対米戦争開戦の決定は、昭和天皇が明治天皇の御製(ぎょせい)(天皇の和歌)をお詠みになったことで、一旦白紙に戻されました。
そして、近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相は昭和天皇の意を受けて日米交渉妥結(だけつ)に向けて努力しました。
ところが近衛は九月二十六日、木戸幸一(きど・こういち)内大臣に辞職をほのめかす発言をしています。
陸軍が期限とともに戦争を始めるつもりなら、日米交渉を成功させる自信がないから辞職するしかないというのです。
これに対して木戸は「九月六日の御前会議(ごぜんかいぎ)を決定したのは君ではないか。あれをそのままにして辞めるということは無責任だ、そういうことならあれの決定をやり直すことを提議し、それで軍部と意見が合わないというのならとにかく、このままでは無責任ではないか」と責めました。
しかし、近衛が望んだルーズベルト大統領との首脳会談の拒絶が通知されたのが、十月二日のことです。いよいよ交渉は行き詰まりました。
近衛内閣が総辞職になった直接の引き金が、近衛首相と東条英機(とうじょう・ひでき)陸軍大臣の意見の対立だったことはよく知られています。
十月十二日に近衛首相、豊田貞次郎(とよだ・ていじろう)外務大臣、東條陸軍大臣、及川古志郎(おいかわ・こしろう)海軍大臣か会談したとき、東條一人が即事開戦を主張し、その後も近衛が二回、数時間にわたって東條と話し合いをするも結論に至らず、東條がこれ以上の会見は無用と通知したことで、近衛首相は総辞職を決意しました。
近衛内閣総辞職に至る経緯のなかで、『木戸幸一政治談話録音速記録』により初めて明らかになった部分があります。
十月十六日に近衛内閣が辞職となる数時間前、木戸と東條の間で交わされた会話から、開戦に向けてひた走る東條を説得し、近衛と東條の和解を実現しようとする木戸の姿を見出すことができます。
十月十六日の午後三時に東條が木戸を訪れたことは木戸日記に記されていますが、そのときの会話の内容は詳細に記されていませんでした。それが『速記録』で初めて明らかになりました。
木戸が近衛に、海軍首脳部は戦争の勝利を楽観視していないと伝えると、東條は
「今度の戦争は満州やなんかの大陸でやるんじゃなくて、海軍が自信がなきゃ、それはやっちゃあ大変なんだ」
とびっくりしたといいます。
このときの東條の反応を見た木戸は
「これはね、若干見込みあるなと思ったんだよ、東条はね。説得する、まだ道が、、、要するに、(東條の思考は)きわめて明快に、論理的にできているんだから、話の持っていきようじゃ、まだ打開する道もあるんじゃないかと思った」(速記録、括弧書きは筆者による)
と、直ぐに近衛首相に電話をしました。
ところが、近衛は既に閣僚の辞表をとりまとめていて、東條だけいなくて困っているというのです。これで木戸が一時思い描いた内閣統一の構想は崩れ去りました。
近衛首相が後継者として天皇に奏請(そうせい)(天皇に申し上げて、その決定を求めること)したのは、皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)王でした。
東條も木戸に、東久邇宮を推薦しました。
大方、東久邇宮で決定となるかと思われましたが、皇族が総理大臣になることに強く反対したのが木戸だったのです。
次の内閣は、極めて困難な日米交渉を妥結に導くか、それができない場合は開戦を指揮しなくてはいけません。木戸は開戦の決定に皇族が関与することを不可としました。
「臣下の中でようやれないという場合に、陛下が自分の親戚になるような東久邇宮さんを出して、そして戦争に行った場合に、そして負けたら、国民の怨府(えんぷ)(人々の恨みの集まるところ)ですからね、皇室は。これは絶対に避けなきゃならんと僕は思ったんだ。」(速記録)
このときの木戸の判断は、皇室を守る役割を担った内大臣として適切なものだったと評価できます。
もしこの時点で皇族の総理大臣が実現していたら、東京裁判で絞首刑(こうしゅけい)となったのは東條ではなく、東久邇宮だったはずです。
そうなれば、GHQは皇室を解体し、天皇は今存在していなかったことでしょう。
結局、東久邇宮内閣は不成立になりましたが、日本が連合国に降伏する四年後の昭和二十年、東久邇宮が内閣を担当することになります。
終戦処理内閣に東久邇宮を推薦したのは、木戸幸一その人でした。
終戦に反対する軍部の暴走を抑えることができるのは、軍人かつ皇族である東久邇宮以外にいませんでした。
占領軍の進駐にあたり、銃弾の一発も暴発しなかったことは、江戸城無血開城を思い起こさせる世界史の奇跡です。「昭和の無血開城」ということができるでしょう。
東久邇宮首相は、見事にこれをやり遂げました。
終戦時に皇族を推した木戸の判断も適切なものであり、昭和十六年時の一件と併せて、思想の一貫性が見られます。(つづく)
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