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今年はどうだろう。
そういえば、交代メンバーいないんだなー。
それは比喩か本当か…
逆に、知らない部分を眩しくしているだけかもしれない。
僕は「同程度」と思うなあ。
少し労働。
帰宅すると領収証が来てたから出張手続き完了。
往復飛行機代のいくらか+1/day。意外と。
まあ、例年なら必要ないはずの費用だから、当然なのかも。
ちゃんと勉強しよう。
自転車に100均オイルをさしたら変速しやすくなった。
あと、後輪の振れはスポークのせいではなくて軸受けのせいだ。直したいけど工具がないと直せない。
100均モンキーレンチはボルトを回転させることなく、わずか5秒で壊れた。
さすが100均。笑ってしまった。
多面体定理とハルヒで検索したら、普通に今日立ち読みしたハヒルもといハルヒが転がっていた。びっくりした。
見慣れないドメインだと思ったらロシアだった。びっくりした。
以下雑感:
1.一筆書き可能性と多面体(オイラー標数)は「トポロジーの話」という程度にしか関係ない。
2.オイラー標数の次元は「外の空間」の話ではない。だからD-1のDはおかしいし、あの場合の多面体は「3次元の図形」では「ない」!
あの場合の多面体は、2次元のユークリッド空間には埋め込めない2次元空間(適当な補助線を足せば、3次以上の単体を持たない単体的複体)である(それが3次元の空間に埋め込まれている)。
数学をこういう小道具に使うのは気に食わない、と昔から思う。
そんなんだからハヒルなんだ←
なぜ他人がそれを出来るのか、全く分からない。
自分の中で比較的うまく行っていることについて考えると、自制によって何らかの目に見える結果が伴う場合には、自制のモチベーションが維持できる(これはまさしくモチベーションだ)。
そうでなければ、自制をするのは難しい。
まあでも、カッとなって人を刺すとかいうことは、自制するまでもなくあり得ない。そもそも、かなりキテるときじゃないとカッとならない。
電車着いた。またあとで考えよう。
帰りは自転車ごと車に乗せてもらえた。らっきー。
低俗であるかどうかは分からないけれども、僕が享楽主義者であるのは間違いない。
といっても、たとえばシャブ(ピー)みたいなことはしないけれども。
低俗であると言うのは非常に簡単な一方、低俗とは具体的にどういうことなのかというと、かなり難しい。
実際、僕は「低俗なもの」にこそ高邁さを見出せるとすら思っている。
ちょー簡単に言うと、ドブネズミみたいに美しく生きたい、ということだ。
自己顕示をするなら、まっとうに本名でやったほうがよっぽどよい。
こんなところでわざわざ「自己顕示」をしても仕方ないし、意味もない。
それが「自分」であるかどうかなんてどうでもいいし、自分の評価が重要な訳でもない。(他人からの評価に関する興味はあるけれど。)
みんな暇なんだなー、とおもう。
権利は主張しなければ使えないということ。
権利に限らず、意思を表明しなければ、慮って貰える可能性は減るということ。
それぞれの人は自分勝手である、ということ。
結局、「泣き寝入りするんじゃない」ということになるんだろうか。
でも、当然、それは一般論にはなり得ない。
その「選択」はどこでするべきか?
