高松宮(たかまつのみや)が参内して昭和天皇に戦争回避を直訴(じきそ)したのは昭和十六年十一月三十日の朝のことでした。
あるいはこの兄弟の会話は、戦争を最終局面で回避できる最後の機会だったのかも知れません。
この戦争の勝ち目は五分五分程度で、開戦は辞めるべきだと進言した高松宮に対し、昭和天皇はただ黙っていらっしゃり、話が終わると一言「そうか」とだけおっしゃいました。
天皇は複雑な心境でいらしたことでしょう。高松宮は大本営(だいほんえい)海軍参謀(さんぼう)に過ぎず、軍令部を代表して意見を述べる立場になく、皇族といえども職務の範疇(はんちゅう)を越える部分について天皇に意見を述べることは許されませんでした。
昭和天皇と高松宮は、このときのことをそれぞれ次のようにお話しになっています。
「私は立憲君主国の君主としては、政府と統帥部(とうすいぶ)の一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東條(とうじょう)は辞職し、大きな「クーデター」が起こり、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかった。」(昭和天皇独白録)
「陛下は、とても筋を大切にされるからね。筋違いのことを嫌われる。所管の大臣や、軍の責任者が申し上げるべきことだからね。あの時は、陛下はただ聞いていられたな。他の者が申し上げても、おききにならない〈中略〉陛下はとにかく民主的でいられるからね」(「高松宮かく語りき」文藝春秋、一九七五年二月号)
この日の午後、昭和天皇は木戸幸一(きど・こういち)に高松宮の言上についてお尋ねになりました。
木戸は「今度の御決意は一度聖断あそばさるれば後へは引けぬ重大なるものであるます故、少しでも御不安があれば充分念には念を入れて御納得の行く様にあそばされねばいけないと存じます」(木戸日記)と述べ、首相、海軍大臣、軍令部総長をお召しになり直接お確かめになるべきだと奉答(ほうとう)(天皇の問いに対して答えること)しました。
参内した東條首相、嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)海相、永野修身(ながの・おさみ)軍令部総長からは十分に勝算があるとの奉答があり、十二月一日の御前会議で対米英蘭戦の開戦が正式に決定しました。
昭和天皇と木戸は高松宮の進言を受け入れて和平に舵を切るべきだったとの論もあります。
しかしこれも所詮は結果論に過ぎないのではないでしょうか。
もしこの時戦争を止めたなら、軍部が暴走して取り返しの付かない形で戦争になだれ込んでいったであろうことは、木戸だけでなく、天皇もお話になっていらっしゃるとおりです。
また木戸によると、秩父宮(ちちぶのみや)を天皇に擁立(ようりつ)しようとする動きもあったといいます。
二・二六事件などのクーデター事件は実際に起こった事件であり、主戦論を抑えたらクーデターが起きただろうという考えを簡単に否定することはできません。
社会の空気も開戦以外の論は到底認めるものではありませんでした。
しかしながら、開戦直前に皇族の一人が天皇に和平を進言したという事実は非常に重要な意味を持つものであり、後世に語り継ぐべきでしょう。
このようにして太平洋戦争が始まりました。
木戸孝允(きど・こういん)は、剣の達人と言われながら、「逃げの小五郎」、つまり闘争を避け一度も剣を抜かなかった人物として知られています。
その孫に当たる木戸幸一もやはり祖父同様、冷静沈着な人物であったようです。
木戸の行動は、決して感情に流されることなく、常に緻密な分析に裏打ちされたものでした。
表面だけ見れば、日本は無益な戦争に突入し、惨憺たる結果に至ったわけですが、終戦後も皇室は残り、わが国は見事に復興を果たし、現在は経済的に恵まれた近代国家として自由と平和を謳歌(おうか)しています。
それを可能にしたのは、随所に木戸の功績を見出すことができます。
たとえば同じ戦争に突入するにしても、「白紙還元の御諚」の有無は大きな違いであり、和平へ向けて努力した航跡も大きな意義がありました。
そして、今回はほとんど触れることができませんでしたが、終戦への道筋をつけ、終戦処理内閣を立ち上げたのも木戸でした。
その後木戸は、自らが東京裁判で処刑を免れれば天皇は訴追されないはずだとの信念に基づいて果敢に争い、獄中でも天皇の退位問題、天皇の戦争責任問題への配慮を続けました。
東京裁判の結果、木戸は処刑を免れて終身刑となり、天皇の訴追は行われませんでした。木戸幸一がいなければ皇室はいま存続していないと思われます。
最後の内大臣・木戸幸一(おわり)
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