天皇陛下と皇族方が慈善事業に貢献なさるお姿は、今では馴染みのある光景ですが、その原形は、第45代聖武天皇(しょうむ・てんのう)のお后・光明皇后(こうみょう・こうごう)(藤原安宿媛、ふじわらの・あすかべひめ)ではないでしょうか。
光り輝くほどの美しさがゆえに「光明子(こうみょうし)」とも呼ばれていましたが、その美しさからは想像が付かないエピソードがあります。
いまからおよそ一三〇〇年前の奈良時代のことです。光明皇后は、貧民・病人のために治療用の浴室をお作りになり、自ら千人の垢(あか)を洗いました。ところが、千人目は膿にまみれた重い皮膚病の患者で、浴室は異様な臭気に包まれました。皇后は怯(ひる)まずにその患者の体を洗い、自ら口を付けて膿を吸い取られたのです。すると、その患者はたちまち阿?仏(あしゅぶつ)に姿を変え、まばゆいばかりの光を発して忽然(こつぜん)と姿を消したというのです。皇后はその場所に伽藍(がらん)を建てて阿?寺(あしゅでら)となさいました。
それから五〇〇年ほど時間を下った鎌倉時代、僧侶の忍性(にんしょう)は光明皇后の故事に思いを馳(は)せて、その伝説の地に、我が国初となるハンセン病患者を治療するための施設・北山十八間戸を建てました。また、昭和期には大正天皇后・貞明皇后がハンセン病の予防と患者の救済に尽力されました。
千人の垢を洗い落とした逸話は一種の伝説ですが、たとえ実話でなかったとしても、光明皇后の信仰と慈愛の深さ表すものであり、この伝説が後世の皇室に大きな影響を与えたことに違いはありません。法華寺には逸話の浴室が復元されています。
光明皇后は天平(てんぴょう)元年(729)に立后(りっこう)(皇后になること)なさると、翌年には皇后宮職に施薬院(せやくいん)と悲田院(ひでんいん)を設けて、病人や孤児の救済に当たりました。施薬院は全国から薬草を買い付け、また栽培して病人に与える施設、悲田院は困窮孤児を住まわせて飢えを救う施設です。悲田院の孤児たちは施薬院で働いたと伝えられています。
光明皇后の慈しみの心は、仏教への篤(あつ)い帰依(きえ)と関係があるのではないでしょうか。天平4年(732)から始まった全国的な飢饉、大地震、そして疫病のまん延に心を痛められた皇后は、一切経5048巻の写経の大事業を始め、6年がかりで天平14年(742)頃に完成させました。
また、夫である聖武天皇が熱意を注がれた国分寺と東大寺大仏の造営事業は、いずれも初めは光明皇后の勧めによるものだったと伝えられています。光明皇后は「天平文化の母」といえましょう。
これまで、皇室出身の内親王でなければ皇后になることはできませんでしたが、光明皇后は皇室以外の出身で皇后になる先例となりました。中臣鎌足(なかとみの・かまたり)の孫で、藤原不比等(ふじわらの・ふひと)の娘に当たる光明皇后が立后されたことで、藤原家は天皇の外戚(がいせき)となり、皇后と関白を出す家としての地位を確立していくことになります。明治天皇・大正天皇の后、江戸期の関白は藤原北家の流れを汲む五摂家の出身でした。光明皇后の立后は千年以上に及ぶ藤原時代の幕開けとなったのです。