邪馬台国は沼津にあった!?
卑弥呼 千七百年の謎を解く―日本書紀には年代改変前の原形が残されている 価格:¥ 1,470(税込) 発売日:2005-05 |
少なくとも東日本最古級の前方後方墳という事で、今まで東日本ではこの時代の古墳というのは見つかってないわけです。三島近辺にも、縄文時代から人は住んでいるんだが、古墳というのはあまり聞かない。向山古墳群というのがあるんだが、前方後円墳で、5世紀以降ですね。箱根山麓の夏梅木古墳というのはもっと新しくて、古墳時代の終わりくらいです。なので、沼津のこの古墳というのは異状に古いというわけなんだが、沼津市教育委員会は7日、発掘調査を進める辻畑(つじばたけ)古墳(同市東熊堂)が3世紀末までには築造され、少なくとも東日本最古級の前方後方墳と分かったと発表した。研究者の中には、卑弥呼(ひみこ)が生きていたとされる時代の230年前後の築造で、日本最古級の古墳とする指摘もあり、市教委は今後2年かけて慎重に築造年代を絞り込む。
辻畑古墳では、脚部に横じまの入った高坏(たかつき)が古墳周りの周濠(しゅうごう)から、軽石を含む材質の壺(つぼ)が後方部の墳頂から出土。市教委は「土器による年代特定は研究者間で差が出る」としながら、「これらの土器などから3世紀代の古墳であることは間違いない」と判断したという。
卑弥呼の時代というのは、日本に文献が残されていないので、この当時の静岡県にどのような勢力があったのか、全然判りませんね。もちろん人は縄文時代から住んでいたんだが、それが、「日本史」を形成する中央の勢力とどのような関係にあったのか、それは全く判りません。で、墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる高坏1点が割れた状態で見つかった。破片はほぼ全部分あり、高さ約20センチ。脚部上方にくしで引いたような横じまがあることから、3世紀前半に作られたとの指摘もある。
市教委は「卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた可能性もある」と話している。
調査を指導する赤塚次郎・愛知県埋蔵文化財センター調査課長は「邪馬台国の時代にも東海から東で独自の文化が形成されていたことは分かってきている。古墳の位置は愛鷹山麓(さんろく)から見下ろし、駿河湾の(入江の)最も深いところ。豊かな湿地帯で人の流れが活発だったとみられることを証明する貴重な史料になる」と話す。この古墳のある場所というのは、東熊堂という土地で、今では国道一号線沿いの平地なんだが、古墳時代には海が今より近かったので、海岸沿いの湿地帯だったようだ。という事で、今の沼津市街というのは、みんな海の中ですねw
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ちなみに、ここには「穂見神社」というのがありまして、むかしは熊野神社だったようだが、南アルプスから分詞してます。
高尾山、穂見神社は、沼津市東熊堂にあります。まぁ、神社のある土地というのは、こうして古くから伝えられた「謂われのある土地」である事が多いわけですね。なので、やはり神社仏閣は大事にしましょう、という事なんだが、それにしても、卑弥呼の時代に、近畿の勢力と密接に結びついた勢力が、この土地に根を張っていたというのは大発見です。
静岡県沼津市東熊堂24番地
弘化3年10月(1846年)山梨県の高尾山穂見神社より分祠し東熊堂荒久の地へ祀りました。
明治21年交通の便の良い、熊野神社境内上の地に移しました。
現在の社殿は明治30年代に建立したものです。
もっとも、古代の静岡県というのは「駿河国」と呼んだわけだが、当初、国府が置かれていたのは沼津ですね。
決まらないのが、三島と沼津の合併なんだがね。なんせ、有史以来の因縁があるのでそう簡単には決まらない。三島は伊豆の国であり、沼津は駿河の国。駿河というのはもともと「駿(流れの速い)河」という意味で、今の黄瀬川をそう呼んだらしい。黄瀬川というのは上の地図にあるように、三島と沼津の中間あたりです。で、伊豆と駿河の境には境川という川があって・・・と昔話をしているとキリがないんだが、そもそも、駿河という言葉の「駿」という文字は、「駿馬」とかいうのと同じで「速い」という意味があります。近畿地方から来た偉い人は、黄瀬川とか富士川とか、大きな石がゴロゴロ転がって、滝のように流れる水を見て、駿河国と名付けたわけだ。Wikipediaでは富士川になってますね。
駿河国とは、7世紀に朝廷が珠流河国造(現在の静岡県東部)に廬原国造(現在の静岡県中部)の領域と併せて駿河国とした。7世紀にあった駿河国府というのは、大岡だったようだが、
