一昔前まで古事記は偽書(ぎしょ)だと言われていました。編纂者の太安万侶(おおのやすまろ)の実在を示す証拠が無かったからです。
しかし昭和50年になって、偶然に茶畑から安万侶の墓が発見されました。以来偽書説は雲散霧消(うんさんむしょう)し、今となっては古事記を偽書だという人はいなくなりました。
ところが、まだ残念なことに、古事記はただの創作話であって読むに値しないといった評価が定着しているようです。
確かに古事記は神話であり、剣がひとりでに草をなぎはらったり、神が大王に指示をだしたりするなど、その記述には事実とは思えないような部分もあります。
しかし、その中には真実が含まれていると考えなくてはなりません。
古事記が編纂されたのは飛鳥時代です。この時代は科学の知識はほとんどありませんでした。
しかし、これほど大自然の摂理を正確に記述した神話が他にあるでしょうか。
高天原(たかまがはら)の統治者を太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)としたことは、生命の根源が太陽にあることを経験的に知っていた結果でしょう。
植物は光合成によって有機物を作り出し、動物はこれを体内に取り込むことで細胞を構成し、活動するのです。
また、高天原を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)が、鼻・口・尻から食材を出して料理して差し出した大気津比売神(おおげつひめのかみ)を殺した時、その神の屍から蚕・稲・栗・小豆・麦・大豆などが次々と生じたという逸話が古事記にありますが、これが後に「種」として地上に授けられたのが五穀の起源とされます。
排泄物から料理を作った神の屍から五穀が生じたというのは、排泄物が大自然に還り、また食物になるという物質循環の仕組を暗示しているといえます。
飛鳥時代の日本人は排泄物も資源であることを知り、畑に人糞を入れて農業をしていました。
また神の子孫が人であるとう考え方も、ある意味で科学的です。
日本人の言う神とは大自然のことであり、大自然が人を生み育んできたことは事実なのです。
両親は二人、祖父母は四人という具合に先祖を遡ると、二十代で先祖は百万人を超えます。さらに遡ると、我々の先祖は大自然に無限に拡大していくことになります。
したがって、人は神の子孫であるという考えは理に叶っているといえるのです。
古代の日本人は科学の知識がなくとも、鋭い観察力により大自然の原理を体で知っていたのでしょう。
そして古事記に記された自然観が、現代日本人の自然観となっています。
人は大自然の恵みによって生かされる存在であり、日本人は感謝の念を抱きながら歩んできたのです。
古事記を読んで今一度先祖の描いた自然観を見直してみてはいかがでしょうか。