鎌倉時代の文永(ぶんえい)11年(1274)、日本が初めて外国の軍隊に攻め込まれました。日本侵略を目論(もくろ)む元(げん)が、およそ2万3千の軍勢を差し向けてきたのです。これが「元寇(げんこう)」、すなわち「蒙古襲来(もうこ・しゅうらい)」です。
元軍は対馬(つしま)・壱岐(いき)を攻略した後、博多湾から上陸し、約5千の日本軍(鎌倉幕府軍)とぶつかりました。少弐(しょうに)氏・大友(おおとも)氏をはじめ九州の武士たちで構成される日本軍は、規模こそ小さいものの果敢に戦い、また雨風が吹き荒れたこともあって戦に勝利します。日本側の損耗は不明ですが、元側は約1万3千人が戦死したといわれます。
しかし、元は弘安(こうあん)4年(1281)に再び日本を襲います。日本に送り込まれた軍勢はおよそ14万、それを12万の日本軍が迎え撃ちました。この時も暴風雨によって元軍は壊滅的な打撃を受け、約13万人が戦死したと伝えられています。二回とも「神風(かみかぜ)」が元軍を吹き払ったのです。
後に「文永・弘安の役」といわれるこの戦は、日本建国以来の危機でした。歴史に「もし」はありませんが、もしこの戦に日本軍が破れていたら、いま日本国は存在していません。中国の一部として7世紀の歴史を歩んできたことでしょう。
この難しい時期に天皇の御位(みくらい)にあったのは、幼少の第91代後宇多天皇(うだ・てんのう)で、父帝の亀山上皇(かめやま・じょうこう)が院生を敷いていました。亀山院は国難にあたり、伊勢の神宮や山陵(さんりょう)八所に勅使(ちょくし)を派遣し、命にかけて祈りを奉げました。祈る姿こそ天皇の本当の姿です。二回の戦で「神風」が吹いたのは、上皇の渾身(こんしん)の祈願が天に通じた結果だったに違いありません。時に亀山院25歳でした。
学業に長(た)け、英邁(えいまい)で優秀だったと伝えられる亀山院は、皇太子時代から詩歌・管弦(かんげん)など文化芸術にも才能を発揮し、そのうえ美少年で、美声の持ち主だったといいます。亀山院は制符(せいふ)を制定し、評定制(ひょうじょうせい)の改革に取り組むなど、一定の政治的成果を上げました。
しかし、亀山天皇の時代は朝廷にとって非常に難しい時期でもありました。後嵯峨(ごさが)天皇の第三皇子として誕生した恒仁(つねひと)親王(後の亀山天皇)は9歳にして、兄後深草(ごふかくさ)天皇の皇太子となりますが、それは皮肉にも南北朝問題の発端となります。
後嵯峨上皇は兄宮より弟宮の恒仁親王に期待していました。後嵯峨院の命によって後深草天皇は16歳にして弟の恒仁親王に譲位します。その後、幕府は後嵯峨院の意向を尊重して亀山天皇を治天の君としました。
これに不満を抱いたのは兄の後深草院でした。間もなく持妙院統(じみょういんとう)(後深草院の系統)と大覚寺統(だいかくじとう)(亀山院の系統)が対立を深め、南北朝時代へと入っていくことになります。
10歳で即位した亀山天皇は、25歳で上皇となり、40歳で出家するまでの30年間、天皇・上皇として治世に当たりました。南北朝はさておき、国家危急存亡の秋に、英邁で徳のある天皇を頂いたことは我が国の幸福だったのではないでしょうか。