皇室のきょうかしょ 皇室のあれこれを旧皇族・竹田家の竹田恒泰に学ぶ!
vol.154 両陛下御成婚五十周年を振り返って
 平成二十一年四月十日、両陛下は御成婚五十年の慶節(けいせつ)をお迎えになりました。
 この日、河村建夫(かわむら・たけお)官房長官が記者会見で、「両陛下は常に世界の平和と国民の幸せを願い、身を粉(こ)にして国民のため、国民とともに歩んでこられた。政府としても両陛下のご結婚満五十年の日を心からお祝い申し上げ、合わせて両陛下のますますのご健勝と皇室の弥栄(いやさか)を謹(つつし)んでお祈り申し上げる」と述べたほか、皇居ではいくつもの行事が行われました。
 まず両陛下は、御所(ごしょ)で侍従長(じじゅうちょう)及び侍従職(じじゅうしょく)からお祝いのあいさつをお受けになり、宮殿で宮内庁(くないちょう)と皇宮(こうぐう)警察の職員・元職員らからお祝いのあいさつをお受けになりました。
 正午前頃、両陛下は宮殿「松の間」で、麻生太郎首相をはじめ衆院議長、最高裁長官らからお祝いのあいさつをお受けになりました。
 この時、両陛下がお立ち退きになる際に、出席者から大きな拍手が起き、両陛下が一度歩みを止められ、微笑まれたそうです。宮殿「松も間」は国事行為をはじめとする厳粛な行事が行われる場所で、このように拍手が沸き起こることは珍しいことです。
 その後、両陛下は再び宮殿「松の間」に出御(しゅつぎょ)あそばし、引き続き東宮(とうぐう)両殿下をはじめ、皇族方からお祝いのあいさつをお受けになりました。
 宮内庁庁舎前では朝から一般を対象にしたお祝いの記帳が始まり、午後には両陛下御出席の下、皇宮警察本部音楽隊による記念演奏が行われました。
 演奏会が終わると、両陛下は記帳者の近くまでおいで遊ばし、親しくお声をお掛けになる場面もありました。その場に居合わせた記帳者たちのなかには、感動のあまり涙ぐむ人もいたといいます。
 両陛下は宮殿の「豊明殿(ほうめいでん)」へお移りになり、今年金婚式を迎える夫婦約100組を招いての茶会にご出席遊ばしました。この茶会は両陛下の発案によるものだそうです。
 その他の茶会などもあり、両陛下が宮殿での行事を終えられ、御所にお戻りになったのは午後六時半頃でうす。両陛下は御所で敬宮愛子(としのみや・あいこ)内親王殿下、眞子(まこ)内親王殿下、佳子(かこ)内親王殿下、悠仁(ひさひと)親王殿下からお祝いのあいさつをお受けになりました。
 両陛下はいつも国民のことばかりを考えて歩んでこられました。御成婚五十周年の良き日にあたり、国民が両陛下のお幸せをお祈り申し上げることができたのは、素晴らしいことではないでしょうか。
 両陛下と国民の間の強い結びつきを改めて感じさせられた一日でした。

 そして、御成婚五十周年に際しての両陛下の御会見も見逃すことができません。かつて、銀婚式に際しての御会見で、天皇陛下は皇后陛下に「努力賞」を、皇后陛下は天皇陛下に「感謝状」をそれぞれ差し上げられたいとおっしゃいましたが、記者がこれについて質問すると、天皇陛下は、

 「結婚五十年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。皇后は「この度も努力賞がいい」としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力をよみしての感謝状です。本当に五十年間よく努力を続けてくれました。その間にはたくさんの悲しいことや辛いことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。」

 と仰せになり、感極まった御様子で「私ども二人を五十年間にわたって支えてくれた人々に深く感謝の意を表します」と仰いました。

 これを受けて皇后陛下は、

 「このたびも私はやはり、「感謝状」を、何かこれだけでは足りないような気持ちが致しますが、心を込めて「感謝状」をお贈り申し上げます。」

 と仰せになりました。
 両陛下のこの御言葉を聞いて、胸が熱くなった人も多かったことでしょう。
 その他にも記者からいくつかの質問がありましたが、その中で皇室の伝統のありかたと、次世代への引き継ぎについて、天皇陛下からは、

 「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています。なお、大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。」

 と重要な御言葉があり、

 「私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。この中には新嘗祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀(さいし)もありますが、田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、田植えのように新しく始められた行事は、形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。」

