最後の内大臣(ないだいじん)として知られる木戸幸一(きど・こういち)は、明治維新の立役者である、木戸孝允(たかよし)(桂小五郎・かつらこごろう)の直系の孫に当たり、太平洋戦争開戦前年の昭和十五年(一九四〇)六月から、戦争が終結した昭和二十年(一九四五)十一月に内大臣府が廃止されるまで、内大臣という重要な役職にありました。
木戸幸一の評価は大きく分かれます。
対米英蘭戦の開戦を指揮した東條英機(とうじょう・ひでき)を首相に指名したのは木戸だったこと、また開戦前から終戦まで、戦争全般を通じて、昭和天皇にもっとも近い位置にある内大臣を務め、天皇に拝謁(はいえつ)する人物を意図的にコントロールしていたことなどが指摘され、「日本を奈落(ならく)に突き落とした男」といったレッテルが貼られる向きがあります。
その一方で、木戸は常に皇室の立場に立ってものを考え、終戦後も皇室を存続させるために全身全霊を込めて戦った人物として評価する向きもあります。
しかし、一人の人間を評価するとき、絶対的な「悪」や「善」と決め付けられるものではないはずです。
また、人物を評価するためには一定の時間が必要です。幕末維新の英雄に対する評価がここ十年で大きく変貌していることからも分かるとおり、終戦六十年程度ではまだ木戸の人物を正確に評価するには時期が早いのかも知れません。
『木戸幸一政治談話録音速記録』と書かれた上下二巻の史料があります。
これは国立国会図書館政治史料調査事務局が昭和四十二年(一九六七)二月から五月にかけて、六回にわたって行った木戸へのインタビューを録音したテープを忠実に文字に書き起こしたものです。
録音から三十年経過した平成九年(一九九七)に初めて公開され、現在は国立国会図書館の憲政資料室でのみ閲覧できます。
これまで木戸に関する史料は多く公刊されてきました。
『木戸幸一日記(上巻・下巻・東京裁判期)』『木戸幸一関係文書』『木戸幸一尋問調書』などから、木戸周辺の出来事や、木戸の考えと行動を読み取ることができますが、これらの史料を引用しながら進められた昭和四十二年の政治談話は、これまでに公開された史料同士の余白を埋め、当時の空気を生々しく伝える内容であり、木戸の人物を評価するにあたり、避けて通ることのできない史料ではないでしょうか。
限られた紙面で木戸の生涯を総括することは困難です、平成の御世(みよ)に新たに公開された「速記録」も含めながら、特にわが国が開戦に至る流れのなかで、木戸は何を考え、どのように行動してきたか検証し、木戸幸一の再評価を試みようと思います。
内大臣は天皇を常に輔弼(ほひつ)(天皇の政治を助けること)する地位であり、政変時には元老・重臣らとともに内閣総理大臣の人選に関与する慣習がありました。
大日本帝国憲法下においては、国務に関する事項は内閣総理大臣が、また統帥(とうすい)に関する事項は陸軍の参謀総長(さんぼうそうちょう)と海軍の軍令部総長(ぐんれいぶそうちょう)が輔弼することになっていたため、本来は内大臣特有の輔弼事項はなく、形式的なものでした。
ところが、満州事変以降、軍部の力が強くなると、徐々に政治に深く関与する要職に変化することになります。
政府の情報は首相が、また軍令の情報は参謀総長と軍令部総長が持ち、三つが完全な縦割りであったため、それらの情報が集まるのは天皇だけでした。
そのため、戦争となれば天皇の拝謁を取り仕切る内大臣の職務は必然的に重たいものとなるのです。
また、新しい内閣総理大臣を推挙(すいきょ)するのは元老(げんろう)の役目でしたが、昭和十五年(一九四〇)に「最後の元老」といわれた西園寺公望(さいおんじ・きんもち)が死去すると、首相経験者と枢密院議長により構成される重臣会議が新しい総理大臣を決定することになりました。
ところが、首相経験者には何の情報もないため、現職首相と統帥部の説明を鵜呑(うの)みにするしかなく、その発言力は大きなものにはなり得ません。
