二月十一日の「建国記念の日」は、数ある祝日の中でも、我が国にとってもっとも重要な祝日です。日本が建国されたことを記念する日だからです。
国が出来たことを記念する日は、どの国にとっても、とても大切な日で、国を挙げてお祝いするのが世界の常識です。
たとえば、七月四日はアメリカの独立宣言が公布された独立記念日、七月十四日はフランスでフランス革命が始まった日、六月十二日はロシアがソ連邦から独立した主権宣言記念日、十月一日は中国の建国式典が行われた国慶節(こっけいせつ)といった具合で、毎年盛大な式典が行われ、国民がそろって建国を祝うのです。
アメリカ・フランス・ロシア・中国のように、建国から日の浅い国は、「何年の何月何日に建国した」と明確にいうことができますが、日本のように建国からおよそ二千年経過している場合は、そのように明確に示すことが困難です。
また、通常国家は、どこかの国から独立するか革命によって成立する場合が多いので、建国の日が明確になりやすいのですが、日本の場合はそのように成立したのではなく、ヤマト王権が発展して大和朝廷となり、それが徐々に日本国としての基盤を整備して現在に至るのですから、建国の日を具体的に示すのはいよいよ困難なのです。
そこで、もし日本の建国の日を示すならば、初代天皇の神武天皇(じんむ・てんのう)が即位した日とする以外に、相応しい日はありません。
神武天皇が即位した日を知る手がかりは『日本書紀』に書いてあります。それによると、神武天皇は、今からおよそ二千七百年前の紀元前六百六十年の元旦に、橿原宮(かしはらのみや)で即位したといいます。そして、旧暦の元旦を、グレゴリオ暦に換算したのが、二月十一日なのです。
『日本書紀』は「正史(せいし)」、つまり国家が編纂(へんさん)した正式な歴史書です。したがって、『日本書紀』に書かれたことは正しいという前提で考えて差支えありません。
また、日本最初の王権が成立した形跡は、三世紀の奈良県纒向遺跡(まきむくいせき)に見られます。橿原宮付近で最初の王権が成立したことは、考古学的事実とも一致します。
ところで、建国記念の日はかつて紀元節(きげんせつ)という祝日でした。明治5年(1872)に制定され、昭和二十三年(一九四八)に廃止されるまで、『日本書紀』が記す神武天皇即位に基づき、紀元を祝う祝日とされてきました。
その後、紀元節を復活させようとする動きが活発になりましたが、建国記念日を制定する法案は九回も廃案となり、最後には「建国記念日」に「の」を入れて、「建国記念の日」とすることで、法案に反対していた社会党との折り合いがつき、祝日法改正案が可決。「建国記念の日」が成立することになったのです。
「の」が入ったことで、「建国記念日を祝う」という解釈の他に、「日本が建国したという事実を祝う」との解釈が可能となり、与野党で妥結しました。
実際には、祝日法自体では日付は定めず、総理府に設置された、学識経験者から成る建国記念日審議会によって審議された結果、二月十一日とすることが決められ、政令によって定められました。
昭和四十一年(一九六六)当時に実施された内閣総理大臣官房広報室の世論調査によると、成人男女一万人を対象に調べたところ、もとの紀元節の日に当たる二月十一日がもっとも相応しいと答えた人が四七・四パーセントに上り、他を引き離してトップでした。
少数意見には、八月十五日の終戦の日、四月二十八日の講和条約発効の日、五月三日の憲法記念日、四月三日の聖徳太子の十七条憲法発布の日などがありました。
建国記念の日というからには、国が建てられた日でなくてはなりません。建国記念日をいつにするかという議論は、現在の日本国がいつ建国されたのかという議論であり、それは明治維新やポツダム宣言受諾などで国体(こくたい)が変更したかという憲法論と深いつながりがあります。
明治維新のときは、大政奉還により、政治権力が幕府から朝廷に返還されて維新政府が成立していますから、明治維新前後で、日本は国家としての連続性が認められます。また、明治維新前後で天皇の交代はありませんでした。
また、ポツダム宣言受諾についても、日本は国家を解体したわけではありません。条件をのんで停戦し、連合国による占領の後に独立国として復権したのですから、やはり国家としての連続性が認められます。この時も天皇の交代はありませんでした。
したがって、日本国の建国の日として、終戦でも講和でもなく、神武天皇即位にちなんだ二月十一日を選んだのは、賢明な判断だったと評価できます。
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