 と、伝統についてのお考えを御話しになりました。そして、次世代への継承については、

 「先ほど天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。」

 と、望ましいあり方を求める心持ちが受け継がれるべきことの大切さについて御話しになりました。
 両陛下の御言葉は、やさしく、深く、考えさせられるところがあります。ぜひ全文を読んでみてください。


【参考資料】御成婚五十周年に際しての御会見(全文)
《問1》両陛下にお尋ねいたします。ご成婚の日から50年の月日が流れ、高度成長期からバブル崩壊、いくつもの自然災害や景気悪化など、世相、人の価値観も大きく変わる中、両陛下も皇室に新しい風を吹き込まれてきました。皇太子同妃両殿下として、天皇、皇后両陛下として夫婦二人三脚で歩んできたこの50年を振り返り、お二人で築き上げてきた時代にふさわしい新たな皇室のありよう、一方で守ってこられた皇室の伝統についてお聞かせいただくとともに、それを次世代にどう引き継いでいかれるのかもお聞かせください。

 《天皇陛下》私どもの結婚50年を迎える日も近づき、多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを、誠にうれしく、深く感謝しています。ただ、国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢の最中のことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。
 顧みますと私どもの結婚したころは、日本が多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から日本国憲法のもと、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました。
 その後の日本はさらなる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し、人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。
 また、都市化や海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は人々の生活から離れた存在となりました。
 結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と、昭和47年の沖縄県の復帰があげられます。
 両地域とも、先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。
 一方、国外では平成になってからですが、ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後、紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。
 今日、日本では人々の努力によって都市などの環境は著しく改善し、また、自然環境もコウノトリやトキを放鳥することができるほど改善されてきましたが、各地で高齢化が進み、厳しい状況になっています。ますます人々が協力し合って、社会を支えていくことが重要になってきています。
 私どもはこのように変化してきた日本の姿とともに過ごしてきました。さまざまなことが起こった50年であったことを改めて感じます。
 皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ、また、私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。
 不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司神宮祭主のことは、いつも心にかけ、那須、軽井沢、浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。
 姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが、ある時、昭和天皇から、私どもと大変楽しく過ごしたと聞いたがどのように過ごしたのか、というお話があったことがありました。
 皇后はきょうだいの中で姉だけを持たず、私との結婚で姉ができたことがうれしく、誘ってくれていたようなのですが、この時の昭和天皇が大変喜ばれた様子が今でも思いだされます。
 私ども二人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて、大勢の職員とともにする生活には、戸惑うことも多かったと思います。しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また、天皇として務めを果たしていく上に、大きな支えとなってくれました。
 時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが、私は即位以来昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたびに思いを致し、また、日本国憲法にある「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。
 象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています。
 なお、大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。
 守ってきた皇室の伝統についての質問ですが、私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。この中には新嘗祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀(さいし)もありますが、田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。
 新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、田植えのように新しく始められた行事は、形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。
 従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。
 学士院賞や芸術院賞受賞者などを招いての茶会なども、皇后とともに関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者、新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。
 皇室の伝統をどう引き継いでいくかという質問ですが、先ほど天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。

 《皇后陛下》50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りましたとき、不安と心細さで心がいっぱいでございました。今日、こうして陛下のおそばで金婚の日を迎えられることを、本当に夢のように思います。
 結婚以来今日まで、陛下はいつもご自分の立場を深く自覚なさり、東宮でいらしたころには、将来の象徴として、後に天皇におなりになってからは、日本国、そして国民統合の象徴として、ご自分のあるべき姿を求めて歩んでこられました。
 こうしたご努力の中で、陛下は国や人々に寄せる気持ちを時とともに深められ、国の出来事や、人々の喜び、悲しみに、お心を添わせていらしたように思います。
 50年の道のりは長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯(しんし)に取るべき道を求め、指し示してくださいましたので、今日までご一緒に歩いてくることができました。
 陛下のお時代を共に生きることができたことを、心からうれしく思うと共に、これまで私の成長を助け、見守り、励ましてくださった、大勢の方たちに感謝を申し上げます。
 質問の中にある皇室と伝統、そして次世代への引き継ぎということですが、陛下はご即位に当たり、これまでの皇室の伝統的行事および祭祀(さいし)とも、昭和天皇の御代のものをほぼ全部お引き継ぎになりました。
 また、皇室が過去の伝統とともに現代を生きることの大切さを深く思われ、日本各地に住む人々の生活に心を寄せ、人々とともに今という時代に丁寧にかかわりつつ、1つの時代を築いてこられたように思います。 
 伝統とともに生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家がどれだけ力強く、豊かになれているかということに、気付かされることがあります。
 一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名のもとで、古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。
 また、伝統には表に表れる型と、内に秘められた心の部分とがあり、その2つがともに継承されていることも、片方だけで伝わってきていることもあると思います。
 WBCで活躍した日本の選手たちは、よろいも着ず、切腹したり、「ござる」とか言ってはおられなかったけれど、どの選手もやはりどこかサムライ的で美しい強さを持って戦っておりました。陛下のおっしゃるように、伝統の問題は、引き継ぐとともに、次世代に委ねていくものでしょう。
 私どもの時代の次、またその次の人たちが、それぞれの立場から、皇室の伝統にとどまらず、伝統と社会との問題に対し、思いを深めていってくれるよう願っています。