そこで重臣会議を取り仕切る内大臣の意向が首相人事を左右するようになったのです。重臣会議の意見をまとめ、天皇に奏請するほか、候補者が就任を承諾しないときに説得に当たるのが内大臣木戸幸一の役割でした。
昭和天皇は木戸を深く信任され、そのお気持ちは終戦後も変わることがなかったと伝えられます。
木戸は天皇の信任に答え、積極的に意見を述べたことが史料から読み取れます。木戸の発言は天皇の判断に直接的に強い影響を及ぼしていたことは間違いがありません。
明治二十二年(一八八九)に生まれた木戸は、学習院から京都大学へ進み、農商務省に入省、そして昭和五年(一九三〇)に内大臣牧野伸顕(まきの・のぶあき)の秘書官長に任ぜられました。
木戸の卓越した情報能力は、長年の秘書官長時代に培われたといわれています。
その後、学生時代からの友人である近衛文麿(このえ・ふみまろ)が総理を務める内閣で文部大臣・厚生大臣を歴任し、平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)内閣の内務大臣を務め、昭和十五年に内大臣に就任しました。
木戸を評価するうえで最も重要な時期は、やはり近衛文麿内閣総辞職から東条内閣発足を経て、対米英蘭戦の開始に至る時期ではないでしょうか。
昭和十六年(一九四一)七月下旬、日本軍は南部仏印に進駐したことで、もはや後戻りできないところに足を踏み入れてしまったのです。対米英蘭戦の開戦はこの時点ですでに回避が極めて難しい状況にありました。
八月一日に対日経済封鎖が実施されると、統帥部は開戦を覚悟し、大本営(だいほんえい)政府連絡会議は九月三日、陸海軍が戦争準備に入ること、そして十月上旬までに日米交渉妥結の目途が立たない場合は開戦することなどを記した「帝国国策遂行要領」を採択しました。
木戸がこの決定のことを近衛から聞かされたのは九月五日のことです。
木戸は「これは大変なことだ、開戦の決定ではないか」と驚き、「いままでなんの話もなく、この重大な案を、突然陛下に申しあげても、陛下はお考えになる時間もなくお困りになるのではないか」と意見を述べ、その場で近衛首相を詰問しました。
木戸は、この案では結局戦争になるほかなく、せめて期限を外すように求めたが、近衛は、連絡会議で既に決定済みであり、変更はできず、日米交渉に努力するしかないと答えました。
九月六日、御前会議を前に木戸は天皇に拝謁し、次のような意見を天皇に申し上げています。
「陛下としては最後に今回の決定は国運を賭(と)しての戦争ともなるべき重大なる決定なれば、統帥部に於(おい)ても外交工作の成功を齎(もたら)すべく全幅(ぜんぷく)の協力をなすべしとの意味の御警告を被遊(あそばさる)ことが最も可然(しかるべき)かと奉答(ほうとう)す。」(木戸日記)
御前会議(ごぜんかいぎ)で原枢密院議長が、戦争準備と外交のどちらが軸であるべきかを厳しく追及しました。
これは木戸と原が事前に打ち合わせた通りでした。
統帥部の両部長は、すでに外交は絶望的と考え、明確な答えができないでいると、天皇はポケットからメモを御取りだしになって、世界の平和を願う明治天皇の御製(ぎょせい)
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」
(世界の海は一つであるはず、なぜ波風が立つのだろうか)
を、お読みになりました。
これは外交を優先すべしという、天皇の明確な意思でした。天皇は木戸が進言したとおり、外交交渉を優先させるべき意思表示をなさったのです。
大日本帝国憲法下の確立された慣行によれば、政府と統帥部が決定した国策について、天皇はこれを却下する権能を有しません。
この日、両総長は開戦よりも外交を優先させるべき旨を示し、「帝国国策遂行要領」が決定しました。
天皇が御製を朗誦なさったことは、結果としてわが国の憲政史上、天皇が政府と統帥部の決定した国策を一旦白紙に戻させた初めての例となります。(つづく)