安政(あんせい)五年(一八五八)、条約勅許(ちょっきょ)問題が起こります。ハリスの求める通商条約締結の可否について、諸大名の間で意見がまとまらず、幕府は朝廷のお墨付きを以って、統率を図ろうと、天皇に条約締結の勅許(天皇の許し)を求めたのです。
しかし、孝明天皇は頑として勅許を拒みました。この時天皇が関白九条尚忠(くじょう・ひさただ)に宛てた宸翰(しんかん)(天皇直筆の手紙)には
「外国人の言いなりになって通商条約を結べば、後々までの恥の恥で、伊勢神宮に恐縮であるばかりか、先祖には不孝で、自らの身を置く場所もない」
と書かれていました。
この言葉に孝明天皇の信念の凄まじさを感じずにはいられません。
ところが、井伊直弼(いい・なおすけ)が大老に就任すると、幕府は朝廷に無断で通商条約に調印してしまいます。
孝明天皇は条約締結に激怒し、絶望し、そして天皇を辞めることを決断します。
これは天皇の地位を投げ出す、というようなものではなく、まさに日本の国柄というものが自分の代でなし崩し的に壊れていくことへの悲憤(ひふん)と抗議の譲位(じょうい)(天皇を辞めること)でした。
この時書かれた「譲位の勅諚(ちょくじょう)」には孝明天皇の気持ちがよく現れています。長文ですが、重要な部分なので全文、現代語訳を掲載します。
古書に記される通り、元来帝位(ていい)(天皇の位)を踏むことは容易なことではない。
唐(中国)に於いては子孫に限らず、たとえ平民であろうとも賢才(けんさい)があれば皇帝になることができる。
しかし日本では帝位は子孫による相続が正流であり、他流を用いない。
神武(じんむ)帝より皇統が連綿と続くことは他国に例がなく、日本に限られることである。
統仁(おさひと)(孝明天皇)においても愚昧短才(ぐまいたんさい)の質(たち)ながら、その血脈が違わぬことをもって、恐み恐みながら天日嗣(あまつひつぎ)(皇位)を継いだ。
先帝(仁孝天皇)が崩御(ほうぎょ)されたとき、践祚(せんそ)(帝位に就くこと)を固く辞退すべきだったが、当時はすっかり愁傷(しゅうしょう)して心気惑離の状態であり、前後をわきまえずに践祚してしまい、その後追々即位の大礼も済ませてしまった。
この上は、暗味(あんまい)の質(たち)ながらも精力を尽くし、神宮はじめ皇祖(こうそ)に対し奉り、聖跡(せいせき)を穢(けが)さず国を治めるつもりであったが、元来愚力(ぐりょく)に及ばず、歎息(たんそく)の至りであった。(「愚昧」は、おろかで物の道理に暗いこと。「短才」は、才能がとぼしいこと。「聖跡」は、歴代天皇の功績。)
ところが、去る安政元年、禁裏(きんり)(皇居)の炎上の後、諸国の変事が数度あり、万民が不安を感じるに至ったのは、皆統仁の薄徳(はくとく)によるもので、悲痛は無限である。
謹んで国を治めるつもりであるが、既に述べた通り、暗昧の質、微力に及ばず、異国船が度々渡来し、アメリカ使節は和親通商を乞い、表面上は親睦の情を述べ、実は後年日本を併合する意図の見える条約で、幕府の閣老を通じて問い合わせがあったが、実に容易なことではない。
先頃愚存(ぐぞん)を認めて回覧させ、その後も昼夜考えを巡らせたが、この一件は何があっても許し難い。
実にもって神州の瑕瑾(かきん)(傷つくこと)、その上邪法(じゃほう)(邪悪な宗教)が伝染することなども測り難く、なかなか許すまじきことである。(「薄徳」は、人徳が薄いこと。「暗昧」は、道理がわからず、愚かなこと。)
しかし、もしこれを許さなければ、戦争に及ぶことになる。
然る時、人々の気は怠慢で、武備は整わず、諸外国に敵することは難しい。
誠に絶体絶命の時であると、実に痛心している。
武士の名目で、たとえ平和な治世が続いているとしても、戦えないということでは実に征夷大将軍の職官として嘆かわしい。
政務は関東に委任してあるので、強く言うと公武の関係に影響があるので、これまた容易なことではないが、条約の一件は、いかに致したとしても神州の瑕瑾、天下危亡(きぼう)の基、統仁においては何国迄も許容いたし難い。
昨日武家伝奏(ぶけてんそう)(幕府との窓口を担う朝廷の役人)が持参した書状を披見したところ、誠にもって存外の次第、実に悲痛などという程度のものではなく、言語に尽くし難き次第である。
この一大事の折柄、愚昧統仁願うに、帝位にいて世を治めることは、所詮微力に及ばざることである。
またこのまま帝位にいて聖跡を穢しても、実に恐懼にたえず、誠にもって嘆かわしきことであり、英明の人に帝位を譲りたい。
差し当たり祐宮(さちのみや)(孝明天皇の皇子、後の明治天皇)がいるが、天下の安危に関わる一重大事の時節に幼年の者に譲るのは本意ではない。
よって伏見宮(ふしみのみや)と有栖川宮(ありすがわのみや)の三親王(伏見宮邦家親王、有栖川宮幟仁親王、同熾仁親王)のいずれかに譲りたく思う。
このような時節に安逸(あんいつ)の望みでこのようにいっているのではない。
既に記したような次第、愚昧の質、とても帝位に居り、万機(ばんき)の政務を聴き、国を治めること力に及ばず、その上、夷(えびす)一件で諸外国の申すまま聞いては、天神地祇皇祖(てんじんちしこうそ)に対し奉り申し訳なく、かつ所詮意見を述べたとしても、今回のように無視される次第、実にもって、身体ここに極まり、手足を置く所を知らざるに至った。
何卒、是非、帝位を他人に譲りたく、決心したので、早々関東(幕府)へ通達するように。(「安逸」は、何もせずにぶらぶらと楽をすること。)(括弧書きは筆者による)(『孝明天皇紀』第二巻、平安神宮、一九六七年七月、九二二―九二三ページ)
結局は水戸藩に「戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)」が下ることが決まり、周囲の強い説得があったことで孝明天皇は譲位を断念することになりますが、この文章には悲劇の天皇の姿を見ることができるだけでなく、天皇という立場がどのようなものか、その片鱗を垣間見ることができます。
(つづく)
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