皇室はこれまで幾度か皇統断絶の危機を乗り越えてきました。天皇家に皇位継承者がいなくなると、傍系(ぼうけい)の親王家(しんのうけ)から天皇を擁立して皇位を繋いできたのです。6世紀に応神(おうじん)天皇の五世孫として即位した継体(けいたい)天皇、鎌倉時代に伏見宮(ふしみのみや)から即位した花園(はなぞの)天皇、江戸時代に閑院宮(かんいんのみや)から即位した光格(こうっかく)天皇などがその例です。
しかしそれとは別に、天武(てんむ)元年(673)に皇統が天智系(てんじけい)(天智天皇の系譜)から天武系(てんむけい)(天武天皇の系譜)に移った後、天武系が断絶した結果、皇統がおよそ100年ぶりに再び天智系に戻るという一大事がありました。これも皇統断絶の危機でした。
この時、皇位を無事に天武系から天智系に移行することができたのは、白壁王(しらかべおう)の存在があったからです。白壁王は天智天皇の孫でありながら、天武系の聖武天皇の娘である井上(いがみ)内親王を妻とし、他戸(おさべ)皇子を儲けていたのです。白壁王と井上内親王の繋がりのおかげで、白壁王の即位は、天智系が天武系から皇位を簒奪(さんだつ)したのではなく、先祖を同じくする二つの系統の家が一つに融合したことになるのです。
聖武天皇が崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)となると孝謙(こうけん)天皇(女帝)が誕生し、皇太子道祖王(ふなどおう)が廃太子(はいたいし)(皇太子を廃されること)となる事件を経て、次に即位した淳仁(じゅんにん)天皇はやがて廃帝(はいたい)(天皇を廃されること)とされて淡路島に流され、続けて孝謙上皇が重祚(ちょうそ)(一度退位して再び天皇に即位すること)して称徳(しょうとく)天皇となり、さらには天武系に継承者が不在となりました。このように聖武天皇以降は皇位継承の筋道が極めて不安定だったのです。
そのような暗黒の時代に、白壁王はあらぬ嫌疑をかけられるのを避けるため、酒をほしいままにしては行方をくらまし、それによって度々害を逃れたと『続日本紀(しょくにほんぎ)』は伝えています。
称徳天皇が崩御となると白壁王は藤原氏(藤原永手(ふじわらのながて))の後押しを得て皇太子となり、令旨(りょうじ)(皇族の命令)を下して道鏡(どうきょう)を追放すると、62歳という高齢にして天皇に即位しました。第49代光仁(こうにん)天皇です。
光仁天皇は、まず称徳天皇の仏教偏重の政治を改め、称徳・道教による異常な政治体制から脱却することに力を注ぎました。そして不要な令外官(りょうげのかん)を整理して財政を緊縮し、律令政治の再編を図り、次の桓武(かんむ)王朝の基盤を固めたのです。民衆のための細かい心配りをした天皇としても知れられています。
しかし、光仁天皇の御世(みよ)になっても皇位継承の不安定さは変わりませんでした。天皇を呪詛(じょそ)(呪うこと)したという嫌疑をかけられ、井上皇后が廃后(はいごう)(皇后を廃されること)とされるという、全く前例のない事件が起こりました。続けてその息子である皇太子も廃され、四年後には二人とも配所(はいしょ)で不可解な死を遂げます。
呪詛の真偽は定かではありませんが、藤原氏同士の勢力争いがあったことは間違いがありません。
新たに皇太子となった山部(やまべ)親王は、天応(てんおう)元年(781)に光仁天皇の譲位によって桓武天皇となります。光仁上皇は退位後間もなく、病によって73歳の人生を閉じました。