とりあえず、本当の意味での教育は自分の責任が明確な範囲で、ということになる。
何にしても、「お節介はよくない」ということか。
「ひこねのよいにゃんこ」は実際に存在しないけれども、実際に存在する。
ゴジラが実際に存在しないけれども、実際に存在するように。
何かが「在る」と言うとき。
実は「自分が今触れているもの」以外の存在を仮定することで初めて「在る」という言葉が成立している。
何かがずっと同じように触れ続けているなら、何も感じることはできない。何かを感じたならば、そこには変化があるということ。
変化があるということを詳しく言えば、「それまでは触れていたが今は触れていない何かがある」ということで(その「何か」が量的に変化したか質的に変化したかを問わず)、自分が今触れていないものの存在を仮定するから「在る」という言葉が使える。
さて、自分の感じるものが世界の全てであるということはある意味で正しいが、自分の思い通りにならないという点において、自分を超えた何かが「在る」。勝手な変化を生じさせる何かの「存在」を疑うことはできない。それを疑える人は、もはや人間ではないだろう。
この路線で行くと、どうしてもひこにゃんからずれてしまう。
まあ、とりあえず断片だけ。
やっぱり、思考のメモを残しておくのは大切なことだ。
なぜこの形式だとメモにしやすいのだろう。
そもそも、思考の対象であるとはどういうことかというと、それは「外から」見ることができる、ということに他ならない。
言い換えれば、それを体験できるかどうか、ということではない。
体験を思考の定義とするなら、(何度も言ってきたように)「体験しているまさにその時以外は思考することができず、それゆえ思考という言葉は何の意味も持たない」からだ。
僕の記憶の「はじまり」は、胎児の時ではない。
もちろん「形跡」は脳に存在しているのだろうけれども、明確に思い出すことはできない。
どうやって記憶を思い出しているのかといえば、それは脳に「刻み込まれた」情報による。
では、まさに今の自分の脳と同じ形の脳を作ったとすれば、その脳は何を思うだろう?
我々は、いま自分が存在していると思っているけれども、「自分の過去がたしかに存在した」という保障はどこにもない。
記憶が常に正確な神様にとっては、voidと他の概念の区別は確かに存在しうる。
しかし、「すべての事象を同時に扱うことができない」我々にとっては、概念というのはすべて等しく「何の実体も持たない」ものでしかない。
お腹がよじれるほど笑ってしまった。
この「お腹がよじれるほどの笑い」というのは、現象としては確かに存在するように思えるが、この文から「他人」の読み取る「お腹がよじれるほどの笑い」は、今僕が体験したものと一致するだろうか?
あるいは、二時間後、再び僕がこの記事を目にして「ああ、ジャスコの爆笑コメントでお腹がよじれるほど笑ったなあ」と思い出したとき、そのときに追体験する「お腹がよじれるほど笑ったこと」は、まさしく体験したものと一致するだろうか?
その答えがノーであることは、少なくとも僕は肌で感じ取っている。
二時間後の僕の精神状態も体調も、今とは変わってしまっているから。
それは、二時間が一秒であっても、十時間であっても、二十年後であっても、本質的には変わらない。
だから、ある概念について「言葉に本質はない」と言うなら、それは何にでも「同程度に」適用できてしまう。それこそ、「唯幻論」とでもいうことになるだろう(本当の唯幻論についてはよく知らないし、意味も大分違う気がするけど)。それは対象がnilでも同じこと。
こういうニヒリズムは、「ある意味」既に克服されていて、一つには哲学(または人間の精神の理性的な営み)は「純粋な言語ゲーム」であるという見方がある。
必ずしも言語に依存しない方法も提唱されてはいる。例えば、「事象そのものへ」という見方がある。しかし、確かにそういう見方は存在するけれども、それが「他の人物との対話」を含む以上、究極的には記号のやり取りに還元されてしまう訳で、どうしてもその壁を越えることはできない。
ところで、哲学を「純粋な言語ゲーム」と見る場合、「事実上、我々は論理の通用する世界に在る」ということをどう解釈すべきなのか?
