孝明天皇(こうめい・てんのう)を語る上で重要な点は、天皇がなぜ「攘夷(じょうい)」とう思想を強く持つに至ったかです。
その強さというのは半端なものではなく、安政の大獄などを経てもその信念を曲げることはありませんでした。
孝明天皇が攘夷思想にこだわらなければ、日本は全く別の歴史を歩んだと思われます。
条約勅許問題も起きなければ、尊皇(そんのう)攘夷派なるものが形成されることもなかったと考えられるからです。
なぜ孝明天皇が攘夷思想を持ったのか、これまで歴史家の多くは、孝明天皇が単なる「外国嫌いの臆病者」だったからだと評価してきました。
しかし私は、全く違うと確信しています。
前回の第164回で紹介した譲位の勅の中に天皇が鎖国攘夷を信念とする理由が書かれています。
これを読めば天皇がただの臆病者でないことがよく分かるはずです。
孝明天皇は天皇としての強い責任感を持っていらっしゃいました。
朝廷は改革には価値を見出しません。
先代まで守ってきたものをそのまま次の代に受け継ぐこと、とにかく変わらないことを最高の価値とします。
孝明天皇は、二千年継承してきたものを自らの代で狂わせてしまったら先祖に対して申し訳ないという感覚を持っていらっしゃったと考えられます。
もし天皇がただの臆病者だったなら、ここまで信念を貫き通すことはできなったはずです。
慶應二年十二月十一日、内侍所(ないしどころ)で行われた臨時神楽(かぐら)に孝明天皇は出御(しゅつぎょ)(天皇がお出ましになること)あそばされました。
少々風邪気味であり、途中で気分を悪くして退席、翌十二日には発熱、十五日には吹き出物が現れ、孝明天皇の病は痘瘡(とうそう)(天然痘)であると結論付けられました。
その後、症状は一般的な痘瘡と同じ経過を推移し、回復に向かいますが、二十四日の夜、容態が急変し、嘔吐(おうと)と下痢、高熱、下血に苦しみ、翌二十五日午後十一時頃、凄絶な断末魔の苦しみの果て崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)となりました。
孝明天皇の崩御については、当時から現在に至るまで、さまざま噂があり、憶測が語られてきました。
たとえば、イギリスの駐日外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、孝明天皇が毒殺されたのではないかという陰謀論があったことを紹介しています。
また、昭和二十九年にねづまさし氏は、孝明天皇暗殺説を論じることが許されない空気について、次のように述べています。
「敗戦にいたるまで、もしこの公式事実(孝明天皇の死因が痘瘡であること)にいささかでも疑惑をいだく者があれば、不敬として非難され、あるいは法律に追及されて投獄されたであろう。
小学校から帝国大学にいたるまで、この公式事実が教えられ、学者でこの問題に疑惑をいだいて、進んで研究しようという人さえいなかった。
また公然と毒殺説をかいた文献は、日本語では一冊もなかった。
ただ当時日本に駐在したイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記「日本における外交官」(後に「一外交官の見た明治維新」と題して公刊されるが、これは原書のタイトルを直訳したもの)に、うわさとして記されているのが唯一の文献であるが、邦訳書では、この個所はけずられている。
したがって日本の文献では、毒殺と主張し、または明らかに、そう読みとられるような記事を示したものは一つもなかった、といっても決して過言ではないのである。
(中略)
いやしくも現神である一天萬乗の天皇が、誰人かによって毒殺されたということは、実際にそうであったとしても許すべからざることで、もし病死を疑わしめる史料があれば、前記引用の公式の記録以外は永久に公表を禁じられたにちがいない。」
(括弧書きは筆者による)
(ねずまさし「孝明天皇は病死か毒殺か」、『歴史学研究』歴史学研究会編、岩波書店、第一七三号、一九五四年七月、二十八ページ)
(つづく)
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