vol.130 鬼になった菅原道真@−異例の出世と左遷
日本の歴史のなかで最も有名な怨霊は菅原道真を置いて他にないでしょう。
怨霊となった菅原道真は、後に学問の神様といわれる「天神様」として祭られ、絶大な信仰を集めることになります。
「怨霊」と「学問の神様」では全く印象が違いますが、怖い怨霊だからこそ、その怨霊が見方をしてくれたら、絶大なる力を発揮して、守ってくれるという考え方です。
菅原道真は優秀な政治家でしたらから、合格祈願など、学問に関することのご利益があると考えられるようになました。
今ではすっかり怨霊の印象はなくなり、学問の神様として定着しています。
菅原道真が亡くなって千年以上時が下った現在でも天神仰の勢いは衰えません。
菅原道真は文人貴族の生まれでしたから、当時の身分制度では、政治の実権を握るところまで出世することはできない身分で下。
ところが、卓越した能力に目をつけ道真を重く用いたのは第59代宇多天皇(うだ・てんのう)でした。
宇多天皇には、これまで摂関政治により政治を自由に動かしてきた藤原氏への強い不満がありました。
そこで宇多天皇は、藤原一族に適齢者がいないことを理由に、文人貴族を積極的に用いて藤原一族を政治から遠ざけ、関白を置かずに自ら政治に当りました。
宇多天皇の政治は一定の成果を上げ、後世に「寛平の治(かんぴょうのち)」として称えられることになります。
そしてこの時に天皇を一番近くで支えたのが菅原道真だったのです。
道真は異例の昇進を遂げ、昌泰(しょうたい)2年(899)には右大臣にまで昇り詰めます。
学者が大臣にまで出世したのは吉備真備(きびの・まきび)以来、実に百三十三年振り、日本史上二回目のことでした。
道真が後に学問の神様となったことは、想像できたでしょうか。
しかし、このような道真の昇進を快く思わなかった人たちがいます。それは、藤原一族です。
宇多天皇は寛平9年(897)、第一皇子の敦仁(あつぎみ)親王に譲位して第60代醍醐天皇(だいご・てんのう)が天皇となり、自らは後に仁和寺(にんなじ)で出家して初の法皇(ほうおう)となりました。
醍醐天皇も親政を行い、後に「延喜の治(えんぎのち)と呼ばれるようになる。醍醐天皇を支えたのは左大臣藤原時平(ふじわらの・ときひら)と右大臣菅原道真です。
しかし、延喜元年(901)、藤原時平を核とする藤原氏と、同じく道真の出世を疎んじる人たちが結託して、道真の追い落としを画策しました。
菅原道真が宇多天皇の皇子斉世(ときよ)親王に娘を嫁がせていることに注目し、道真が醍醐天皇を廃して斉世親王を立てる謀反を計画していると醍醐天皇に嘘を言いつけ、道真の失脚を狙ったのです。
これを真に受けた醍醐天皇は、菅原道真を太宰権帥(だざい・ごんのそち)に命じる勅を出しました。
これは事実上の島流しの刑です。菅原道真は宇多上皇に自身の潔白を訴え、宇多上皇は左遷を阻止するため天皇のところに出向きますが、門を開ざされてしまい、阻止することはできませんでした。
延喜元年(901)に太宰府へ左遷された菅原道真は、京都に帰りたいという強い思いを抱いたまま、二年半後に失意のうちに憤死しました。
道真の遺体は牛車に乗せられて墓所へ運ばれる途中、その牛車が動かなくなってしまったので、そこに葬られ、その場所に安楽寺を建立したと記録されています。
安楽寺こそ、戦後には大宰府天満宮(現在の福岡県大宰府市)と改名される、天神様の総本山となります。
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