練習30min。成長の実感があるのは嬉しい。
手続きとりあえず完了。今週末~来週頭を乗り切れたら勝ち。
でも、書類を届けなきゃいけないと思うと、割と微妙説も。
まあしかし、結局去年と同じペースでお出かけとは。今年は飛行機だから、去年よりは相当楽だけど。
出張費、結局どこまで出るのか分からない。ホテルに泊まるべきなのか。
明日は自転車で行くとして、帰りをどうするか。
自転車→半日→自転車 だと、ついご飯を食べ過ぎてしまいそうな予感。
しかし明後日はおしごと。
体脂肪率が2%落ちた。
この調子で行けば、10月には体脂肪率がマイナスになっている予感←
お酒飲んだほうが痩せそう。ヨーグルトは確実に飲んだ方がよい。
なぜなのかは不明。なんでなんだろー。
「終わってない状態」がどういう状態を意味するのか、はっきり宣言してから文句を言えばいいのに。
だいたい、いくら母子家庭であっても、中学校の時からきちんと努力をすれば、障害がない限りは国立大学ぐらいなら簡単に入れる。
障害がないけれども、高校から努力しても国立大学に入れないというような人は、確かに居るだろうが、少ないのは間違いない。
国立大学には、旧育英会奨学金(実質ローンだけど)以外にも、授業料免除制度や、その他返還不要の「まっとうな」奨学金はたくさんある。
寮に入れば、月々の家賃は数千円で済む。
(貯金があると受け取れないけれども)生活保障だってある。
人並みの生活は十分送れる。
今の社会だって、自分で助かろうと思えばきちんと助かることの出来るシステムになっている。
その周知徹底を図っていないのはある意味では社会の落ち度であるとも言えるが、そういうシステムをそれこそ徹底的に利用すれば、「終わっている」なんて口が裂けても言えるはずがない。
悪いのは、ちょっと面倒なだけの手続きをしようと考えもしないその人自身だ。
「社会が悪い」なんて、自分の出来る全力を尽くしてから言え。
少なくとも、遊び歩いてきた人間の言えることではない。
はー
電球ねえ
FAXの インクリボンも 用紙もねえ
自転車の スポークねえ
後輪 毎日 ギーコギコ
朝起ぎで ※書いで
二時間ちょっとで さあ二度寝
領収証 金額ねえ
FAX送信一度きり
よし、手続き行くぞー。
と言いたいけれども、領収証ないと無理です。
夏により大きな休みがあるのは、冬よりも夏が苦手な人が多いからかもしれないし、冬よりも夏が好きな人が多いから夏に遊びたいということなのかもしれない、と思った。
夏が苦手な人は夏に働かずに済んでよかったと思える。
夏が好きな人も夏に働かずに済んでよかったと思える。
NATSU DANA NATSU DANA NATSU NAN DANA
手続きめんどい。ありえん。使えなさすぎ。
練習1hourぐらい?
図書館で本を借りる。
ちょっとびっくり。
http://s03.megalodon.jp/2009-0817-1419-36/www.dpj.or.jp/news/?num=16777
党旗の中央に白い線。
なんだろう、と考えると、すぐに分かる。
そのことから直ちにどうこうと言うつもりはないし、国旗をこんな風に扱う政党でも国民の生活を改善することはあり得る。
でも、本当にそれでよいのだろうか、とだけは尋ねておく。
村尾「消費税をageないって言ってますけど、歳出削減しないで増やすからかえって心配なんですよねw」
鳩「全く心配ありません。むしろ自民党が政権を取ったら経済回復が早まってしまいます。
与謝野さんは来年の桜が咲く頃には経済回復させたいって言ってますよ。
政権交代しなかったら消費税の増税が前倒しされかねないからまずそっちが心配ですよね」
/////
さすが鳩山。
日本沈没のカウントダウンは始まっているけど、どうせ沈没と言っても「下層」にしわ寄せが行くだけで、自分に対する実害は少ないけれど。
ちなみに今期のGDP推移は
/////
フランス 前期比+0.3%
アメリカ 前期比▲0.3%[年率換算▲1.0%]
