vol.126 長屋王@濡れ衣を着せられ自害した皇族
日本の歴史には怨霊(おんりょう)になって生きる者を祟(たた)ったといわれる人はたくさんいます。そのなかで、人間が死後怨霊になったことが明確に伝わる最初の例が、奈良時代初期の皇族、長屋王(ながやおう)です。
長屋王は、天武天皇(てんむ・てんのう)皇子の高市皇子(たけちのみこ)と、天智天皇(てんじ・てんのう)皇女の御名部(みなべ)内親王(元明天皇の同母姉)との間に生まれました。血統としては天皇家の本筋に近い存在でした。
また長屋王は、草壁皇子(くさかべ・おうじ)と元明天皇の間に生まれた吉備(きび)内親王、そして権力者の藤原不比等(ふじわらの・ふひと))娘藤原長娥子(ふじわらの・ながこ)妻とし、多くの子供を儲けました。
長屋王は、右大臣藤原不比等に次ぐ地位にありましたが、養老(ようろう)4年(720)に不比等が没すると不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ))がまだ若かったこともあり、皇族の長屋王が政治の主導権を握りました。
そして、さらに翌年には右大臣に昇進し、その地位は不動のものになりつつあったのです。
また、長屋王は元正天皇(げんしょう・てんのう)からの信任が厚かったといいます。長屋王妃の吉備内親王は元正天皇の妹であり、長屋王は元正天皇の義理の弟に当たりました。
そして神亀(じんき)元年(724)に聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣に進みました。しかし、このような長屋王の出世は悲劇の物語の幕開けとなってしまいます。
藤原四兄弟が長屋王の出世を疎(うと)ましく思ったのは自然な流れでしょう。長屋王と藤原四兄弟は対立を深めることになってしまいます。
二人が決定的に対立したのは、藤原四兄弟が藤原不比等の娘である光明子(こうみょうし)を立后(りっこう)(皇后にたてること)させようとし、長屋王がこれに強く反対した一件でした。
天皇は通常複数の配偶者を持ちますが、その中でも皇后は天皇の代理となることができる特別な地位です。藤原四兄弟にとって、妹の光明子の立后が成功するかどうかは政治的に重要なことだったのです。
本来皇后になれるのは皇族として生まれた内親王か、もしくは天皇家から分かれた臣(おみ)姓以上の家の出身者に限られていました。
しかし、藤原氏は連(むらじ)姓の中臣氏(なかとみし)であり、皇后を出すことができない家格でした。
そして、これに強く反対していたのが皇族にして政権の中枢にいる長屋王だったのです。
ついに神亀6年(729)、長屋王に謀反(むほん)の疑いがかけられます。漆部造君足(ぬりべのみやつこ・きみたり)と中臣宮処連東人(なかとみの・みやこのむらじ・あずまひと)という名もない下級の官僚が、長屋王が密かに左道(さどう)(妖術)を学び国家を転覆しようとしていると密告したのです。
それを受けて藤原宇合ら率いる軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王は弁明する余地も与えられぬまま一家もろとも自殺しました。
この事件は「長屋王の変(へん)」として日本史に刻まれることになります。事件後、藤原四兄弟は長屋王に替わって政治の実権を握り、光明子を連姓の出身者として初の皇后にさせました。
しかし、長屋王を自害に追い込んだ密告は全くのでっちあげだったことが、後になって分かります。
無実の罪を着せられて一家と共に自害した長屋王は、さぞ悔しい思いをしたことでしょう。長屋王が亡くなると、次々と異変が起き始め、人々は長屋王が怨霊となって祟りを起こしていると信じようになりました。
怖い怖い怨霊の話は次回にしましょう。おたのしみに。
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