今からおよそ千七百年前、日本史を代表する名君で、「聖帝(ひじりのみかど)」として称えられた天皇がいらっしゃいました。第十六代・仁徳(にんとく)天皇です。きっと、日本最大の古墳、仁徳天皇陵として名前を覚えている人も多いことでしょう。
仁徳天皇治世では、大阪平野の開発が進められ、治水工事が行われました。これは日本史上最初の大規模工事だったとされています。これにより、農業生産量が格段に高まったと伝えられています。現在淀川下流の両岸には堤防がありますが、これは仁徳天皇の時代に整備が始まったものなのです。
しかし、仁徳天皇の偉大さは、具体的な功績も然ることながら、民を思う気持ちの強さに見出すことができます。
民に苦労をかけないために、仁徳天皇の宮殿は質素で飾り気もなく、屋根を葺(ふ)いた茅(かや)を切りそろえることもしなかったそうです。
古事記と日本書紀には次のようなエピソードが収録されています。治世四年の春のことです。仁徳天皇が高台に上り、遠くを眺めたときに、人家から煙が立っていないことに気付きます。
民が貧しいから竈(かまど)の煙も立ち上らないのではないかと心配した天皇は、「昔、聖王の世には、人々は君主の徳を称える声を上げ、家毎に喜びの歌があったというが、自分が天皇になって早三年、称える声が聞こえないばかりか、炊煙(すいえん)もまばらである。五穀が実らず、民は困窮(こんきゅう)しているのだろう。都ですらこの様子であるから、地方はもっと困窮しているに違いない。」と嘆き、「今から三年、全ての課税と役務(えきむ)を止めて、民の苦しみを和らげよ!」と詔(みことのり)しました。
その日以来宮中では、全てが徹底的に倹約されることになりました。衣服と靴は擦り切れて破れるまで新調せず、食べ物は腐るまで捨てず、宮殿の垣が破れても造らず、屋根の茅が外れても葺きかえず、雨のたびに雨漏りして衣を濡らし、また部屋から星が見えるほどの有様だったと伝えられています。
天皇の民を思う気持ちが通じたのか、三年の後には民の生活は豊かになりました。天皇が高台に上り、遠くを眺めると、しきりに炊煙が立ち上っているのが見えたのです。
この時、天皇は皇后に次のように語りました。「天が君主を立てるのは、民のためであり、君にとって民は根本である。だから、民が一人でも餓えるのならば、君は自らを責めなくてはならない。」
その頃、諸国の民が、自分たちは豊かになったので、税を納めて宮殿を直さなくては天罰があたるといって、税を納めようとしましたが、天皇はこれを許しませんでした。
それからさらに三年が経過した治世十年の秋、天皇はようやく課役(かえき)を命じました。すると、民たちは誰から即されることもなく、昼夜問わずに力を出し合い、あっというまに新しい宮殿を建てたのでした。
以来、仁徳天皇は「聖帝」と称えられました。天皇の民を思う気持ちは、まさに「聖徳」と表現するにふさわしいでしょう。そしてその聖徳は、千七百年たった現在の皇室にも大きな影響を与えているのです。現在の天皇のあり方は、すでに仁徳天皇の時に完成していたといえます。