※この時点では伊豆半島と伊豆諸島(後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。
駿河は当初、須流加(『和名類聚抄』)、須留可(「東遊駿河舞歌」)、薦河(『駿河国風土記』)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたと言われる。即ち富士川があり、その急峻であることに由来するというものである。
西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった。
680年(天武天皇9年)に、東部の二郡を分離して伊豆国を設置した。それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市大岡付近)にあった国府を安倍郡に移した。
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ちなみに、古墳の見つかった東熊堂から大岡というと、そんな距離は離れてないです。徒歩で15分くらいですか。で、大岡というのは黄瀬川のすぐ側で、鮎壺の滝という大きな滝もすぐ上流。大岡近辺の黄瀬川は、まさに「駿河」と呼ぶにふさわしい急流です。なので、駿河の語源は黄瀬川ではないか? と、おいらは考えるんだがね。というわけで、卑弥呼の時代に「海から」上陸した近畿地方の勢力が、当時は海岸沿いだった沼津の東熊堂から大岡あたりに拠点を作りあげ、伊豆まで含めた古代「駿河」国が成立した、と考えられるわけだ。その後、7世紀に伊豆国が独立するんだが、当初は国府は熱海に置かれたようです。
まぁ、こういうのは、あくまでも中央から見た歴史であって、そもそも愛鷹山麓とか伊豆半島とか、縄文時代から人は住んでいたわけです。で、激しい戦いでそれらを制圧して奴隷にしたというような痕跡もないので、まぁ、中央の勢力が巧みに原住民を手なずけて次第に支配下に置いていったのだろうが、それでも奈良時代に至っても、箱根の山中には縄文時代とたいして変わらない生活をする人たちが住んでいたという痕跡もあるわけで、歴史というのは色んな人間が入り乱れて作りあげるモノなので、特に古代においては、今のように世の中いっぺんには変わらなかった、という事ですね。
邪馬台国は沼津にあった
一方、アグネス・チョンは安倍の家にいた
http://www.akie-abe.jp/archives/2006/12/images/1220057098.jpg
投稿 フリーフォール | 2009/09/08 23:56
旧清水市の近くに弥生時代の「登呂遺跡」があった筈です。駿河に歴史あり・・・って感じでしょうか。年代特定ですが近代の「放射性炭素年代測定」はかなりの精度で特定出来る(らしい)。前方後方墳で東日本の最古級なら、銘菓;「古墳饅頭」が発売されそうですねぇ~。よく発見できたモンです。
投稿 もりへー | 2009/09/09 00:14
>卑弥呼
野次馬先生のことだからAV女優かと思ったwww
投稿 ひろ | 2009/09/09 00:17
愛知から東の東日本では、出現期古墳としての前方後方墳が特徴的であり、教科書にあるような畿内的な前方後円墳に先行して各地に築かれたわけです。
3~4世紀の国家成立期にあっては、「古墳」から一直線に大王(のちの天皇)という理解ではなく、各地に部族ごとの政治的まとまりがまずあったということがもう一度確認されるべきでしょう。
森浩一さん(同志社大学)の名言「考古学は地域に勇気を与える学問である」を思い出しました。史跡公園化して後代に伝えていくと良いのですが、たいていの場合こういう遺構のほとんどが調査完了とともに破壊されます。悲しいです。
投稿 odinn | 2009/09/09 00:29
というか、箸墓古墳が卑弥呼の墓なら、卑弥呼の時代以前に、既に九州から関東まで緩やかながらも強大な連合体が出来ていたと考えるべきでしょう。宮内庁から箸墓古墳の埋葬者とされているヤマトトトヒモモソ媛命に関する日本書紀の記述を見たら、モモソ媛命の死の翌年、四道将軍派遣戦争で、ヤマト王朝は、東北の会津地方まで軍を進めているし。
一方、考古学上そのような考えが出てきている。纏向遺跡から出没する遺物には、九州から関東までの広範囲の遺物から出てくる。
投稿 nana | 2009/09/09 01:11
>やはり神社仏閣は大事にしましょう
ですね。日本には最古のものが沢山あるでしょうね。邪魔な奴らが滅亡していきますので、これから沢山の真実が掘り出されていくことを期待します。
投稿 FT | 2009/09/09 01:17
そこの神社がいつ出来たのか知りませんが、神社があると言う事は中央に制圧された土地なんじゃないですか?
