歴代天皇の記録を眺めていると優秀な天皇の記事を多く目にしますが、中でも第95代花園天皇(はなぞの・てんのう)は群を抜きます。学問に励み「天皇としての姿勢」を追及した花園天皇の学識は「歴代随一」といわれています。
花園天皇は、鎌倉時代末期に伏見天皇の皇子として生を受け、徳治(とくじ)3年(1308)に満11歳で即位しました。この頃は持明院統(じみょういんとう)(後深草(ごふかくさ)天皇の系統)と大覚寺統(だいかくじとう)(亀山(かめやま)天皇の系統)が対立を深め、二つの系統が幕府に働きかけながら交互に天皇を立てるという、これまでにない複雑な皇位継承が行われていました。
皇太子には、天皇より9歳年長である大覚寺統の尊治親王(たかはる・しんのう)(後の後醍醐(ごだいご)天皇)が立てられました。花園天皇は間もなく鎌倉幕府の滅亡、南北朝の動乱へと繋がる難しい時代に天皇の位に就いたのです。
花園天皇の在位中は、前半は父伏見上皇(ふしみ・じょうこう)、後半は兄後伏見(ごふしみ)上皇の院政が、また退位した後は後宇多(ごうだ)上皇の院政が敷かれ、そのため花園天皇自ら政治を動かすことはありませんでした。
しかし、花園天皇は即位してから諸問題に悩ませ続けられました。その様子は13歳頃から書き続けていた直筆の日記に記されています。
正和(しょうわ)3年(1314)、寺社の焼失が相次ぐ中「住吉社の宝殿の鉄鎖が切れた」との不吉な報せが宮中に伝えられました。以前蒙古(もうこ)襲来の時に同じことがあったとされ、自らの在位中に異国が来襲することがあったら大変だ、と宸襟(しんきん)を悩ませられた(天皇が深く悩むこと)といいます。3月19日付の日記には
「朕(ちん)、不徳を以てみだりに天子の位をふむ。よって、かくの如き災いあるか。ひとへに神仏の冥助(めいじょ)を仰ぐばかりなり」
(現代語訳)
「私は、徳がないにもかかわらず、やみくもに天皇の位に就いてしまった。だからこのような災難がおきるのだろうか。ただ、神と仏に助けてもらえるように願うばかりだ。」
とあります。当時16歳の天皇に政治的実権があろうはずもありません。にもかかわらず真面目な天皇は、災いの原因は全て自分の「不徳」であると考え、ひたすら天に自らの不徳を詫(わ)びるのでした。
「徳を積まなければいけない」と思いつめた天皇は、元々学問好きでしたが、それにも益して学問に励むようになり、古典などを読み漁ったと伝えられています。
約9年半在位した後に、満20歳で後醍醐天皇に譲位した花園上皇は、今度は教育に没頭します。後伏見上皇から持明院統の次の皇位継承者である量仁親王(かずひと・しんのう)(後の光厳天皇)の教育を依頼されたのです。
23年間書き続けられた厖大(ぼうだい)な直筆の日記『花園天皇宸記(はのぞの・てんのう・しんき』(全47巻)には、宮中関係の記述だけでなく、学問と仏教を探求し、人物や社会情勢などを的確に観察する記述が随所に見られます。
また複雑な政治状況の中で常に公正な態度を貫き、自らを厳しく律する天皇の生きた姿が刻まれていて、将に「帝王の日記」というに相応しいものです。
花園天皇が51歳で崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)して650年以上の月日が経ちますが、花園天皇の探求した「天皇としての姿勢」はその後の歴代天皇に引き継がれ今に至ります。現在の皇族方が学問に励まれるのも、その原点は花園天皇かも知れません。