vol.132 鬼になった菅原道真B−黒焦げになった醍醐天皇
延長(えんちょう)8年(930)6月26日、内裏(だいり)(皇居のこと)清涼殿(せいりょうでん)の南西の柱に雷が落ち、道真の左遷に関わった公卿(くぎょう)を含む五人が即死して黒焦げの死体になるという大惨事が起きました。
ある者は服が焼けて胸が裂けて死亡し、またある者は顔が焼けただれて死亡し、そして髪が焼けて死亡した者もあったと伝えられます。
落雷により火災が発生しましたが、それは幸い消し止められました。
内裏は清浄(せいじょう)を第一とし、穢(けが)れは忌(い)み嫌われます。縁起のわるい物事は、決して内裏に近づけてはいけません。
内裏では人々の動作や言葉も厳しく制限され、穢れのある言葉は縁起の良い言葉に置き換えられるほどなのです。
血液も嫌われることで、内裏ではたとえ少量の流血があっても、徹底した祓(はら)えが行われます。
その清浄を第一とする内裏に鬼と観念される雷が落ち、しかも多数の死者を出したことは、絶対にあってはならないことであり、当時の宮廷人たちは、ひたすら恐怖しました。
この惨状を目の当たりにした醍醐天皇(だいご・てんのう)は、その衝撃で体調を崩してしまい、同年9月22日に寛明(ゆたあきら)親王に譲位し、29日に崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)となりました。四十六歳でした。
醍醐天皇は崩御の後、道真の怨念によって地獄に堕(お)とされたと伝える逸話があります。
醍醐天皇の時代に東寺(とうじ)にいた日蔵(にちぞう)という僧侶が、吉野の金峯山(きんぷせん)で二十一日間の断食の修行中に仮死状態となり、不思議な経験をしたといいます。
日蔵は鉄窟地獄(てつくつじごく)(地獄の一種)で黒焦げになった四人の男を見ました。地獄の獄卒(ごくそつ)(地獄で、亡者を責めさいなむ鬼)が「あれはお前の国の国王とその従臣だ」と告げると、その国王とされた醍醐天皇と見られる黒焦げの人物が、日蔵に次のように声をかけたといいます。
ある書物によれば「菅原道真を無実の罪で流したため、その怨心(えんしん)(怨む心)のためにこの苦しみを受けている。朱雀天皇(すざく・てんのう)(当時の天皇)に報告して、救ってくれるよう伝えてほしい」。
また別の書物によれば「私は日本の天皇だ。この鉄窟(てつくつ)の苦しみを受けているのは、かの菅原道真が怨み心をもって仏寺を焼き、生きる者たちを害したことによる罪の報いを、私がみな受けているからなのだ」と記されています。
そして間もなく、ほぼ同時期に関東で平将門(たいらの・まさかど)の乱が、また瀬戸内海で藤原純友(すみとも)の乱が起き、これも道真の怨霊の仕業と恐れられました。二つの乱を合わせて承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱といいます。
平将門も怨霊として後年恐れられることになるため、怨霊が怨霊を生んだと考えられます。
清涼殿への落雷があった頃から、菅原道真は怨霊から「天神」へと変化していきます。道真が没してから二年後の延喜(えんぎ)5年(909)には、太宰府の道真の廟所(びょうしょ)に既に位牌を祀る堂が建てられ、「天満大自在天神」として祀られていましたが、天慶(てんけい)5年(942)になると、京都七条に住む巫女(みこ)の奇子(あやこ)に「北野に社殿を構えて祭祀すべきこと」という天神道真の託宣(しんたく)が下り、その五年後に社殿が建てられました。これが現在の京都市上京区(かみぎょうく)にある北野天満宮の起源です。
そして近世以降は学問の神としての天神信仰が拡大することになります。
時代が下って京都には上御霊(かみごりょう)神社と下御霊(しもごりょう)神社が創建され、菅原道真をはじめ恐ろしい怨霊になった人々を祀りました。
上御霊神社は皇后井上(いがみ)内親王とその息子の他戸(おさべ)親王、そして早良(さわら)親王の怨霊を鎮めるために建てられた。いずれも濡れ衣を着せられて無念の死に至った皇族です。桓武天皇はこの三方の怨霊を恐れ、鎮魂を繰り返してきました。そして、ここに菅原道真などの御霊を合祀(ごうし)しました。
下御霊神社には、早良親王をはじめ、やはり怨霊となった皇族や貴族たちを祀っています。
両社は現在も怨霊を鎮めるために存在しています。
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