イギリス 前期比▲0.8%
ドイツ 前期比+0.3%
イタリア 前期比▲0.5%
日本 前期比+0.9%[年率換算+3.7%]
////
なぜか「ばら撒き」と批判された定額給付金が消費を刺激したというのもあるし、それまでの下げ幅もあるから一概には言えないけれども、もし「万一」このまま麻生首相続投なら日本はいちはやく不況脱出できる可能性が高い。
鳩山民主でも、実際に政権党となれば、ある程度はまともな政策をとると思われるけれども、自民よりは回復が遅くなるだろう。何せ、党首が「回復を遅くする」(少なくとも自民並みに早めようとはしない)と発言しているのだから。
選挙人は、この発言の意味を理解できているのだろうか。
ほとんどの国民は、消費者であると同時に労働者(あるいは労働者の被扶養者)であって、経済の回復が遅れるということは、それだけ労働者の収入が少なくなる期間が長くなるということ。消費税増税以前の問題として、無い袖を振れる訳がない。
ついでに、世間では官僚叩きが流行っているけれども、官僚には国の組織で働いていたという実績があるのだから、天下らずとも(少なくともランクを適当に落とせば)再就職の先はいくらでもある訳で、あまりに批判が加速すれば官僚は辞めればいいだけだ。給料もおそらく増えるし。
今の官僚を支えているのは事実上プライドと使命感で、それを超える悪条件を突きつければ、現在の体制は崩壊する。(その事情は医療崩壊と同じ形であるとも言える。)
医療崩壊の構図と「若干」異なっているのは、医療という行為が(比較して)具体的で明確であるのに対して行政の結果は明確には見えにくいということと、今のところは官僚自身が矢面に立たされる体制ではないということ(もちろん、労働量が少ないわけではない)。ただし、いずれにしても、医療行為を受ける際のリスクや政策の効果の評価については素人が適切に判断できない、という点において根本的には同じ問題でもある。
だから独裁制にしろとか、そういう話ではない。
ただ、民主党を選択することで「本当に」損をするのは誰なのか、よく考えた方がいいなあと思うというだけの話。致命的な損をするのはおそらく選択する人たち自身だから、どうでもいいと言えばどうでもいいけど。どうせ損をしても、損をしたとは認識できないのだから(民主党政権が実現すれば、比較する相手が「空想の」自民党になってしまうから)。
まあしかし、これだけマスコミと癒着した政党に政権を渡して、何も思わないんだろうか。思わないんだろうなあ。
間違いないのは、ネガティブかポジティブか、という軸ではないこと。
自分の感じていることを表現できるかどうか、という軸でもない。
チャラいかチャラくないか、という軸はある気がする。
自分に対して好意的かどうかは、あまり気にしないから関係ない。
そもそも、明らかな敵意を持って接してくる人なんてトラブルでもない限り居ない。
まあでも、話しにくくなる空気はある気がする。そう思うと、やっぱり関係している気もする。
自分に好意的な人物を知りたいと思うけれど、同時に自分に嫌悪感を持つ人物を知りたい。
だいたいの特徴は雰囲気で分かるけど、雰囲気でしか分からない。うまくまとめて言葉にはできない。
そもそも、「話をしろと言われると不得意なタイプ」は存在しても、「単に不得意なタイプ」というのはない。
もちろん、嫌いな考え方の人は居るけれども。
難しい。
はじめてのチャンスだったけれど、二人で見る時のために取っておいた。
2点差。非常に残念だった。去年を思い出す。
次で最後にならずに済むように。
何も変わっていなかった。
いや、ほんとはサークルKが増えてたけれど。
明日も通る。
明後日も通る。
その2日後も、次の日も通るのだろう。
片道1時間。
歌いながら、叫びながら通った道。
職質されたりもした。(信号無視で)
いろいろあった。
変速があると意外と楽だった。
今の車輪は悲鳴をあげない。
昔の悲鳴をあげる車輪が懐かしいけれども、どこかへ消えてしまったのであった。
