もちろん軽度では「日常茶飯事」と思うけど(人間の脳の自然な特性として)。
でも、恥知らずなだけじゃなくて、更にそういう可能性もあるのか。
そういうのが極端すぎる人とは普通の会話が成立しないけど、どうしたらいいんだろうなあ。
触らぬ神に祟りなし、なんだろうか。
http://www.4gamer.net/games/094/G009426/20090826058/
すごい、ほんとにルサンチマンの世界だなあ。びっくりした。
単なる欲望の充足としては特に問題がない。
でも、(まだ)「現実世界」がある以上、他の人との繋がりをなくして生きていける訳でもない。
ハヒ(ryを読んでても思ったけど、やっぱりある種理想化されてるんだろうなあ。
生身の人の方が、ずっと「面倒」だから。
人付き合いというのは、当然「面倒」で、いろんなことを考えなければならない。
でも、それから完全に逃れてしまうことはできないし、それぞれのあり方で何かしら繋がる必要はある。
生活で触れる相手が確かに「生きている」人である、というのは重要なことだ。
あんまりうまくまとまらないから、またゆっくり書こうかなあ。
ねむい。でも、眠くても働かなきゃいけない。
その昔、黒色火薬「もどき」を作って遊んでいたことがあった。
練ったりはせずに、混ぜるだけ、みたいな。
それにアルミその他適当な金属を混ぜて燃やすと綺麗で、燃やした後の匂いはまさしく花火だった。
それを打ち上げてみたいなーと思ったけれど、火力によってそれを打ち上げるのは怖いと思うヘタレだったので、ペットボトルロケットで打ち上げようと考えた。
それが高3の夏~秋。
試験管のゴム栓が丁度ペットボトルの口にはまったので、自転車置き場にある自動空気入れを利用してペットボトルロケットを飛ばしまくった。
結局花火を頭に載せて飛ばすことはなかったけれど。
昔から、くだらないことだけは沢山やっている。
ちなみに、花火を作る、あるいは分解するのは良くないことなので、やってはいけません。
その時からずっと気にかかっているのが、Na-K合金。
常温で液体という、非常に魅力的な合金。
原子炉の冷却剤なんかに使われるらしい。
石油の中に保存した状態で湯煎のようなことをして、溶かして混ぜることができないだろうか、と漠然と思ったけど、例によってヘタレなのでできなかった。
「マッドサイエンティスト」は絶対に化学の道に進んではいけないなーと思って、化学は高校までにしようと決めて、ほんとにいろいろやった。
「同じこと」を今やろうとしているのかもしれない。
そう思うと、「期限」というのは大切なのかもしれない、なんて思ったりする。
飛行機に乗ると、いつも不思議な形のイヤホンが座席においてある。
あれっていつ見ても面白いなあ、と思いながら、子供用(?)歌チャンネルをつけて聞いていた。
もちろん、某書の§31を読みながら←そういえば結局、今日の発表gdgdだった↓
あんないかつい本を読みながら、子供用チャンネルを聞いてニヤニヤしている、黒人とかゴキブリとか言われる人間は、周りの人の目にどう映ったのだろうか。まあ、それはさておき。
ガガガSPやらアラジンの歌(和訳…)やらが流れた後に、アンパンマンのうたが流れてきた。
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091155140127.html
にもあるけれども、「愛と勇気だけが友達さ」を含めて、アンパンマン関係の歌は影のある歌が非常に多い。
「死んでしまう」とバタ子&ジャムが連呼する歌や、「森は枯れても~」と連呼する歌をはじめ、単純にネガティブな単語がたくさん出てくるし、歌詞の趣旨は壮大であると同時にどこか哀しい。あの死ぬ死ぬ連呼する歌は本当に気持ちが悪いというか、ある意味トラウマだ。
さいわい?ルンダルンダ(ルンバじゃないのね)言っているその歌は暗くはない歌だったけれども、「たたかう」といった極端な単語はたくさん出てくるのであった。
アンパンマンには、はじめはそもそも明確な敵は居なかった。
「はじめ」というのは、「あんぱんまん」のことを指す。
彼の敵は飢餓であり、目に見えてそこに居る存在ではなかった。
