vol.162 孝明天皇の御聖徳@―封印された天皇
「保守」とは何か?
平成十六年から十八年にかけて皇室典範(こうしつ・てんぱん)改定を巡る大論争が展開されてきました。平成十八年九月六日に秋篠宮妃紀子(あきしののみやひ・きこ)殿下が第三子を無事に御出産遊ばしたことで、皇室典範改正議論は沈静化しました。
若宮(わかみや)御誕生により、差し当たっての皇統の危機は回避されたものの、このままでは若宮が即位遊ばす頃には宮家が一つもなくなってしまうことが、ほぼ確実と見られています。結局問題の本質は何も解決していないので、いずれこの議論は再燃することは必至でしょう。
しかし今後の展開はともかく、我が国の伝統・文化を顧みず、また十分な議論もせずに宮中に構造改革のメスを入れようとした、かつての小泉政権のやり方に違和感を覚えた人は多かったと思います。
一方、皇室典範議論が沸騰したことで、これまで議論することが憚られてきた「皇室とは何か」ということが各種メディアで盛んに論じられることになり、国民が我が国の歴史を振り返る、絶好の機会を得たのではないでしょうか。
万世一系とは代々受け継いできた日本をそのままの形で次の世代へと引き継いで行くという、究極の保守に他なりません。日本において「保守」と「改革」は同義語であり、対の言葉ではありません。改革は「保守のための改革」であって、「改革のための改革」では革命になってしまいます。
我が国は歴史的に数々の改革を成し遂げてきました。しかし、それらは全て「保守のための改革」だったのです。そして、大和朝廷が成立して以来、日本の国体は一度も変更されることなく、現在に至っています。
保守とは、我々の先祖が築き守ってきた日本のよき伝統・文化を次の世代に継承することで、いうなれば、三種の神器をお守りすることに他なりません。そして、真の保守の姿は孝明天皇に見出すことができるのです。
価値観の多様化した今、「保守とは何か」について考えるべき時ではないでしょうか。無節操なグローバリズムに国の本義を忘れ、人心が荒廃した現代こそ、国際化という時代の趨勢(すうせい)に全力で立ち向かい志半ばにして斃れた、孤独と悲憤の孝明天皇(こうめい・てんのう)を想起すべき時なのです。
孝明天皇がその短い生涯で何と闘い、何を守ろうとしたのか、それを振り返ることは、明治維新以来現在に至るまでの日本の歩みを振り返ることでもあります。そして、今こそ孝明天皇を再評価すべき時期ではないでしょうか。
今から丁度百四十年以上前の慶應二年十二月二十五日(西暦一八六七年一月三十日)、孝明天皇は公式には痘瘡(とうどう)(天然痘のこと)のため「九穴(きゅうけつ)より御脱血(ごだっけつ)」という壮絶な崩御(ほうぎょ)を遂げられました。享年(きょうねん)三十五歳という若さでした。
健康であった若き天皇の突然の崩御は、「天皇は暗殺された」との噂を生み出しましたが、それが公に語られることは憚(はばか)られ、推測、憶測の域にとどまってきました。
孝明天皇は「公武合体による鎖国攘夷(さこくじょうい)」を生涯の政治信条としていたため、討幕への機運が高まっても、天皇は討幕に断固として反対の立場を示していたのです。
間もなく成立する明治維新政府は、孝明天皇の嫌う討幕の結果に成立した政府ですから、新政府としては孝明天皇をどのように歴史に刻むべきか、かなり神経質にならざるを得ませんでした。新政府が孝明天皇を高く評価すると、自らを否定することになってしまうからです。
結局、孝明天皇に関する情報は機密扱とされ、政府が編纂(へんさん)する歴史書には当たり障りのないことが綴られました。孝明天皇は歴史に封印されることになったのです。
しかし、日本国憲法が制定されて「学問の自由」が広く認められたこと、そして明治維新からだいぶ時間が経ち、孝明天皇を研究することの政治的な緊張がほぐされたことなどにより、戦後になってようやく孝明天皇を研究することが容認される空気になりました。徐々に封印が解かれつつある孝明天皇研究は、幕末維新史の中でも、今一番熱い部分ではないでしょうか。
孝明天皇についての基本資料『孝明天皇紀』が公刊されたのは昭和四十二年のことです。これにより、孝明天皇研究の道が開かれたといえます。明治維新研究は百四十年の歴史があるも、孝明天皇研究はまだ四十年数の歴史しかないのです。
(つづく)