vol.129 井上(いがみ)内親王A聖女の死と祟り
井上(いがみ)内親王は、天皇を呪い殺そうとしたという罪を着せられて、皇后を廃されてしまいました。
しかし、井上内親王は皇后の立場にあり、しかも自らが産んだ他戸親王(おさべ・しんのう)は皇太子の地位にあったのです。
夫の光仁天皇(こうにん・てんのう)は既に六十四歳なので、当時の平均寿命を考慮しても、あと何十年も皇位にあるとは思えません。
あと少し待てば他戸親王が皇位に就くことは明確ですから、わざわざ井上内親王が夫を呪い殺す必要があるとは到底思えないのです。
では井上内親王が廃后とされることによって利益を得るのは誰だったのでしょう。
光仁天皇の第一子の山部親王(やまべ・しんのう)は、母の身分は高くありませんが、既に藤原南家の藤原吉子(よしこ)が嫁いでいて、二人の間には伊予親王(いよ・しんのう)が産まれていました。
藤原氏にとっては、他戸親王よりも山部親王が即位した方が、遥かに好都合だったでしょう。しかし、事実は謎に包まれたままです。
そして、二人が幽閉されてから二年後の宝亀6年(775)4月27日、二人は同じ日に亡くなりました。
同じ日に亡くなるということは尋常な死に方ではありません。他殺か自殺であると考える方が自然でしょう。
鎌倉時代初期に書かれた『水鏡(みずかがみ)』は、井上廃后は亡くなるとそのまま龍に成ったと記します。
また、その後について、宝亀7年(776)7月には二十日日間ほど毎夜、瓦・石・土鬼(つちくれ)が降るという怪奇現象があり、冬には宇治川の水が絶えようとするまで雨が降らなかったと記します。
そして、12月には光仁天皇と皇太子山部親王と藤原百川(ももかわ)が同時に、甲冑(かっちゅう)を着けた者百人ばかりが百川の命を取ろうとする不吉な夢を見、これを廃后と廃太子の霊と思った光仁天皇は、二人の鎮魂のために諸国の国分寺に命じてお経を読ませたと記します。
また正史『続日本記(しょくにほんぎ)』も、同年9月に毎夜瓦・石・土鬼が降ったことを記す他、5月には災変が度々起きるので邪気を祓(はら)う儀式をしたことや、翌年3月には、宮中でしきりに妖怪がでるので同じように邪気を祓い、その他にも地震・日照り・暴風雨・内裏(だいり)への落雷などを記し、さらに宝亀9年(778)に井上内親王の墳墓を改葬し、「御墓(みはか)」、つまり貴族の墓の待遇としたことを伝えています。
また他戸親王墓は山陵(みささぎ)と称し、天皇陵と同格とされました。
しかし、このような読経や改葬などによっても井上母子の怨霊は収まらなかったようです。
光仁天皇と皇太子山部親王の病気が続き、藤原蔵下麻呂(くらじまろ)・藤原良継(よしつぐ)・藤原百川らが相次いで命を落としました。
これらも井上母子の祟りであると恐れられたのです。
なかでも山部親王の病気は深刻で、重度の精神疾患に陥り、怨霊の勢いを抑えるためのあらゆる努力の甲斐もなく、一年もの間治る兆しが見えず、最後には皇太子自ら伊勢の神宮に行って病気の快復(かいふく)を祈願しました。
皇太子の参宮は神宮の歴史においてこれまで先例がありません。やはり皇太子が遠路遥々参宮した甲斐あってか、健康を取り戻すことがでました。
ところが、続けて光仁天皇の病気が悪化し、皇太子へ譲位して崩御(ほうぎょ)することになります。
皇太子山部親王が即位して桓武天皇(かんむ・てんのう)となり、その同母弟の早良(さわら)親王が皇太子となりました。兄を天皇に、弟を皇太子に据えたのは、父光仁天皇の考えでした。
桓武天皇即位直後には、廃后の御墓の近くに井上母子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う寺が建てられました。
でも井上母子の怨霊はその後も衰えることなく、遷都後の平安京でも暗躍し、怨霊として恐れられることになるのです。
そしてついに延暦19年(800)、井上廃后に皇后の追称(ついしょう)を贈り、御墓を山陵と称して、皇后の墓と同格として扱うことになりました。これによって、井上内親王は二十八年ぶりに名誉が回復されたのです。
その後も、天変地異などが生じると井上母子の祟りと考え、山陵を清掃し読経を行うといったような鎮魂が繰り返されました。
後に、京都には上御霊(かみごりょう)神社と下御霊(しもごりょう)神社が創建され、二人の御霊が祀られました。現在もこの二つの神社は実在しています。
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