だから「アンパンチ」という単語も存在せず、彼の「たたかい」とは自己犠牲のことだった。
「アンパンマンのうた」たちには、たしかにそうした思想が生きていたりする。
「手のひらを太陽に」で有名なあの歌も、やなせたかしの作詞で、同じような思想が垣間見えたりする。
しかし、近年のアンパンマンは特に、「ばいきんまんが何かしら悪さをする→こらしめる」というパターンが完全に定着してしまった。
バイキンをアンパンの敵とするのはまあ分からなくもないけれども、そんな構図を作るために犠牲になっているものが沢山ある気がした。特に、最近の話の構造は単調だから。
とか偉そうなことを言いつつ、数年前までしか知らないけれど。
ちなみに僕が彼らの中で一番好きなのは、ばいきんまん。
次に好きなのはロールパンナ。
これは十年以上前からそうで、昔からそういう性格だったんだな→、と改めて思いましたとさ。
↑を使う場所がない。
とか言って、無理やり上下左右全て使ってみた。
todo
来週の準備
七回忌用の服
ユダヤ系の人々が、世界的に影響力を持っていることは疑う余地がない。
たとえば、金融危機の引き金になったリーマンブラザーズはユダヤ系資本の会社の一つであり、アメリカにおいて3%に満たない人口比率でありながら議員の数割を占めており、イスラム諸国に囲まれているイスラエルは「事実上」未だに国家として存在して、アメリカその他から援助を受け続けている。
それはユダヤの民族としての戦略が優秀であったから、というのもあるだろうし、ヨーロッパ諸国がキリスト教によって自滅したから、というのもあるだろう。
いずれにしても重要なのは「キリスト教はユダヤ教から派生しながらも、ユダヤと反する教義もまた数多く含む」ということだ。キリスト教は確かに「過剰に」奴隷道徳的側面を備えていると言っても差し支えないだろうが、少なくとも現代的なユダヤ教はもっと「実践的」な宗教であって、ある意味で超人の育成に近いことも行われている。
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この世の何もかもを奴隷道徳的ないし君主道徳的と規定する場合、その規定をする行為もまた奴隷道徳的で、そこに「越えるべき」壁がある。
昔ニュートンという人は、Forceという概念を定義した。(日本語でいえば力だけれども、ニュアンスの違いを説明するのが面倒なのでForceを用いる。)
物体が動いたりするとき、Forceが加わっているとかいないとか言うけれども、ニュートン以前にはForceという言葉は各人の素朴な実感に任せて使われていた。
しかし、ニュートンという人物は、(少なくとも我々にとって普通のスケールで)Forceの概念を「質量と加速度に比例するもの」として定めた。
それまでは「なんとなく物体の運動を変化させるもの」と捉えられていたForceという言葉は、「質量と加速度に比例するように物体の運動を変化させるもの」という意味になった。
これはもちろん、本当にありとあらゆる人に共通する言葉遣いではないけれども、「正しい」とされる言葉遣いの一つであることは間違いない。
同じように、「なんとなく実体を持つ」言葉が、(後付ではあるけれども)「ある程度厳密な実体を持つように再定義される」という現象はしばしば起こりうる。
この「厳密な実体」というのは、素朴な言葉遊びの域を超えて、きちんと何らかの現象に基づいて定まる実体のことを言う。
さて、ここでいう「再定義」は、Forceのような「物理学的な」概念に限らず、例えば病気・症状について非常によく見受けられる。
まず現象として、例えば人がバタバタ死んでいくとか衰えていくとかいうものがあって、その「死に方」に共通するものを括り出していくと、「なんとなく」ペストという現象が見つかる。
しかし、症状や「死に方」から定義したペストは曖昧な言葉遊びの域を完全に脱しているとは言いがたい。
ところが、ペストについての研究が進むと、ペストの「原因」(ペストの場合はペスト菌の存在)が分かって、ペストがより具体的に「再定義」される。ペスト菌によるペストの定義については、かなり穿った見方をしなければ疑念の余地がない。