旧来からある巨木信仰、巨石信仰などを司る土地や基礎などの上に地域を制圧後、神社建てたりしてるわけで。
こんな事を書くと、誰かに怒られちゃいそうだけど、神社/神道ですら、いつの時代かは、新興宗教だった時があるわけです。神道がある前から現実には歴史は流れています。
レイラインと神社の関係は面白いです。自然と宗教/神道との関わりのようなネタが野次馬さんの所であれば面白いのになあ。
投稿 ザル | 2009/09/09 01:30
>ザル
神道が出現したときから、今の形式で存在していたのならそう言えるかもね。でも実際は巨木、巨石、山岳信仰を制圧して神道ができたんじゃないんだよ。神道がどのように形作られていったのかよく調べてみなよ。仏教や他の宗教とは違って、神道は教義がどこからか外から来た訳じゃないんだよ。
投稿 ソバ | 2009/09/09 01:48
野次馬さんのこの手のお話は面白いです
小中学校の地元の歴史の本とかも書いたり編集してたりするんですか?
従兄弟が原駅の側に住んでるので知らせておきます
投稿 ニコ厨 | 2009/09/09 02:46
歴史封印が徐々に紐解かれる時代になってきましたね。
珠流河国は伊達に富士山擁してません。
今も昔も、富士山は日本一の強力な気場です。
信仰が中心だった時代にさて、どう扱われていたでしょうかと。
まあ、今は汚されちゃってダウンしてる面もありますけどね。
ここの熊野神社は祭神が熊野大神。昔は熊野権現、それで東熊堂。お隣が西熊堂。
東本願寺、西本願寺の如き「参道」だったという話。
穂積神社は祭神三王子。「穂積」氏は熊野宮司系です。
「高尾山」呼びで、穂積神社が中心みたいになってます。
中腹(?)の熊野神社は穂積神社の拝殿みたいな印象すらあります。
現地では沼津特有の愛鷹山とひょっこり富士山が拝めます。
愛鷹山は箱根山同様に昔は神領でした。
中央の歴史も変遷ありで、大きなスパンではオセロの繰り返しです。
日本の歴史は縄文弥生で区切れるような単純なものではなく、もっと複雑な重層。
DNAタイプが多様なのもそれを裏付けてます。
ただ、勝者が作ったのが歴史。どこも「東征」なるものや「焚書」で踏み潰されて歴史を失ってる。
真の歴史を紐解くには、秘匿物が出て来やすい形が整う必要もある。
徐々にそういう時代になってきましたが、どうあれ愛鷹山は層が古過ぎるのでまあなかなか。
レイラインでいえば牛臥山とここが直列。あそこも聖地です。
んで、市場町の八幡神社でダンゴ。
そろそろ、背中押されるように動く時かな。
投稿 AKGD改め一八八 | 2009/09/09 02:58