新品の写真だけ残っている、あの自転車。
「自分も勝手ですが、そんなこというなんて本当勝手だな、と思います。」
に続く本日の名言。質が正反対だけど。
自分も~は、語呂的な何かと明示している棚上げっぷりが男前でツボ。
まあそれはさておき、なんで「残念ながら保健所だね」と思いながら警察を呼べる(警察を呼んでいる場面を見守ることができる)んだ。全く理解に苦しむ。
それは、まさしく「始末した」ということやん。どんだけ~
それを待つ人々を「心優しい」と評するのも理解できない。
要するになにもかも理解できない。すごい。やばい。
「これを偽善と言わずして何を偽善と言えるのか」というレベル。
もっと言えば、「救うためではなく始末するために」警察官を働かせるだけでなく、例えばパトカーで来た場合にはパトカーのCO2排出量(笑)とか石油消費(笑)、電話をするための費用や消費、その他云々という話になるけれど。
なんかもう、あまりに意味不明過ぎてネタとしか思えない。
だからこんなテンションではしゃいでしまった、ということにしておこう。
todo:
飛行機代振込み
洗濯
本ないし、家にいても意味はない。今晩か明日早朝か、どちらを選ぶべきか。
少し多忙(矛盾)でメールやらコメントの返信やらが溜まっております。少々おまちください。
「体罰」その他について書きたいことがあったのですが、いろいろ考えた結果、ここではあまり書けなくなってしまったのでした。
ここには、KAZI誌2006.10~11に連続で掲載されているロングインタビュー参照、とだけ書いておきます。名大出身だったんですね。
まあ、本当のテーマは(表面的な)体罰よりももっと深いところの話ですけど。
死者を出してしまったというのは事実で、一方でそうした「死者の出る」課程であっても普通にこなせる人が圧倒的にたくさんいる訳で、やっぱり本人が言うとおり「受け入れてしまった」ということが悪かったのだと思いますね。
「プロだから見極めなければならない」というのもまた正しいことですが、しかしそれは表面的に簡単に見極められるとも限らないことで、難しいことです。
でも、やはり同業の別業者が、「一つの集団内で10年足らずのうちに4人の死者を出す」という事故を起こしていないことを考えると、やはり命を奪ってしまったということは非常に大きなことで、罪状や罪名はともかく、罰則としては致し方ないのかもしれない、と思ったりします。
まさしく本人の言うとおり、過失であるのは間違いない。でも、それが「故意」であるかどうか、という話ですね。
文系理系論に話を持っていくのは明らかにやりすぎだと思いますが、憤る気持ちは分かります。(インタビュアーが若干そっちに誘導している感もありますが、工学部出なので本人にもそういう気持ちが根強いのでしょう。)
おそらく「実際」にやっていることも、たぶん記事通り「一部学生の体育会の方がよっぽど厳しい」ということになるでしょう。
でも、比率的には文系の方が体育会系って多そうなのに、どうなんでしょうね。法曹とかマスコミにはあまり行かない、ということなんですかね。銀行とかはたくさん聞きますけど。
独自の(信頼できる医師による)健康診断を入校前に設ける、というのは正しいですね。それまでは普通の健康診断に任せてきたけれども、そうせざるを得ない、という。
個人的に最も興味深かったのは、一部神経症が実際に治ったということ、もっと詳しく記事によれば「統合失調と診断された人の8割程度は実際には神経症であって、その人たちは治るけれども、本当に統合失調の2割程度の人は(その施設では)治らない」という校長の経験談です。
(文系理系論はこうした「経験」を語る場面からの派生です。)
単純に太陽に当たるから自律神経によいとかいうのもありそうですし、あるいは集団生活が…というようなこともありそうですが、どうなんでしょうね。
10人の人生をガタガタにするオッサンと、10人に1人の人生を超ガタガタにして9人をハッピーにするオヤジでは、どちらの方がよいのでしょう?
