vol.127 長屋王A政敵を次々と殺した皇族の怨霊
前回は、長屋王(ながやおう)が無実の罪を着せられて、一家と共に自害したところまででした。今回は、その長屋王が恐ろしい怨霊になった、本当にあった物語です。
長屋王一家が自害すると、長屋王を悪者に仕立て上げた密告は、嘘だったことが明らかになります。
正史(せいし)である『続日本記(しょくにほんぎ)』は、天平(てんぴょう)10年(738)7月10日に、密告者である東人(あずまひと)が殺害されたことを伝えるに当たり、東人のことを「長屋王の事を誣告(ぶこく)せし人なり」と記しています。
「誣告」とは、他人を罪に陥(おとしい)れるために偽って訴えることです。
同書が編纂(へんさん)された平安時代初期、既に長屋王の無実が公然の事実とされていたことが分かります。
長屋王が自害すると、長屋王の祟りと思えるような異変がたくさん起きました。9世紀初頭に編纂された『日本霊異記(にほん・りょういき)』には、長屋王の遺骨を土佐国(とさのくに)に移して葬らせたところ、土佐国ではたくさんの百姓が死に「このままでは長屋王の悪霊によって、国中の百姓が死んでしまいます」という嘆願書が役所に出されたといいます。
ただし、『続日本紀』には、長屋王は生駒山(いこまやま)に葬られたと記されていますから、『日本霊異記』の記述は創作である可能性が高いといわれています。
ところが、長屋王の死から6年後の天平7年(735)から九州の太宰府(だざいふ)で疫病(えきびょう)が大流行し、天平9年(737)には都に達し、長屋王を抹殺した張本人である藤原四兄弟(ふじわらの・よんきょうだい)が次々と命を落としたことで、長屋王は怨霊として恐れられるようになりました。
聖武天皇(しょうむ・てんのう)は神社へ祈り、お寺ではお経を何度も読ませるなどしましたが聞き届けられず、長屋王の怨霊を少しでも鎮めようと、黄文王(きぶみおう)・円方女王(まどかたじょおう)など生き残った長屋王の子女たちの位を特別に上げるという措置が講じられました。
正史には明確に長屋王の怨霊について書かれた形跡はありませんが、この頃から、政治的に失脚して非業(ひごう)の死を遂げた者が怨霊となり祟(たた)りを引き起こすという考え方が民衆にも広がりました。
正史に怨霊の祟りが初めて記されるのは『続日本紀』の天平18年6月18日のところで、玄ム(げんぼう)という僧侶の死が、藤原広嗣(ふじわらの・ひろつぐ)の怨霊によるという噂が広まったと記しています。
また、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)に橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱が起きると、死罪となった者の怨霊の噂が民衆の間に広がったようで、祟りの噂を流す者も同罪とするとの勅(ちょく)が出されました。
このように、長屋王の怨霊を発端にし、8世紀には権力の中枢から追放され憤死(ふんし)した者が死後に怨霊となって祟りを引き起こすといった考え方が民衆の間に完全に成立したのです。
ところで、その後長屋王は歴史から長いこと姿を消していましたが、急に脚光を浴びるようになったのは、長屋王の変から千二百五十九年後の昭和63年(1988)8月末のことです。
その二年前から奈良市二条大路南に位置する「奈良そごうデパート」建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われていましたが、土地の端で調査対象外とされた場所から、堀起こした土に木片が混じっているのを調査員が偶然に発見し、追加調査によってその周辺の土から三万五千点の木簡(もっかん)が発見されました。
そしてその木簡の調査から、約三万平メートルに及ぶ巨大な建設予定地が長屋王邸跡であったことが初めて明らかになりました。
この土地は長屋王の変が起き一族が惨殺された悲劇の舞台だったのです。
出土した木簡からは、長屋王が氷室を持ち、夏にも酒に氷を入れて飲んでいたことや、牛乳を煮詰めて作る「蘇(そ)」というチーズのような珍味を食べていたことなどが分かり、奈良時代の生活を知ることができる貴重な史料を得ました。
この建設予定地は史跡として保存すべきだという運動が起き、地元や研究者たちがデパートの建設に反対しましたが、建設は予定通り進められ奈良そごうが完成しました。
その後「そごう」が倒産すると、地元の人々は長屋王の怨霊によるものだと噂したといいます。現在は「イトーヨーカドー奈良店」として営業しています。
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