四月二十九日は「昭和の日」、昭和天皇の誕生日です。
昭和時代、この日は天皇誕生日として祝日でしたが、天皇が崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)あそばすと、この日を天皇誕生日として存続させることができなくなりました。
当時から「昭和記念日」などという名称で祝日として残す動きはありましたが、左派からの激しい反対に遭い、四月二十九日は「みどりの日」として、改めてゴールデンウィークの一日を構成する祝日になったのです。
「みどりの日」というのは、昭和天皇が自然を深く愛す生物学者でいらしたことにちなんで付けられた名称です。
その後も、「みどりの日」を「昭和の日」に改める運動は継続され、これを推進する国会議員が国会に法律案を提出しましたが、平成十二年(二〇〇〇)と平成十四年(二〇〇二)の国会ではいずれも廃案となりました。
しかし、平成十七年(二〇〇五)の国会でようやく可決され、平成十九年(二〇〇六)に施行されました。
これにより、同年から四月二十九日は「昭和の日」となり、これまでの「みどりに日」は五月四日に移動して残されることになったのです。
祝日法(国民の祝日に関する法律)では、「昭和の日」の趣旨を「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧(かえり)み、国の将来に思いをいたす」と定めています。
ところで、平成の天皇誕生日は十二月二十三日で、この日は祝日とされています。また、明治天皇の誕生日である十一月三日は、現在は「文化の日」として残されています。
さて、昭和天皇とはどのような天皇だったのでしょう。昭和の日にちなんで、昭和天皇について少し勉強してみることにしましょう。
昭和天皇は偉大な天皇でした。昭和天皇がいらっしゃらなければ、おそらく今、日本はありません。
大東亜戦争(太平洋戦争)は、開戦前の状況を客観的に分析すると、天皇が誰であっても、また首相が誰であっても、おそらく避けることはできませんでした。
しかし、昭和天皇の終戦の御聖断と、その後のマッカーサー元帥との会見がなければ、日本は終戦とともに国家が解体されていたことでしょう。そうなったら、今の日本は君主国ではなく、大統領制を敷く共和国になっていたものと考えられます。
昭和天皇は祖父である明治天皇の遺志を引き継ぎ、立憲君主国の天皇のあり方にとことんこだわった天皇でした。大日本帝国憲法、また昭和二十二年以降は日本国憲法を遵守することに務められました。
現在ではもちろんそうですが、大日本帝国憲法下においても、天皇は、政府と統帥部(軍令部)が決定した国策については、これを却下することはできませんでした。
昭和天皇が即位以来、初めて憲法の枠組みを飛び出して、直接政治を動かしたのが、終戦の御聖断だったのです。
昭和二十年(一九四五)八月十日に開かれた御前会議で、政府と統帥部の最高幹部が集まって、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、それとも最後まで戦うべきか、二つの意見が対立しました。
どちらにすべきか表決したところ、和平と玉砕で三対三の両論対等となりました。そこで、議長の鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)首相は、「本来であれば議長の一票で決めるべきであるが、この決定はあまりに重大で、自分では決めることはできない。全く前例のないことであるけれども、天皇の御聖断を仰ぐほかない」と述べ、最終的には天皇に決めていただくことにしたのです。
この時、昭和天皇はポツダム宣言を受諾して、戦争を終わらせることを望まれ、これで終戦が決まったのです。日本の憲政史上、天皇が政治判断を下した最初で最後の例になりました。
すでにソ連は日本に対して宣戦を布告し、満州帝国に攻め込んでいましたから、終戦の時期が少しでも遅れたら、北海道、そして東日本はソ連の占拠することとなり、日本もドイツのように東西に分断されていたと思われます。
間もなく行われる、マッカーサー元帥との御会見も歴史的な一場面でした。これについては次回をお楽しみに。