《問2》両陛下にお尋ねします。お二人が知り合われてからこれまでにさまざまな言葉のやり取りがあったと思います。色々なエピソードが伝わっていますが、陛下はどのような言葉でプロポーズをされ、皇后さまは陛下にどのような言葉を伝えてご結婚を決意されましたか。銀婚式を前にした会見では、陛下は皇后さまに「努力賞」、皇后さまは陛下に「感謝状」をそれぞれ差し上げられたいと述べられましたが、改めてお互いに言葉を贈られるとすれば、どのような言葉になりますか。ご夫婦としてうれしく思われたこと、苦労されたこと、悲しまれたこと、印象に残った出来事、結婚されてよかったと思われた瞬間のこと、夫婦円満のために心掛けられたことなど、お伺いしたいことは多々ありますが、お二人の50年間の歩みの中でお心に残ったことについて、とっておきのエピソードを交えながらお聞かせください。

 《天皇陛下》私のプロポーズの言葉は何かということですが、当時、何回も電話で話し合いをし、ようやく承諾をしてくれたことを覚えています。プロポーズの言葉として一言で言えるようなものではなかったと思います。
 何回も電話で話し合いをし、私が皇太子としての務めを果たしていく上で、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました。承諾してくれたときは本当にうれしかったことを思いだします。
 結婚50年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。皇后は「この度も努力賞がいい」としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力をよみしての感謝状です。
 本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間にはたくさんの悲しいことや辛いことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。
 夫婦としてうれしく思ったことについての質問ですが、やはり第一に二人が健康に結婚50年を迎えたことだと思います。二人のそれぞれのあり方についての話し合いを含め、何でも二人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。 皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活にいつも笑いがあったことを思いだします。また、皇后が木や花が好きなことから、早朝に一緒に皇居の中を散歩するのも楽しいものです。私は木は好きでしたが、結婚後、花に関心を持つようになりました。

 語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓

 婚約内定後に詠んだ歌ですが、結婚によって開かれた窓から、私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。終わりに私ども二人を50年間にわたって支えてくれた人々に深く感謝の意を表します。

 《皇后陛下》たくさんの質問があって、全部はお答えできないかもしれません。とりわけ、婚約のころのことは、50年を超す「昔、昔のお話」で、プロポーズがどのようなお言葉であったか、正確に思いだすことができません。
 また、銀婚式を前にしてお尋ねのあった同じ質問に対してですが、このたびも私はやはり、「感謝状」を、何かこれだけでは足りないような気持ちが致しますが、心を込めて「感謝状」をお贈り申し上げます。
 次の夫婦としてうれしく思ったこと。このようなお答えでよろしいのか…。嫁いで1、2年のころ、散策にお誘い頂きました。赤坂のお庭はクモの巣が多く、陛下は道々クモの巣を払うための、確か寒竹だったか、葉の付いた細い竹を2本切っておいでになると、その2本を並べてお比べになり、一方の竹を少し短く切って、渡してくださいました。
 ご自分のよりも軽く、少しでも持ちやすいようにと思ってくださったのでしょう。今でもその時のことを思いだすと、胸が温かくなります。
 昭和天皇の崩御後、陛下はご多忙の日々の中、皇太后さまをお気遣いになり、さまざまに配慮なさるとともに、昭和天皇が未完のままお残しになったそれまでのご研究の続きをどのような形で完成し、出版できるか、また、昭和天皇の残されたたくさんの生物の標本をどうすればちりぢりに分散させず、大切にお預かりする施設に譲渡できるかなど、細やかにお心配りをなさいました。
 こうしたご配慮のもと、平成元年の末には「皇居の植物」が、平成7年には「相模湾産ヒドロ虫類」の続刊が刊行され、また、平成5年には昭和天皇ご使用の顕微鏡やたくさんの標本類が国立科学博物館に、平成7年には鳥類の標本が山階鳥類研究所に、それぞれ無事におさめられました。印象に残った出来事はという質問を受け、この時の記憶がよみがえりました。
 結婚してよかったと思った瞬間はという難しいお尋ねですが、もうエピソードはこれで終わりにさせていただいて、本当に小さな思い出を1つお話し致します。
 春、コブシの花が取りたくて、木の下でどの枝にしようかと迷っておりましたときに、陛下が一枝を目の高さまで降ろしてくださって、そこにほしいと思っていたとおりの美しい花がついておりました。
 うれしくて後に歌にも詠みました。歌集の昭和48年のところに入っていますが、でも、このようにお話をしてしまいましたが、それまで一度も結婚してよかったと思わなかったということではありません。
 この50年間、陛下はいつも皇太子、また、天皇としてのお立場を自覚なさりつつ、私ども家族にも深い愛情を注いでくださいました。
 陛下は誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います。

