vol.163 孝明天皇の御聖徳A―幕末のはじまり
一口に幕末といっても、いつからが幕末なのかを明言するのはなかなか難しいものがあります。私は、孝明天皇(こうめい・てんのう)の祖父にあたる光格天皇(こうかく・てんのう)の即位を以って幕末の始まりと考えています。
後桃園天皇(ごももぞの・てんのう)が崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)した時、皇太子が定まっていない上に、天皇の近親に男子がいないという大問題が発生しました。
そのため天皇が崩御となったことは隠され、その間に世襲親王家(せしゅう・しんのうけ)である閑院宮(かんいんのみや)典仁親王(すけひと・しんのう)の第六子でまだ満八歳の祐宮(さちのみや)を天皇の養子とした上で、世継ぎとする旨が決められました。
世襲親王家とは、直系に男子が不在のときに皇位継承資格者を出す、世襲が認められた傍系の宮家のことです。
天皇崩御の発表と共に祐宮が践祚(せんそ)(天皇の位に就くこと)し、後の光格天皇が誕生しますが、直系が途絶え傍系から天皇を立てたという事実は重要です。
もちろん、祐宮は東山天皇(ひがしやま・てんのう)の曾孫(ひまご)であり、御桃園天皇とは七親等の遠縁にあたるので男系による万世一系は保たれているのですが、自身が傍系の出身であるという意識は光格天皇に一種のコンプレックスを与え、理想的な天皇像を抱かせました。
この高い君主意識こそが、光格天皇に歴史的な一歩を踏み出させます。
天明(てんめい)の大飢饉のとき、何万もの民が御所に押しかける事態が起こりました。
この時光格天皇は、餓えた民が押しかけて困っているから、救済をしてくれないかと幕府に申し入れたのです。
些細なことに思えるかもしれませんが、これは歴史的に重大な意味を持ちます。
天皇が政治的発言をして幕府がこれを受け入れたとう前例を作ったからです。
これが後に、孝明天皇が幕府に次々と政治的要求を為す、重要な「前例」になるのです。
案の定、光格天皇の代から朝廷の権威が少しずつ上り始めます。天皇が政治に関与するきっかけを作った光格天皇こそ、幕末の始まりであると考えてよいのではないでしょうか。
孝明天皇が誕生した天保(てんぽう)二年(一八三一)は天保の大飢饉が始まった年です。
間もなく大塩平八郎(おおしお・へいはちろう)の乱が勃発し、対外的には、オランダ商館などを通じてアヘン戦争による清の敗北が伝えられ、対外的緊張感が高まっていました。
幕府が内憂外患(ないゆうがいかん)に苦しんでいた時期です。
そして、父・仁孝天皇(にんこう・てんのう)の突然の崩御によって孝明天皇が践祚して天皇の位についたのは弘化(こうか)三年(一八四六)で、当時まだ満十五歳という若さでした。
孝明天皇は間もなく、光格天皇の先例をもとに「海防(かいぼう)の勅(ちょく)」、つまり海の守りを厳重にするよう求める勅(天皇の命令)を幕府に下しました。
天皇が幕府に勅を下すのは、後醍醐天皇(ごだいご・てんのう)以来約五百年ぶりのことです。
光格天皇の時はあくまでも「申し入れ」であったので、この時は一段と強い形式になっていました。
この時幕府は素直に勅を受け入れたのですが、これにより、飢饉や外患などの問題について天皇は幕府に勅を下すことができるという前例が成立し、間もなく幕府は窮地に立たされることになります。
あるいは孝明天皇が攘夷(じょうい)思想を持っていなければ、このような前例は幕府を困らせなかったかも知れません。
幕府の権威が失墜する中で朝廷の権威が浮上したこと、そして孝明天皇が終始一貫して「鎖国攘夷」に異様なほどのこだわりを見せたことが明治維新への流れを決定付けることになるのです。
嘉永(かえい)六年(一八五三)、ペリーが浦賀(うらが)に来航した時、老中(ろうじゅう)首座(しゅざ)の阿部正弘(あべ・まさひろ)は日米和親条約を結びます。
和親条約は一種の紳士協定のようなもので、難破船の保護などを定める程度のものでした。
しかし、後にハリスが締結を要求した日米修好通商条約は、外国人を日本に住まわせ、積極的に通商を行うことを取り決める内容で、前の条約とはまったく性質の異なるものです。
この時、孝明天皇が鎖国攘夷の信条を周囲に表明しました。
(つづく)