そんなことを踏まえて考えると、この「再定義」は、例えば「友情」という言葉についても起こるかもしれない。
具体的に想像しやすい場合では、人間が「友情」を感じるときに脳のある部位が活性化されるという現象が見つかれば、それによって「友情」を定義できる可能性がある、ということだ。
もちろん、「もっと究極的」な見方をすれば、「言葉に意味などなく、全ての言葉は本質的に無意味な言葉遊びだ」というような見方ができるし、「現時点で」全ての人が同じ脳の活性化の仕方を指して「友情を感じている状態である」と呼んでいる保障は当然どこにもないけれども、それでも将来的に「友情」が客観的に定義される可能性はある。
或いは、逆の言い方をすると、友情の「言葉による」定義が厳密にできていたとしても、その定義だけでは「男女間の友情の存在」は議論できないかもしれない。標語的に言えば、「定義だけでは情報が足りない」ということは十分にあるからだ。
言葉遊びだけで「解明」できるかというと、必ずしもそうでもない。
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バクマン。の人気に合わせて、ぜひラッキーマンの再読を。
全体のストーリーの構成とかいうのは、当然滅茶苦茶だけれども、ラッキーマンの細かいエピソードはかなり深いものが多い。
そもそも、「ラッキーこそが最強」という基本スタンスが面白すぎる。
(ただ、本当にラッキーならそもそも幸運の星が影に隠れたりしないとかいう説もあるけれども…)
あの単語を聞くと、しばしば三本柱を思い出す。
三本柱の中で一番強いのは、「コレ」だろうなー、と思いながらタイトルにした。
しかし、あの三本柱、あんまり脈絡ないよなあ。。。
型にはめる考え方に抵抗を覚えるように見えるのに、じつはきっちり型にはめて考えている。
もちろん、性別とか年齢とか、「平均的に」見えてくるものはありそうだけれども、その「平均」が本当に重要なものかというと、それは怪しい。(それを仕事にしている人を除いた場合。)
言われてみれば確かに、「党内の人事を一任する」というのは、二柄の放棄に他ならない、とも言える。
まあ、弑される、とまでは言わなくても。
でも、都合のよい傀儡は始末する必要がないし、健康問題もあるから微妙な話ではあるが。
しかし、「予想通りに」田中派が復活した。
「自民党は小泉の登場で延命しただけにすぎない」という主張があるけれども、その主張に従えば、小泉さんがもし居なかったとしたら「より自民党らしい」政権が誕生していただけだろう。
角栄の腹心・派閥由来の人々(小沢・鳩山その他)、経世会離反組(小沢・岡田その他)、ついでにこの間から角栄の娘まで擁しつつ、「自民党政権との決別を」というのは全く意味が分からない。
一方では「極左」こと社会党その他残党(菅(社民連)その他)も擁する、民主党。
なんというか、「多数派」の考えることが全く分からない。
どういう理屈(または感情)ならば、民主党を支持できるのだろうか。
謎で謎で仕方がない。
なんか途中で二柄の話ではなくなってしまった。
こんな集団において、二柄を手放すとどうなるのだろうか。
長続きしたら面白いとは思うけれど。
前進方向の加速度で話をしなければならない、ということに気がついたので挫折。
あと面白そうなトピックといえば、フーリエ変換とかKaratsuba演算とかのあたりか。
申請額がそのまま振り込まれたら割と助かるなー。
そのまま後期の学費にできそうだ。
体力が足りない。
mixiの4目並べが大昔作ったVBのプログラムとほとんど同じで受けた。
対戦機能を除けば、100均でも売っている。
明らかに発表準備が間に合ってない件。
とりあえず§29と§30ぐらいは終わらせよう。
まあ、まず非学術的用途についてのネットを制限する、というのはビジネス的にはデメリットしかない。
また、ほとんどの人にとって直接的なメリットはない。
ネットを(場合によっては有害な側面もある)娯楽と見れば、パチンコや公営ギャンブル同様「庶民」の娯楽の禁止に価値があるかという話になる。
また、ネットは「弱者」が手軽に発言するための道具でもあり、「学術的用途」の定義によっては言論の封殺とも批判されるだろう。
