするもの。世界地図では点にもならないほどの小さな島(大きさは伊豆大島ほど)で日中戦争時に何が起こったのか、同氏の講演内容をかいつまんで紹介したい。
華南・三竈島で起こったこと
蒲氏は2000年に『南海の軍閥・甘志遠―日中戦争下の香港・マカオ』(凱風社刊)を出版している。甘志遠は1910年生まれ、日本占領下の香港で自分の船と私兵を持って大陸と香港・マカオ間の貿易・海上運輸業を営み、「南海一の海賊の親分」という異名をとった人物で、蒲氏は彼の研究を進める途中で三竈島のことを知ったという。
「戦時の三竈島については3つの特徴が指摘できる」と蒲氏は語った。
まず第一は、日本海軍が同島を占領し、軍用飛行場を造ったこと。それまで日本軍は華南においては陸上航空基地を持っていなかったので、これは戦略上、大きな意味を持っていた。
第二に、日本ではほとんど知られていない島民虐殺が行われたこと。第三に、そのあと、日本政府が沖縄から約90家族400人の農業移民を送り込んだこと。
日本海軍航空基地建設とその役割
日中戦争において日本軍は華北・華中でそれぞれの街を直接占領したが、華南は中国側の抗戦力の生命線となっていた。それを断ち切るために1937年8月、日本軍は東南海沿岸を封鎖し、広東方面へ空襲をかけたが、華南に航空基地がないため台北から出撃せざるをえなかった。そこで、三竈島に陸上航空基地を造ることを決意、1938年2月に島の東側の蓮塘湾から上陸して13の村を破壊し、飛行場建設を進めた。同年6月には主滑走路(1200m×60m)と副滑走路(800m×40m)、10の格納庫、病院その他の施設を持つ飛行場が完成していた。
左:魚弄村にある千人墳。右:茅田村にある万人墳。
中国側の資料によると、その間、日本軍は全島36の村に火をつけ、魚弄村で586人の全住民、茅田村で8000人余を殺害したという。これが三竈島事件と呼ばれるもので、現在、魚弄村には千人墳、茅田村には万人墳(三竈島3.13死難同胞記念碑)が建てられている。
日本側の資料には、同年6月、「上表村(飛行場近くの村)から20人の(現地)女性が逃げだそうとしたので、そのうち10人を捕まえて『処分』した」「中国ゲリラが日本軍を襲撃して武器を奪った」などの記述があるという。
三竈島の飛行場が完成すると、すぐに航空部隊が配備され、6月4日の広九鉄道や広東市への爆撃を皮切りに次々と出撃し、39年1月には海南島を攻略した。
軍の食糧生産のための沖縄移民
沖縄からの農業移民が初めて同島に渡ったのは39年10月である。同島への移民がすべて沖縄から導入されたのは、暑い気候に慣れているからだろうと、蒲氏は言う。彼は、同年7月17日付の『沖縄日報』の記事をスライドで示しながら「○○島へ50家族」という見出しの「○○」は三竈を指すと説明した。軍事機密上、島の名称は伏せ字にされていたのだ。
移民は1次と2次にわたって行われた。1次移民の戸主50人に半年遅れて、その家族が到着。彼らは島の北部の3つの村に分かれて住んだ。
移民の目的は日本軍航空基地への食糧供給だった。普通、占領地において日本軍は住民からの徴発で食糧を賄っていたので移民は必要なかったが、三竈島では住民の多くを殺害してしまったため移民が必要になったのではないかと、蒲氏は推測している。
2次移民45人が41年4月、43年にその家族が到着し、さらに3つの村を形成。総勢約400人が日本敗戦の45年8月まで、稲作を中心とする農業に従事した。
当時、生き残った島民(中国人)たちは島の西南部(飛行場の近く)の6つの村に居住していたことがわかっている。日本人(沖縄移民)と中国人の村の配置から考えられることは、中国人を日本軍の管理しやすいところに集め、かつ、抗日ゲリラと地元住民との間に沖縄移民を配置することによって、ゲリラと住民との関係を絶とうとしたのではないかと、蒲氏は語った。
日本敗戦ののち、移民たちは全員、広東を経て珠江の中洲である長洲島で収容所生活を送り、46年3月に帰国した(沖縄における私の聞き取りでは、収容所の中で栄養失調や病気で亡くなった人も多く、特に体力のない子どもたちが犠牲になった)。
上表村に残る日本軍慰安所跡。
日本人犠牲者の慰霊碑も
蒲氏の講演のあと、フリージャーナリストの和仁廉夫氏が、現地で撮影してきた写真を上映しながら報告した。現在は珠海空港として使われている日本軍飛行場跡(規模は現在のほうがはるかに大きい)、千人墳、万人墳、一大工業地帯となっている現在の三竈島の様子、上表村に今も残る日本軍の慰安所跡……。
万人墳では05年、抗日戦争勝利60周年の記念イベントが行われ、その直後に同地を訪れた和仁氏は、香港の三竈島同郷会が献花した花輪を目撃したという。「この人たちを探し出せば話を聞けるのではないか」と、彼は参加した香港市民に問いかけた。
飛行場建設に従事中、事故に遭ったという日本人犠牲者の名前と「慰霊」の文字を刻んだ巨石が「三竈日本文字摩崖」と名付けられて、珠海市の文化財に指定されている。「秘密に造られた基地の犠牲者なので家族にも知らされていないのではないか? 人名は風化して読みづらくなっているが、遺族を探し出すことは今後の課題だ」と彼は提起した。
歴史をどう伝えていくか
講演会には、核兵器の廃絶を訴えている広島・長崎からの香港・マカオ訪問団も合流していたので、その後、香港人、日本人を含めた意見交換となった。
主催者の簡会長が連合会の活動について報告し「日本侵略の歴史について次世代に伝える使命がある。香港の若者は歴史をあまり知らないので、強制連行、慰安婦、軍票など個別のテーマについて学校で講演したり、講演の感想文コンテスト、パンフレットの作成などを行っている。これは中国大陸ではやっていない活動だ」などと話した。
香港のある議員は、「香港からも2万人が海南島に強制連行されて米軍の爆撃で殺されたり、山に逃げて餓死したりした。体験者は話したくないと言う人が多いが、伝えていかなければならない」と語った。
私は、沖縄で三竈島移民たちの聞き取りをした経験から、「沖縄移民たちは、三竈島はいいところだった、中国人は友好的だったと口を揃えるが、現地住民からはどう見えていたのかを知らないと一面的になる。沖縄は被害の面を強調されることが多いが、加害の側面からも考えていかなければならないと、今回、現地訪問して改めて感じた」と言った。
参加していた日本人はみんな、三竈島のことは初めて聞いたと驚いていたが、実は香港でも中国でもほとんど知られていない。まだ明らかにされていないことも多いが、それぞれの場所で今後どう伝えていくか。それは参加した全員の共通の課題だということを確認し合った。
※以下の写真はクリックで拡大します。
紀念抗日受難同胞連合会の簡兆平会長。
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