 (注釈、皇后陛下がご指摘遊ばした御歌は「仰(あふ)ぎつつ花えらみゐし辛夷(こぶし)の木の枝さがりきぬ君に持たれて」)

《関連質問》ご結婚50年おめでとうございます。両陛下は4月10日、今年結婚50年を迎えられるご夫婦をお招きになって茶会を開かれます。これは両陛下のご発案と聞いておりますけれども、どのようなお気持ちでこの茶会を開かれたいと思われたのか、そこら辺のことをお聞かせいただけないでしょうか。

 《天皇陛下》もちろんこの100組の、結婚50年を迎える人々を呼ぶということには、二人の意思とともに宮内庁長官をはじめ、関係者の色々な尽力があったことと思います。
 ちょうど私どもが結婚してからの50年は、先ほどもお話ししましたように、さまざまな出来事の多い時だったと思います。
 結婚したころは必ずしも豊かでありませんでしたが、みな希望に満ちて未来に向かって進んでいったのではないかと思います。そして、その前の時代に戦争があり、その戦争の厳しい環境の中で、青少年時代を送ったことだと思います。 このように、この結婚50年の人々はさまざまな、そして、共通した経験をして今日に至っていると思います。
 このたび、結婚50年に当たって、結婚50年を迎えられる人々をお招きしてこの茶会を催し、それぞれの皆さんがたどってきた道を話し合うということは、私どもにとっても意義深いことだと思いますし、また、お互いに話し合って楽しい一時になるのではないかと期待しています。

 《皇后陛下》いま陛下がすべてお話くださいました。私も当日を楽しみにしております。


出典:「お世継ぎ」(平凡社)八幡和郎 著
皇室の系統図(クリックで拡大)

≪バックナンバー≫

 第153回  第152回  第151回  第150回  第149回  第148回  第147回  第146回  
 第145回  第144回  第143回  第142回  第141回  第140回  第139回  第138回  第137回  
 第136回  第135回  第134回  第133回  第132回  第131回  第130回  第129回  第128回  
 第127回  第126回  第125回  第124回  第123回  第122回  第121回  第120回  第119回  
 第118回  第117回  第116回  第115回  第114回  第113回  第112回  第111回  第110回  
 第109回  第108回  第107回  第106回  第105回  第104回  第103回  第102回  第101回  
 第100回  第99回  第98回  第97回  第96回  第95回  第94回  第93回  第92回  第91回  
 第90回  第89回  第88回  第87回  第86回  第85回  第84回  第83回  第82回  第81回  
 第80回  第79回  第78回  第77回  第76回  第75回  第74回  第73回  第72回  第71回  
 第70回  第69回  第68回  第67回  第66回  第65回  第64回  第63回  第62回  第61回  
 第60回  第59回  第58回  第57回  第56回  第55回  第54回  第53回  第52回  第51回  
 第50回  第49回  第48回  第47回  第46回  第45回  第44回  第43回  第42回  第41回  
 第40回  第39回  第38回  第37回  第36回  第35回  第34回  第33回  第32回  第31回  
 第30回  第29回  第28回  第27回  第26回  第25回  第24回  第23回  第22回  第21回  
 第20回  第19回  第18回  第17回  第16回  第15回  第14回  第13回  第12回  第11回  
 第10回  第 9回  第 8回  第 7回  第 6回  第 5回  第 4回  第 3回  第 2回  第 1回
作家 プロフィール
山崎 元(やまざき・はじめ)
昭和50年、東京生まれ。旧皇族・竹田家に生まれる。慶応義塾大学法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究に従事。明治天皇の玄孫にあたる。著書に『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)がある。
artist H.P.>>
「皇室へのソボクなギモン」サイン会
ケータイタケシ

 ケータイでコラムも読める!

ケータイタケシ
URLをケータイへ送る