そもそも、一般人の参入によって明らかに情報インフラもコンピュータそのものも進歩が加速している訳で、学術的用途において昔と比べて「面倒」というのは全く意味が分からない。
むしろ、一般に広がったことで、学会の日程がネットにupされるようになったり、或いはciniiも進歩しているように見えるし、例えばarxivの使用と一般人云々なんて関係がない。
検索エンジンも、大衆の参入による「拡大した」ビジネスモデル化によって効率化している。
検索エンジンはオープンソースのナマズで十分と言うような人はいないと思うけれども、それでもその製作者たちが大衆化で受けている恩恵は計り知れない。
現実的でもないけれど、それ以上にメリットが乏しすぎる。というより、デメリットはよく分かる一方で、何がメリットなのかすら分からない。
一歩内容に踏み込んでも、これだけ「謎」の部分がある。あのひとは、自分の主張が支離滅裂だと思わないのかな。
僕の親友(の一人)は学部でいくつか特許を取っている「技術屋」だけれど、彼と同じ呼称というのはさすがにありえないなあ、と思った。
某大医学部の奴と会って話をした。試験が大変らしい。
研修しながら院に行くと言っていた。割と特例だそうな。
父親が医学部の教授で兄貴も医者、父親も兄貴も人格者だけど本人はちょっと、と昔から言われていた奴だった。
クラスで浮いてて結構かわいそうだった。今彼が暇なのも、そういう理由もあるんだろうな、と思ってみたりした。いい奴だとは思うんだけどね、融通はきかないけど。
なぜか二人でクイズゲームをやった。芸能ネタとスポーツネタの分からなさになえた。でも対戦相手はもっとしょぼかった。
アレに十万注ぎ込める人は空しいと思わないんだろうか。というのも、新参の割にほぼ上位だったから。まあ、それは二人でやってたからというのもあるけど。
クイズゲームは地の知識量でも差がつく訳で、結構金を注ぎ込んでしょぼい順位だと普通になえそう。
ご飯を食べて帰宅がてら、話をしながら歩いた。
研修医制度が文科省と厚労省の縄張り争いで犠牲になって、過疎地の医療崩壊はそれで進んだ、という話。
鳥取・島根の救急一斉辞職で、とうとう厚労省の役人が頭を下げるまでに至った、とか。
そんな話のできる彼も、消極的に自民を選択せざるを得なかったと言っていた。まあ、そりゃあそうだ。
「日教組の悪い方の手先」という言葉はなかなか適切だと思った。
以下雑感。
官僚で上手く行ってない部分はもちろんたくさんあるけれど、かと言って普通の政治家がもっと分かっている訳でもない。
多くの人が官僚という言葉に踊っているけれども、案を組み立てる(通す)人が政治家という名前でも官僚という名前でも施策の結果は変わらないし、いずれにしても、周囲からの圧力は個人の思惑ひとつでは動かせない。
圧力が国民の意思を反映していないという批判はあり得るけれども、それなら例えば日教組なんて解散しろという話だ。
医療崩壊を根本的に止めるためには、医者(出身)の事情に明るい議員を増やすしかないと思うけれど、医者議員が増えたら必ず解決する、ということでもない。
難しい。
もちろん、選択とは関係なく運によって不幸であることはあり得る。
でも、選択の結果を不幸だと思うほど落ちぶれてはいないし、選択できるということが幸福でもある。
すべてを壊すことはできても、不幸にすることはできないよ。
少なくとも、比較の上では。
例えばプロ野球の勝負を見れば、どんなに「実力差」のある年であっても、勝率が1割を切ったりはしない。
もちろん、その辺の弱小高校の野球部とプロが勝負をすれば、その勝率が1割を切るのは目に見えているけれども、プロのレベルの差はそれと比べれば「紙一重」ということになる。
さて、いわゆる夏の甲子園では、トーナメント制が採用されている。
トーナメントによれば、ある高校と別の高校の勝負は一度きりであって、まさしく「時の運」とでも言うべき要素が深く関わってくる。
トーナメントにおいては、しばしば「番狂わせ」が生じて(番狂わせはもともと相撲の用語だけれども!)、「実力」があると目されるチームが、「実力」が比較的ないと目されるチームに「食われる」ことがある。
ここでいう「実力」とは、一体何なのだろう?
