「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ我が衣手(ころもて)は露(つゆ)にぬれつつ」
(現代語訳)
秋が訪れ、刈り取られた稲が仮小屋に集められた。しかし、草葺の屋根の編み目が粗いため、農民の着物の袖は、夜の雨雫に濡れているのだろう。その様を思うと私の袖も、涙でしっとりと濡れてゆくことだ。
飛鳥時代に大活躍した天智天皇(てんじ・てんのう)の御製です。百人一首の巻頭歌として詠まれているので、知っている人も多いことでしょう。耕作に励む農民を思う天皇の気持ちがにじみ出る作品です。
天智天皇は何をなさった天皇でいらっしゃるか、直ぐに答えられたら歴史に詳しい人でしょう。天智天皇は、むしろ「中大兄皇子(なかのおおえの・おうじ)」として知られているのではないでしょうか。
7世紀は、アジア情勢が激動した世紀でした。中国では隋が滅んで唐が成立し、朝鮮半島では三つの国が争いを繰り返していました。
その頃日本は、聖徳太子が目指した新しい政治システムを確立させ、部民(べみん)制・屯倉(みやけ)制から律令国家へと変貌を遂げるべくもがいていました。
しかし聖徳太子亡きあと、舒明天皇(じょめい・てんのう)・皇極天皇(こうぎょく・てんのう)の治世で蘇我(そが)氏の横暴な振舞いが目立つようになり、政治改革も行き詰まりをみせたのです。
そんななか、蘇我入鹿(そがの・いるか)は政治的に対立していた聖徳太子の子の山背大兄王(やましろの・おおえのおう)を襲撃しました。山背大兄王は一旦逃れましたが、「自分が挙兵して人々が命を落とすのは忍びない」といい、妻子もろとも自害したのでした。結局この事件はまもなく蘇我氏を滅亡させる引き金になってしまいます。「入鹿は皇位の簒奪を目論んでいる」と噂されはじめました。
中大兄皇子の運命を変えたのは中臣鎌足(なかとみの・かまたり)との出会いでした。あるとき皇子が法輿寺の槻の木の下で蹴鞠(けまり)をしていました。皇子が靴を脱ぎ落としてしまったとき、近くを通りかかった鎌足が靴を拾って皇子に捧げたのが縁で二人は意気投合、入鹿打倒の密議を交わすことになったのです。
そして運命の日が訪れます。皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮(あすか・いたぶきのみや)で朝鮮三国の使者を迎える儀式が始まり、皇極天皇の前で上奏文が読み上げられている途中、中大兄皇子が飛び出して入鹿に太刀を浴びせ、殺害しました。この政治クーデターはその年の干支をとって「乙巳(いっし)の変」と呼ばれています。そして間もなく蘇我氏は滅亡しました。
蘇我氏を倒した中大兄皇子は、孝徳天皇(こうとく・てんのう)を立てて「改新の詔(みことのり)」を発し、律令国家を打ち立てる方針を示しました。
中大兄皇子が天皇の位に就いた後、鎌足は重く用いられますが、鎌足こそ藤原氏の始祖なのです。やがて藤原氏は摂政・関白・皇后を出す特別の家となり、天皇家にもっとも近い家となります。藤原氏の権威は明治維新後も続き、昭和22年に華族制度が解体されるまで、実に千三百年以上衰えることがありませんでした。
大化の改新の功として鎌足に「藤原朝臣(ふじわらの・あそみ)」を賜ったのが、天智天皇でした。天智天皇は鎌足を用いることで、藤原氏繁栄の礎を築いたことになります。これは日本の歴史上、重要な意味を持ちます。
もし蹴鞠のときに皇子の靴が転がっていなければ、日本は全く違った歴史を歩んでいたのかもしれません。