近衛文麿(このえ・ふみまろ)総理が退陣した日、次の総理について天皇から木戸に下問(かもん)(天皇が臣下に問いかけること)があり、翌十七日、重臣会議を経て東條英機(とうじょう・ひでき)に大命降下(たいめいこうか)(天皇が内閣総理大臣を任じること)がありました。
総理大臣の候補者として東條を天皇に推薦したのは木戸幸一(きど・こういち)です。
後年、歴史家たちの多くは「木戸が東條を指名したから戦争になった」と論じてきました。
しかしそれは結果論ではないでしょうか。木戸は東京裁判で「私は戦争をくいといめるために東条を指名しました」(尋問調書)と述べています。
満州事変、日華事変で明らかなように、統帥部(とうすいぶ)(軍部)の首脳と政府が反対しても現場に展開する軍が暴走することはこれまでに何度かありました。
新聞を中心とするメディアが盛んに戦争を煽(あお)ったこともあり、国論はすでに「開戦」一色となっていたことは事実です。
東條が組閣(そかく)を命じられた日、朝日新聞は「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意はすでに立っている。待つところは、『進め!』の大号令のみ」と記しました。
もし開戦するならば総理は、全般の事情に通じ、かつ軍部を抑えられる人物でなくてはならず、もし日米交渉が妥結(だけつ)して和平の道を歩むとしても、軍部の暴走、内乱などを防ぐために、やはり事情に通じ、軍部を抑えられる人物でなくてはなりませんでした。
すると、東條陸軍大臣か及川(おいかわ)海軍大臣の二人以外に選択肢はなかったのです。
及川を指名した場合に陸軍が反発するのは目に見えており、陸軍が陸軍大臣を出さければ組閣(そかく)ができません。
したがって、自ずと選択肢は東條しかなかったことになります。木戸は後年次のように回想しています。
「これは、仕方がない。しかし、あの時はそうしてやらなければ治まらない。それしか方法はないんだな。それでなければだらしのない格好で戦争に転がりこんじゃうか、どっちかだったんだね。」(速記録)
また、木戸は別のインタビューで次のようにも述べています。
「もしこの軍部の勢いを止めようとして陛下が正面に出られてだね、それでその結果、皇室が陸軍に乗っ取られるというか、国民にソッポを向かれたら……、しかも戦争には突入するということになればだ、これは日本の滅亡になってしまう」(『決断した男木戸幸一の昭和』文藝春秋)
中国から撤兵すれば戦争にはならなかったという意見もあります。しかし、これも結果論に過ぎないというべきではないでしょうか。
例え話をすると、次のようなことだろうと思います。
イラク戦争直前に、イラク攻撃を決定した米国に対し、日本は米国とイラクを仲介できた立場にありました。
ところが、その時点ではまさか大量破壊兵器が存在しないとは誰も考えていなかっただけでなく、国際社会は容赦なくサダム・フセイン政権に悪のレッテルを貼り付けました。
私は開戦直前までバグダッドで情報を収集しており、イラク政府の幹部から大量破壊兵器は存在しないことを聞いていましたが、私の「日本は米国を諌めて戦争を回避に尽力すべき」との発言は、「テロを擁護するのか!」との反論に遇い、容赦なくテロ擁護者のレッテルを貼られました。
当時このような発言をしていた評論家は皆無に等しいのです。
「戦争を避けるべきだった」とは、今になってようやく言えることであり、開戦前にはそのような意見は誰にも聞き入れられるものではなかったのです。
昭和十六年の状況もこれと同じです。結果論として中国から撤兵すべきだったとは今になって初めて言えることであり、当時そのような発言ができる空気はありません。
政府と統帥部の決定が覆ったのは憲政史上、この一回だけであり、木戸にとっては九月六日の御前会議の決定を白紙に戻すだけでも、これは大変なことでした。
天皇から東條に九月六日の御前会議を白紙にするよう御下命があれば、東條は真剣に和平交渉に取り組むと木戸は考えました。
そしてこれは現実となり、天皇の和平を望む思召(おぼしめし)(天皇のお考え)は木戸を経由して東條に伝えられました。
これは、御前会議で御製(ぎょせい)をおよみになったことと併せて、後に「白紙還元の御諚(ごじょう)」と呼ばれることになります。
東條は総理に任じられてから、和平に向かってがむしゃらに動きました。
この豹変(ひょうへん)ぶりは、統帥部の部内日誌に「東條は変節した、まるで近衛と同じような意見を吐くに至った」と記されたことからも伺えます。
また、優秀な外交官である東郷茂徳(とうごう・しげのり)を外務大臣に起用したところにもその姿勢が見えます。
しかし、その努力の甲斐も無く、日米関係が好転することはありませんでした。
十一月二十六日に日本がハル・ノートを突きつけられると、いよいよ開戦は避けられないものとなります。(つづく)
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