結果から実力を定義すれば、勝者が実力者であって、敗者に実力があるということはありえない。
他の技術、例えば野球では打撃のセンスや守備の巧拙などから実力を定める場合も、やはり本番に発揮できた側が勝者であるという点において、勝者の方が実力を備えていると考えるのが適当なように思われる。
一方、特に野球のような対戦型のスポーツにおいては、いわゆる相性や駆け引きの色が濃く、そもそも「抽象的な実力」というのは非常に難しい。少なくとも、数値化できるような代物でないことは明らかである。
そもそも、実力という言葉自体、「運などの要素を除いたなにか」という意味で使われることが多く、個々の勝負から離れた抽象的ななにかのことを指していると考えるのが適当である。
さて、「実力」とは何だろう?
もし、「考えることのできる人」が居なかったとしたら、実現していない勝負について「実力」を比較することはできない。
その意味で、実力というのは実際非常に抽象的で、人間(または考える主体)の存在なしには成立を認めることが非常に難しい概念である、ということが分かる。
某先輩二人の会話を見た。おもしろい。
彼らはもともと凄く仲がよかったのだけれど(国体にも二人で一緒に挑戦してた)、政治的な思想は、正反対とまでは言わないまでもかなり対極に近いのだな、と思った。
今思えば、「おまえら大日本帝国はだなー」のイメージが強すぎたけれども、反対側の人がいてもおかしくはない。
僕のスタンスは、彼らの間で、やや(かなり?)保守寄りということになるのだろうか。
僕と彼らの関係は、僕と今年の新入りと同じなんだな。
龍と春樹という分け方は面白くて、実は春樹が嫌いだったりする。
大昔も書いたことがあるけれど、気持ち悪くてリアルに投げた、本当に物理的に投射したことのある唯一の本が、ノルウェイの森だったりする。
後にも先にも、本をあんな風に扱ったことはない。
でも、「実態」は春樹に近いんじゃないかと思ってみたりもする。
誰が緑化に協力してやるもんかー。。
そんなこともやってるのか。
答えなんかない方が
その方がいいから
最近カラオケ行っても採点しない。数年振りだ。
意外と歌っている人が少ない。普通に歌ってる人とかアカウントない人もカウントすればいいのに。僕の記録もさようならー。
最小人数は真夏のストレートの一人だった。受けた。
たまに居る99.8みたいな点数はラリってるなーと思った。
人数の多い曲は、まじめに歌って上から1割ぐらいだった。面白いなーと思った。
もうちょっと真剣に練習してみようかなあ。防音室があればねー。。
上手くなりたいとは思うけど、思うだけだからいつまで経っても上手くならない。若干音痴な人、ぐらいで止まってる。
ムネオさんは嫌いではないが、「障害者だから」とか「大地を愛するから云々」というのはどうかと思うなあ。
趣意書の鬼。
まあ、みんながあれだけ質問すれば官僚もパンクしますわな。全く建設的ではなさそうだけど。
しかし座るところがない。
天気も微妙で鬱陶しいことこの上ない。
リアル烏の行水をはじめてみた。
憧れのジンギスカン大学ともさようならー。。学内でジンギスカンができるという事実に激しく受けた。
実家に帰らなきゃいけないのかな。めんどいよう。
todo
事務に報告(要半券?)