無意味な比較ですが、つい比較したくなります。
そんな抽象的な比較をしても、具体的に何かが変わる訳ではないですが、でも「どちらのあり方が正しいのか」なんてことを考えてしまいますね。
強いて分類するなら、僕はバリバリの後者派です。(強いて、なのに。)
いつものようにまとまりがないですが、これは一時的な疲労のせいです。
某同輩と某先輩に拉致されて登山。標高1kmぐらい。たまに道なき道を進む。
下山後はバイクの後ろに乗せられて(載せられて)夕方まで連れ回される。
彼らとは明日も顔を合わせるのだろう。
そういえば、途中で某映画の撮影現場に遭遇して追い出された。
そんなこともあるのかとびっくりした。
はじめは火曜サスペンスの死体遺棄しかありえないとか、あるいはタイトル聞いてからはタイトル名そのものをいじったりとかして遊んでたけど、今検索したら、実は役所広司と松方弘樹が出とりますやん。
「無名の役者ばっかりだろー」とか言って結論出してたのに。
あのロケバスにも居たんだろうか。まあ、だからどうしたという訳でもないけれど。
ちなみに、一昨日、某同輩は別の某同輩と某後輩と一緒に廃墟ツアーに行っているはず。
その前日はどこぞのビルの屋上に行った。その前の週も行ったのに。。
まあ、これだけ頻繁に顔を合わせるチャンスは、今年で最後かなーとも思ったりする(彼らの就職があるから)。
そう思うと、「友孝行」ではあるんだろうか。
二年ぐらい前から、相手が自分の友であると同時に、自分が相手の友であるということを認識するようになった。
それまでは、そんなことを感じる機会もなかったけれど。
ありふれた「視点」たちを「どう」集めるか、というところに個性がある。
一つの突出した特徴でしか語れないなら、その個性はある意味で薄い。
もっと踏み込んで言えば、その個性は「自分自身のもの」ではない。
ただし、そもそも「自分自身の個性」が必要かどうかは分からない。
個性があるとかないとかいうことを語らずに済む状態が「最善」だから。
・25314←このような順番で物が並んでいたら、12345に並び変えずにはいられない。
じつはmod 5ではきれいに並んでいる。と言ってもほとんど通じないので…
1.円上に、隣り合う点の間の間隔が等しくなるように5つの点をとる(要するに72度ずつ)。
2.各点に、順番に12345と番号をつける。
3.2と5を線分で結ぶ。以下、順番に同じ操作を繰り返す。
これは間隔が3の場合で、間隔を2にしても同じ現象が起きる。
五角形を間隔が1の図形(または間隔が4の図形)と解釈することもできる。
ちなみに、同じことを六角形でやろうとすると、少し様子が違っていることがわかる。
七角形の場合はどうだろうか。
帰宅。
滑る練習2hours
勉強ちょびっと
自転車がないと言い続けていたら天から自転車が降ってきた。有難く使わせて頂こう。
後輩が、明後日試験日なのに、明日廃墟に出かけるらしい。大丈夫なのだろうか。
まさかその名前を目にしようとは。。。
類·どちりなきりしたん
東京から去った友の声も入っているのでせう。
浅倉南肉食系ビッチ説浮上中。ちょっと受けた。まあそうなのかも。
言われてみればというか、H2も結構アレな展開だったなーと思ったり。
あれも、結局最終的な結末を目にしたのは実家を出てからだった。
[4]
昼寝を経て、お腹が空いていることに気がつく。
やっぱり割と体力を使っているらしい。
食事後、30分ぐらいまた練習してみる。犬に吠えられつつ。
やっぱり睡眠をはさむと上達している気がする。
アイドリング的な動きができるようになった。
その後、小学生の上手な動画を見て少し寂しい気持ちになったのは内緒である。
[5]
コンセプト的に非常によい本だと思うのに、
「環上の加群が線形空間と書かれていたり」
「torsionがトージョンだったり」
「split(分裂という訳語を耳にする)が分離的だったり(separable extensionはどうする)」
