数あるNPOの中で突出して有効な活動を行ない、活動開始から3年で自殺対策基本法の成立にまでこぎ着けた、
ライフリンクの清水康之代表。
僕が最も尊敬する人物の一人です。
ライフリンクが主催する東京ビッグサイトの国際会議場・大会議室で800人以上集めるイベントに、今年もまた出席させていただきました。
声がかかるたびに、こうした仕事で声がかかるような状態が早くなくなればいいな、と願わざるを得ません。
だから、ここで告知することも躊躇していたのですが、清水康之氏をサポートするために、ここに報告させていただきます。
概要はNHKの当日夜の「日曜日のニュース845」で流れました。
以下のリンクから該当部分を閲覧することができます。
「日曜日のニュース845」
ライフリンクの活動については、ホームページをご覧ください。
自殺対策支援センター ライフリンク
シンポジウムで僕が述べたことを要約します。
まず、以下のような関連データを掲げました。
1)日本の自殺率は英国の3倍、米国の2倍、西側先進国では突出して第1位です。
2)日本の個人あたりGDPは5年前まで世界第2位なのに、当時も自殺率先進国第1位でした。
3)日本の道路予算は、縮小された現在でも、英独仏伊の道路予算を合わせた額とほぼ同額です。
4)日本の教育費は、OECD比較データによると、他の先進国が5%台なのに、3%台半ばに過ぎません。
5)日本の子育て支援費は、OECDデータによると、他の先進国が3%台半ばなのに、1%台半ばに過ぎません。
6)日本の就業時間は、他の先進国が1300〜1500時間なのに[米国のみ、1700時間台]、1900時間台に及びます 。
次に、こうしたデータから以下のような実態が見えると言いました。
・日本は、経済を回すために、社会を犠牲にしてきた。
・社会の穴を、辛うじて回る経済によって、埋め合わせてきた。
・だから、経済が回らなくなった途端、社会の穴が随所で露呈した。
・金の切れ目が縁の切れ目の社会を治さない限り、今後も経済次第で人が死にまくる社会が続く。
・だから経済成長によって全てが良くなるという経済学者竹中平蔵的ビジョンは、ポンチ絵に過ぎない。
・結論:「経済を回すために社会を犠牲にしてはならない。国家も経済も社会を回すためにこそある」(その限りで経済も重要)。
これを政治学の理論で補完すると以下のようになります(最近書いた文章を抜粋します)。
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今日の政治体制は、
権威主義(まかせる政治)か参加主義(引き受ける政治)かという軸と、
談合主義(コーポラティズム)か市場主義(自由放任主義)かという軸を、かけあわせて記述できます。例えば、ヨーロッパは全体として参加主義的談合主義であり、アメリカは参加主義的市場主義です。ヨーロッパ型が標準的で、アメリカ型は特殊だと言えます。[図表]
アメリカが市場主義でやれるのは宗教国家だからです。つまり、ロバート・ベラーがいうように「市民宗教」があるからです。分厚い教会やNPOやボランティアの活動があるということです。ヨーロッパ型が標準的だというのは、アメリカのような宗教国家が例外的だからということと同義です。
ヨーロッパで保守と言えば、フランス革命つまり市民の自由を懐疑するという意味で、アメリカで保守と言えば、アメリカ革命つまり合衆国憲法が保証する市民の自由を護持するという意味です。だから
ヨーロッパでは、保守すべきものが「談合主義」となり、
アメリカでは、保守すべきものが「市場主義」(プラス市民宗教)となる。そう見れば分かりやすいでしょう。
逆に、ヨーロッパでリベラルと言えば、国家を懐疑するという意味で、アメリカでリベラルと言えば、市民の自由を懐疑するという意味になります。そうした違いはあれども、両方とも共通して参加主義に貫かれています。だから、ヨーロッパの談合主義といっても、
日本のような密室談合でなく、全てをオープンにした談合になるわけですね。
日本をマッピングすれば、自民党政治は長らく権威主義的談合主義でした。
権威主義的談合主義は、談合主体が共同体から信頼されている場合はうまく機能しますが、信頼を失うようになると「誰かがどこかでウマイことやってる」という疑心暗鬼が蔓延します。それで、小泉改革で「既得権益打破=談合主義打破」となって、市場主義化したわけです。
加えて、
密室での談合を推奨する権威主義的談合主義は、内部で政官財の「鉄のトライアングル」を前提にした「貸し借り関係」(こないだアンタに譲ったからこんどはオイラ)のオンパレードになります。「貸し借り関係」に拘束されることは過去に拘束されることです。ゆえに、流動的な環境への適応力や学習力を失うことになります。これは非合理です。
ところで、市場主義がうまく機能するには参加主義が前提となります。市場の負の外部性を「事後に」ボランタリーに補完する市民宗教も参加主義(共和党的参加主義)だし、市場の前提である機会の平等を「事前に」確保すべく再配分要求するのも参加主義(民主党的参加主義)です。小泉的市場主義には、両方欠けていたのでメチャクチャになりました。
こうしたマッピングを踏まえると日本が抱える問題が明らかになります。
日本の労働組合が非正規労働を放置したのは、ヨーロッパのような参加主義的談合主義としてのコーポラティズムが不在だからです。
日本の市場主義が格差を事前ないし事後に手当てしないのは、アメリカのような参加主義的市場主義が不在だからで、格差がそのまま放置されます。
「ウェルフェア・クイーン」という言葉で有名な
ミルトン・フリードマンは、市場原理主義の総帥として知られていますが、その彼でさえ、教育と医療については市場化してはならない、さもないと市場の前提が崩れてしまう、としていました。サッチャー政権のネオリベ政策も、この二つを崩したので、ニュー・レイバーにとってかわられました。
日本はどうかというと、すでに一九八〇年代の後半の段階で、東京大学の新入生の親の平均年収が、保護者が裕福であることで名高い慶應義塾大学の新入生の親の平均年収を抜くという事態が起こっていました。ところが、
それから二〇年間何の手当てもなされず、そのことを呪う世論もなかったわけです。
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ちなみに、
自民党には人材的にほとんどクズしか残っていない状態です。
前回負けた民主党とそこが違っていて、思えば旧経世会の枢要な人材は殆ど全て民主党の側に残りました。
麻生と安倍が主導した選挙のネガティブキャンペーンも2ちゃん系ウヨ豚と同じレベルだったので墓穴をほりました。
これが麻生太郎と安倍晋三のレベルで、彼らを党首ならびに総裁として仰いだ自民党の議員のレベルです。
ゆえに自民党の復活はないだろうと思います。
それよりも、
半分に割っても、自公の合計よりも衆院議席の多い民主党。
自民党復活よりも、小沢幹事長(予定)を中心とする政界再編の方が現実的です。
(来年の参院選で民主党が単独過半数を獲得すればそのときは……)
懸念があるのは、難しい時代の政治は、
政策論的な賢明さと、
政治過程論的な賢明さを、両方要することです。
政治過程論的な賢明さとは、何かを実現したいとき、どんなボタンをどんな順番で押すべきか、という知恵です。
松下政経塾系が前者を競い、小沢一郎系が後者を競う、というあり方は、両者が結合したときに強力になります。
しかし、
民主党が、政策系と、政治過程系とに分裂するのであれば、再び政治的な空白が訪れることになります。