今からおよそ一三〇〇年前の奈良時代、万葉集に「咲く花の 薫(にほ)ふがごとく」と詠われた平城京は、天平文化(てんぴょう・ぶんか)の華を咲かせた都でした。
天平文化は、遣唐使によってもたらされた唐の文化と、西アジア・アラブなどの文化の影響を受けた国際色豊かな仏教文化で、日本美術史上、異彩を放っています。奈良は「シルクロードの終着点」ともいわれています。個性豊かな建築・仏像・絵画・美術工芸品がたくさん作られました。東大寺法華堂・正倉院・法隆寺夢殿などが建てられたほか、『万葉集』や『古事記』『日本書紀』が完成したのもこの時代です。
「天平ロマン」とも称された、一見華やかに思える天平時代ですが、その反面、天変地異・疫病・凶作などが続き、陰湿な権力闘争や反乱が繰り返された時代でもありました。この時期に仏教に深く帰依し、仏教の大事業を進めて「鎮護国家(ちんご・こっか)」を実現させたのが、第45代聖武天皇(しょうむ・てんのう)です。
文武天皇(もんむ・てんのう)と藤原宮子(ふじわらの・みやこ)の間に生まれた聖武天皇は、元正天皇(げんしょう・てんのう)の譲りを受けて24歳で即位なさいましたが、即位間もなく多くの天変地異に見舞われました。災害などが起きるとそれは天皇のせいであると古くから考えられてきました。聖武天皇は一身にその責任を感じて読経会(どっきょうえ)を催し、およそ三千人を出家させるなど、仏教の力を借りて災いを避けようとなさいました。さらには、生まれて間もない皇子が急逝(きゅうせい)したことで、天皇はより仏教に傾倒していかれたのです。
聖武天皇が本格的に仏教に帰依(きえ)するきっかけになったのは、天平6年(734)4月に起きた大地震だといわれています。最近の調査によると、このとき大阪地方を襲った大規模な地震は、平城京では震度6程度の揺れだったそうです。天皇は地震の後、自らの責任であると仰せになり、大赦(たいしゃ)を実施になり、一切経を写経され、読経を命じられました。
しかし、その後も天然痘の流行で多くの民が苦しみ、都でも藤原四兄弟が相次いで命を落とし、さらに輪をかけるように反乱も起き、天皇は心を痛められたといいます。
そこで天皇は大きな決心をなさいました。詔(みことのり)(天皇の命令のこと)して全国に国分寺と国分尼寺を建設すること、そして大仏の建立を命じられたのです。天皇は大仏を造ることで災いを避けるだけでなく、民衆の心が一つになることを望まれました。
そして、聖武天皇は天平感宝(てんぴょうかんぽう)(四字の元号)元年(749)に孝謙天皇(こうけん・てんのう)に皇位を譲り、出家しました。天皇が出家するのは歴史上初めてのことです。天皇が神であると考えられるようになったのも聖武天皇の頃からで、その神が出家して仏に仕える身となり、「三宝の奴(さんぽうのやっこ)」(仏法の奴隷)として大仏の前に跪(ひざまず)いたのです。「神の出家」は社会に大きな衝撃を与えたに違いありません。これにより神仏習合(しんぶつ・しゅうご)が加速していきます。
一万人の僧が参加して行われた大仏の開眼供養を見届けると、上皇は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年(756)に、天武天皇の孫に当たる道祖王(ふなどおう)を皇太子にするとの遺言を残し、崩御されました。