微妙なところが気になる。2000年の本なのに。
むしろ初版なのがよくないのだろうか。
コンセプトは非常に明快で、最近やった話と若干通じるからわかりやすい。
とりあえず、(微妙な訳語でも)日本語で書かれているというだけで助かる。
[1]
大昔は歩けなかったけれど、今回は歩くのは余裕だった。バランス感覚が鍛えられたのだと思う。
30分ほど歩いたら滝のようになった。
早くもマメができそう。歩き方の問題だろうなあ。
ぎこちなく動けるまではもう少し練習が要りそうだ。
[2]
面白いメールがきた。あの文章、そのまま載せるんだろうか。何月号の記事だろう。
喋り方が非常に特徴的だと思っていたけど、文章も非常に特徴的だった。
何箇所か表現がツボにはまって大笑いしてしまったのは秘密。
「特に何も言っていない」は何回見てもツボ。しかもオチまで付いているという。
読点がもっと多くてもよいのでは、という気もする。別に違和感はないけど。
またあとで、もう少ししっかり読んでみよう。
[3]
先輩の病気の名前が分かった。
やっぱりそうか、と思った。
バイザーに関する、彼の同級生の話を思い出した。確かにそうなのかもしれない。
去年会った時は非常にやつれていた。今は比較的元気なようだ。
のんびり、というのは本当に大切なことで、肩の力を抜いて見れば、世界の色は違って見える。
能力を発揮するのは大切なことだけれども、その半ばで潰れてしまうのは愚かだ。
持続可能な開発を、ではないけれども。
ゆるゆるとがんばるのがたいせつなことだとおもう。
僕自身と、大多数の「適当に生きている人」を除いて。
言い方の違いで腹が立つことがあったりする。
比喩が下品だから?
「どうかと思うんだ」という言い方が気持ち悪いから?
なぜだろう、分からない。
なぜか分からないけれど、僕はああいう言い回しが「内容的には正しいと思うにも関わらず」物凄く嫌いです。
一時期流行ったコエンザイムじゃないですが。
(本当の意味で嫌われたければ、あの人のかつての書き込みを参考にするとよいのかも←)
糸ならば純なのに、金ならば鈍い。そんなもんか。そんなもんだ。
何か意味がありそうなことを書いてみたけれども、特に意味はない←
いろいろすべきことが終わって、空白ができてしまった。
明日ローラーブレードが届けばいいなあ。
死にたくなるような失恋は、本当に死にたくなるからおすすめできない。。。
「それが自分を強くしている」とか「そんなこともあったけどよかった」とは到底思えない。と想像する。
でも、始まる前に終わったぐらいの失恋なら、後で思い返して「よかった」と思える時が来るかもしれない。
一途でないというのは、とても健康的なことだと思う。
僕は、たぶん「そこ」だけは健康的でない。
あとは非常に健康的な人間だと思っているけれども。
僕は、身の回りで起きたことを「楽しく」考えてしまう。
そして、「とても楽しいこと」であるかのように語る。
僕の物差しの中では、まあそれは間違いではない。
しかし、僕が体験していることは、ほとんどが普通の出来事でしかない。
自分が「普通でない」というのはある意味では認めるけれども、やはり「普通」の範疇は超えない。
ただ、見方が違うから、根本的に明るく見ようという意志があるから、楽しく生きているように見えるだけだ。
言い方によっては、ある意味で見栄っ張りなのかもしれない。
楽しく語った方が楽しく思われるから楽しく語る、という。
ついでに、僕は確かに何かしらの方法論を身に着けてはいるけれども、個人の根本的な能力を見る限り、決して普通の人以上に優れてはいない。
自分がいろんな面において鈍いことは、よく分かっている。
「僕の眼から」世界を覗いても、やっぱり世界は世界で、単に表現が違っているだけだ。
だから、そこに「羨むべき世界」がある訳では決してない。
「いらんこと」をしている気もする。激しく。
でも、止められない止まらない。