最近、皇太子殿下と皇太子妃殿下を非難する心無い記事が多く、とても大きな違和感を覚えています。
特に、『WiLL』五月号に掲載された西尾幹二(にしおかんじ)「皇太子さまに敢えて御忠言(ごちゅうげん)申し上げます」と同六月号に掲載された同「皇太子さまへの御忠言、第2弾」は目を覆うほどのひどい内容でした。
西尾氏は、国民は皇太子殿下に謝罪を求めているなどと述べ、皇太子妃殿下の思想が反日左翼であると断定した上で、将来の皇室を憂うふりをしつつ、天皇制度の廃棄に自らも賛成するかもしれないと述べました。
この二つの記事は大きな反響を呼び、編集部には読者から西尾論文を絶賛するメッセージがたくさん寄せられたそうです。
この記事を読んだ私は、このような論調が日本を支配することになっては一大事だと思い、『WiLL』七月号に西尾論文への反論を掲載しました。
この記事も大きな反響があったようです。私のところにも多くの読者からメッセージが届けられました。ただ、この問題に意見する人の多くは感情的になっているようでしたので、この場を借りて、論点を整理してみようと思います。
私が書いた文章のタイトルは「西尾幹二さんに敢えて注告(ちゅうこく)します」、サブタイトルは「これでは『朝敵(ちょうてき)』といわれても……」です。タイトルは私が考えたものですが、サブタイトルは編集部が編集部の判断で決めたものです。(また、本文中に「朝敵」という言葉は使っていません。)
西尾氏は「御忠言」という言葉を使いましたが、私はそれに対して「注告」という言葉を使いました。通常は「忠告」という字を使うのが一般的ですが、「忠」は忠誠心などを連想させる字なので、私は「注」の字を使ったのです。
『日本国語大辞典』(小学館)によりますと、「注告」は「目上の人などに、事の次第を書き記して知らせること。また、心をこめて教えさとすこと。」という意味があります。実際、そのつもりでこの言葉を使用しました。
反論記事の中で私が述べたのは大きく二点です。一点目が主意的主張で、二点目が予備的主張です。
まず一点目は、西尾論文に書かれていることが全て事実だとしても、正義を振りかざして皇太子殿下と皇太子妃殿下を痛烈に非難する記事を書くことは、何も良い方向に動かないのであって、むしろ国民の不安と不信の感情をあおるだけであるということ。
そして二点目は、そもそも西尾氏の指摘は不確かな情報に基づくもので、妄想の上に妄想を重ねたようなものであって、不適切であるということです。
つまり、主意的主張で西尾論文の趣旨を非難し、予備的主張で西尾論文の立論の方法を非難しているということになります。この二つの主張は全く独立したものであり、主張の目的はそれぞれ異なります。
第108回と第109回で宮内庁長官の苦言について書きましたが、その苦言の産物が、まさに西尾論文だったといえるでしょう。
宮内庁長官が皇太子を諌(いさ)める会見をしたことによって、国民の不安と不信は急速に高まったのです。その結果書かれたのが西尾論文です。その意味において、宮内庁長官の責任は重いといわざるをえません。
皆さんご承知のとおり、皇太子妃殿下は精神的なご病気によって長らくご公務をお休みになっていらっしゃいます。皇太子殿下の「人格否定発言」から宮内庁長官の苦言に至るまでの間に、いろいろな問題があったと想像されます。
かつて壬申(じんしん)の乱や保元(ほうげん)の乱では、天皇家の身内同士が殺し合いをしたことすらありました。ですから、いま皇室内で何らかの問題があったとしても不思議なことではありません。
そのような状況のなかで、国民が集団ヒステリーのようになって一斉に皇太子殿下と皇太子妃殿下を非難するというのはいかがなものでしょうか。皇室を大切に思うのであれば、ことさら騒ぎ立てるのではなく、静かにお見守り申し上げるのが正しい姿勢ではないかと思います。
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