皇室と宮内庁(くないちょう)は一体のものと思っている人が多いようですが、皇室と宮内庁は全く別です。宮内庁は日本の行政機関の一つで、内閣府に属しますが、皇室は政府の組織ではありません。
宮内庁の職員は国家公務員ですから、内閣総理大臣が所管しますが、天皇及び皇族は宮内庁の職員ではなく、国家公務員ではないのです。
宮内庁の組織と役割については、
第32回、宮内庁@(その特殊な官庁)
第34回、宮内庁A(オモテ編)
第36回、 宮内庁B(オク・侍従編)
第38回、 宮内庁C(オク・女官編)
に書きましたのでここで詳しくは説明しませんが、役割について簡単にいうと、天皇の国事行為に係る事務、皇室関係の事務などをつかさどり、御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)を保管するということになります。
(「御璽」とは天皇の印鑑、「国璽」とは日本国の印鑑)
最初に宮内庁の歴史についてふれてみましょう。
昭和二十四年に成立した現在の宮内庁は、昭和二十二年の宮内府を前身としていて、また宮内府は明治二年に組織された宮内省を前身としています。
それ以前は、宮内省と類似した組織があり、その歴史は『日本書紀』を遡ると第四十代天武天皇(てんむ・てんのう)の時代までたどることができます。また『日本書紀に』記述がなくとも、天武天皇よりも前の時代にも同じような組織があったと思われます。
明治二年に宮内省が成立するまでは、その前身となる組織は天皇が率いる組織であって、その構成員は天皇の御家来衆(ごけらいしゅう)でした。
ところが明治十八年に内閣制が導入され、宮内省は政府の組織としての色合いが濃くなりますが、「宮中府中(きゅうちゅう・ふちゅう)の別」の原則に従い、宮内大臣は内閣の一員とはされませんでした。
(「宮中」は皇室、「府中」は政府を意味する)
明治二十二年に大日本帝国憲法と旧皇室典範が公布されると、わが国は立憲君主国家となり、皇室は自立する存在となりました。
そして明治四十一年、皇室令による宮内省官制が施行されたことで、宮内大臣は皇室一切の事務につき天皇を輔弼(ほひつ)する機関とされました。
昭和二十年に日本が敗戦を迎えると事情が一変します。昭和二十二年に日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴」とされ、政治に一切関わることのできない存在となります。皇室の自立は否定され、結局宮内庁は総理府の一部となったのです。
このような経緯があり、現在では宮内庁は政府の組織であって、職員は総理大臣が所管する国家公務員となったのです。
ということは、宮内庁職員は内閣総理大臣の家来であり、その雇い主は日本国政府ということになります。少なくとも天皇の御家来衆ではないのです。
現在の宮内庁は、歴史的には幕末まで京都に設置されていた京都所司代(きょうと・しょしだい)に似ています。江戸期においては朝廷と幕府は全く別の組織でした。
天皇を頂点とする朝廷の本拠地は京都にあり、将軍を頂点とする幕府の本拠地は江戸にあります。
京都と江戸は距離があるので、幕府が朝廷と折衝するために、幕府は京都に出先機関を置きました。それが京都所司代です。
京都所司代は幕府の組織であって、朝廷の組織ではありません。幕府の利害と朝廷の利害は必ずしも一致するわけではありません。
江戸期を通じて、京都所司代は常に幕府の立場に立って行動しました。時には幕府の権益を守るため、京都所司代が朝廷と激しく対立する場面もあったのです。
宮内庁は、「政府に属する対皇室の窓口機関」というと分かりやすいでしょう。通常の状態であれば問題ありませんが、もし政府の利害と皇室の利害が一致しない状態に至った時、宮内庁は組織の性質上、常に政府の立場に立って行動するわけです。
もちろん宮内庁職員の中には、形式上は内閣総理大臣の家来であっても、内心では天皇の家来だと思い、天皇陛下をお守りすべく奉職している職員もいるでしょう。しかし、宮内庁という組織自体が、皇室ではなく政府を向いているのもまた事実です。
宮内庁は皇室を守る組織なのではなく、皇室を監視し、管理する組織と理解すると、大きく外れることはないと思います。
関連記事
第32回、宮内庁@(その特殊な官庁)
第34回、宮内庁A(オモテ編)
第36回、 宮内庁B(オク・侍従編)
第38回、 宮内庁C(オク・女官編)
第46回、宮内庁御用達
第98回、宮内庁長官の敬語の間違い
第108回、宮内庁長官の苦言について@
第109回、宮内庁長官の苦言についてA