発表の準備(P)
今週の復習(Q)
練習(R)
練習(S)
書類の準備(T)
慣れ。
それに気がついてから、いろんなことが見えるようになった。
まじあつい。
と言いつつ、ここはまじすずしい。
無駄な暑苦しさは必要だと思う。アツいほうが、アツいもの。
今日の小ネタ:#{T | tree, has n nodes}=(n+1)^(n-1)
「大将!」と絵に描いたような勧誘。大将が断り慣れて無さすぎで受けた。ああいうのは適当に話を聞いてから断ればよいだけなのに。
案内された海鮮屋さんから帰ったら「金無し」と笑われたのにさらに受けてしまった。勝手にペンキ屋にされたのにも受けた。
とにかくネタ多すぎ。
僕は昔から断れないほど勧誘されたことがない。断るのがうまいらしい。知人は別だけど。
さて、回転寿司は贅沢だけども、
「もともと生活保護受給者というのは生活能力に欠けてる無能力者でロクに料理も出来ない、買ってきた総菜並べるだけ、みたいなレベルの人が多いのかもしれません。」
というのはさすがに暴言だ。あまりに酷いし、何よりそれまでの主張と矛盾してる。
本日の小ネタ:不可解で単純でない。
札幌は将棋の町だと今更気がついた。
ある意味チェスの町でもあるけど、もっとチェスの町があったら受けるなーとか思った。
ヨーロッパにはあってもおかしくないけど。
その分類で行けば、日本の典型的な城下町は双六になるのだろうか。むしろ城が双六か。
先後のいずれが有利かはっきり分かることと、ゲームとしての深さは本当に別物なのか。
まだ分かってない効率的な探索法があったりしないのだろうか。
後手が「しろ」って、実はダブルミーニング。後付けとは思うけど。
将棋の駒の町は米沢ではなく天童らしい。
将棋倒しの町は…とか不謹慎なことを考えた。
我々が「考える力」を持たなかったとしたら、体験するすべての現象は「べたっとした」現象で、すべてが真実である。
そもそも、例えば脳その他の「存在」を仮定した場合、体験する現象が脳の挙動に還元されるように、(一般にそれを仮定しなくても)体験しているということ自体は真実でしかありえない。(例えば幻覚も脳内物質その他で生じる。)
或いは、百歩譲って、体験したということを疑うことには、(少なくともそれを体験したと思わせる何かの存在(または体験したと感じる感覚そのもの)は仮定すべきという点において)意味がない。
一方、我々は体験していることに「意味」を持たせて考える。
「現実」「虚構」という区別が生じるのは、まさにその「意味」においての話。
体験に何らかの意味をもたせて解釈しようとするから、虚構や現実という区別があり得る。
今日は昨日より長い。体力持つか不安だなあ。
その分たくさん寝たけど。
それを真の意味で実感したのは柔道をしなくなってから、だけど。
自転車や自動車のギアと射影直線の話とある意味一緒の話なので、一度詳しく書きたいと思っているけど放置中。
本日の小ネタ:差積のヘッセ行列式
ますらおの集う、動物のお医者さん大学にきた。
割と町中にある。
芝生の存在が謎。
ねむい。
目の前をROVERが駆けて行った。そういえば、さっきから微妙にシティサイクルではない自転車をたくさん見掛ける気がしないでもない。
自転車を修理した。ちゃんとしたレンチだと余裕だった。
後輪の振れはほとんどなくなって、変速もまともに動くようになった。レンチまともなの買おうかな。
北海道会社ではトイカやらスイカやらイコカやらの代わりに「来たか」らしい。
指定席車両と指定席車両の連結部が混雑。昔もそうだったかも。小樽までちょびちょびジベタリアンをしてた記憶がある。
後輩の半分が悔しがって半分が喜んでいるとしたら、そのとき僕はどういう顔をすれば「よい」のだろう?
まあしかし人間関係って難しいよね。
基本的に全く気にしてない僕は楽な人間だなーと思う。
比率が半分でなくても、非常に難しい。
それがまさに、「名前が全てを作る訳ではない」ことをまざまざと示している。
医者でない人にとって大切なのは、抽象的な症状ではなくて個人の具体的な性質。
もちろん、将来の医学の発展を考えれば、名前をつけて病理を解明することは重要だけれども。
性格に名前がないと性格が分からないような愚かな人には、なりたくない。
と、ある記事とコメントを読んでいて思った。