平成二十年二月二十二日、神功皇后陵(じんぐう・こうごう・りょう)〔五社神古墳(ごさし・こふん)〕の立ち入り調査が行われました。
宮内庁(くないちょう)が管理する陵墓(りょうぼ)への立ち入り調査が行われたのは歴史上初めてのことです。
今後もこのような形で陵墓への学術調査が認められるようになると、これまで謎だらけだった日本の古墳時代を解明する手がかりがつかめるかもしれません。
それ自体には多くの人が興味を抱くこととは思いますが、陵墓の調査については慎重であるべきではないでしょうか。
さて、「御陵」とは何でしょうか。
天皇・皇后・皇太后のお墓を「御陵(ごりょう)」、その他の皇族のお墓を「御墓(ごぼ)」と呼びます。また、両方をまとめて「陵墓」といいます。
たとえば、最近の天皇の例を挙げると、昭和天皇の御陵である武蔵野陵(むさしのの・みささぎ)は、八王子市にあります。形式は上円下方墳(じょうえん・かほう・ふん)という、上部が丸く、下部が四角い形式の古墳です。
大正天皇の御陵は多摩陵(たまの・みささぎ)といい、やはり八王子市にあり、武蔵野陵の直ぐ近くにあります。
また、明治天皇の御陵は伏見桃山陵(ふしみ・ももやまの・みささぎ)といい、京都市にあります。
一方、皇族の墓である御墓は、東京では護国寺(ごこくじ)(文京区)の隣にある、豊島が岡御墓所(としまがおか・ごぼしょ)にまとめられています。
最近では、平成十四年(二〇〇二)に薨去(こうきょ)(皇族が亡くなること)された高円宮憲仁親王(たかまどのみや・のりひとしんのう・でんか)の御墓が造営されました。
昭和二十二年(一九四七)に皇籍(こうせき)を離れた十一宮家の御墓もこちらにあります。
このようにして、宮内庁が管理する陵墓の数は、全国で八九六にのぼります。なかでも、ヤマト王権の成立の謎を握る巨大前方後円墳のほとんど全ては、陵墓として宮内庁に管理されているのです。
宮内庁の管理下にある陵墓は、これまで一般は勿論のこと、学者による学術調査でさえも一切認められてきませんでした。
考古学者と歴史学者は長年、宮内庁に対して調査の許可を求めてきました。そして、これが実現したのが、今回の神功皇后陵の立ち入り調査でした。
神功皇后は第十四代の仲哀天皇の皇后で、神功皇后の御陵とされる五社神古墳は四世紀から五世紀初めに作られたと考えられている巨大な前方後円墳です。
今回の調査では、日本考古学協会をはじめとする、考古学・歴史学の十六の学会の研究者十六名が墳丘(ふんきゅう)の最下段を約二時間半かけて一周して調査を行いました。
墳丘の外側に円筒埴輪(えんとう・はにわ)列の痕がみつかったほか、埴輪の破片や葺石(ふきいし)が墳丘の表面に出ていることが確認されました。
学会側は、その他にも世界最大の墓とされる仁徳天皇陵など、十ケ所の陵墓の調査の許可を宮内庁に求めています。
調査によって、それぞれの古墳が造営された時期などがより詳細に判明する可能性があります。
宮内庁がこれまで調査を許可してこなかったのは、陵墓の「静安と尊厳の保持」という理由があるといいます。
一方、学会側が主張しているとおり、陵墓の調査を進めて、前方後円墳の考古学研究の道を開き、古墳時代の歴史に新たな科学的見識を加えるべきだとの根強い主張もあります。
たしかに、古墳時代の歴史には謎が多く、歴史に少しでも興味がある人にとって、ヤマト王権成立時の詳細を知りたいと思うことは自然なことでしょう。私も非常に興味がある部分であることに違いはありません。
ところが、たとえば歴代天皇の御遺体を見聞し、DNA鑑定を施すというようなことがあれば、それは度を越しているといわざるを得ません。それでは尊厳は大きく傷つけられることになるでしょう。
陵墓は皇室にとって大切な先祖の「お墓」であることを忘れてはいけません。お墓を大切にすることによって、家が栄えると考えるのは、日本人の自然な発想です。
いくら学術調査とはいえ、墓を掘り返すようなことがあれば、家の繁栄は傷つけられると考えるべきでしょう。民間でも墓を調査するというのは気分のよいものではないはずです。
ではどこまで許可をすべきか、これは難しいところです。今回のように、墳丘の下段を一周して外観を調査するという程度なら、許してもよいような気がします。
でも、それ以上の踏み込んだ調査については、これまで通り慎重であるべきだと思います。
歴代の天皇が、陵墓をいかに大切にされたか、特に昭和天皇と今上天皇が、陵墓を大切になさるお姿を拝すると、「調査を行うべき」だとは、軽率にいえません。