第105代後奈良天皇(ごなら・てんのう)は第104代後柏原天皇(ごかしわばら・てんのう)の第二皇子として誕生し、大永(だいえい)6年(1526)に父帝の崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)に伴って践祚(せんそ)(天皇の位に就くこと)し、天文(てんぶん)5年(1536)に即位礼(そくいれい)を挙げました。
これだけ読んで「あれ?」と思った人は鋭い人に違いありません。践祚から即位礼まで十年も経過しているのは、本来ならありえないことなのです。
十年も大切な儀式が行われなかったのは経済的理由です。この時期朝廷は財政が逼迫(ひっぱく)していました。先帝の崩御にあたり、朝廷は幕府に一連の儀式に必要な経費を要求したものの、一部しか支払いがありませんでした。時は戦国時代の真っ只中、幕府には既に支払い能力がなかったのです。
途方に暮れた朝廷は、仕方なく献金を募って、何とか践祚と先帝の大葬(たいそう)(天皇の葬儀)を済ませました。それでも、践祚の儀は崩御から20日余り経過してから行われました。皇位継承において絶対に避けなければならない「空位(くうい)」、つまり天皇が不在の時期が生じてしまったのです。
このように何とか践祚と大葬は済ませたものの、即位礼については全く資金の目途が立ちませんでした。朝廷は辛抱強く諸大名の献金を集め続け、十年後になってようやく即位礼を行うことができたのです。
しかし、父の後柏原天皇は応仁の乱の影響で、即位礼を行ったのは践祚から22年後のことでした。
幕府に経済力がない以上、これらの儀式を中止してしまえば簡単なことなのですが、朝廷は皇位継承に係わる儀式には執拗(しつよう)なまでのこだわりがありました。皇位継承の原理は皇室の原理そのものであり、これを蔑(ないがし)ろにすることは皇室の存在を否定することになるからです。
この時期、朝廷の財政の逼迫ぶりは目を覆うようなものがあったといいます。市中で天皇の親筆(しんぴつ)(天皇の直筆)が売買され、御所の築地塀(ついじべい)(御所の周囲を巡る壁)は崩れ、三条大橋から内侍所(ないしどころ)(御所の中にある神殿)の燈火を見ることができたと伝えられています。
ところが、朝廷にとってこれほどに困難な時期にありながらも、天皇の万民の幸せを祈るお姿は寸分も変わることはありませんでした。治世中に洪水・飢饉・疫病などが起こると、後奈良天皇は、神宮に宣命(せんみょう)(祈りの言葉を書いた書面)を奉り、また熱心に「般若心経」を写経して24カ国の一宮(いちのみや)に奉納しました。その内7カ国分の写経が現存しています。
天文3年(1534)の疫病流行で奉納された写経の奥書には「近頃、疾疫が民庶に流行し、憂患(ゆうかん)す。朕(ちん)が不徳をも顧みず、寝ても覚めても心配である」などと自らの不徳を詫びる文字が刻まれていて、後奈良天皇は、皇室が衰える中でも天皇としての自覚をしかりと持ち続けていたことを察することができましょう。内容・質共に「天子の書」というに相応しいものです。
後奈良天皇は学問にも熱心で、古典への造詣は特に深かったと伝えられています。また文筆に長(た)け、直筆の日記や夥しい御製(ぎょせい)(天皇が詠む和歌)が今に残ります。