vol.77 「壬申の乱」は皇位簒奪に成功した唯一の反乱
六七二年におきた壬申(じんしん)の乱は、古代日本における最大の内乱として知られます。歴史の教科書には必ず紹介される項目ですが、その評価は近年、大きく変わりつつあります。
第三十八代天智(てんじ)天皇は、これまでの天皇と違い、強大な権力を持ちましたが、子供に恵まれませんでした。成長した皇子は、地方豪族の娘を母に持つ大友皇子(おおとものみこ)ただ一人でした。
当時、皇后が生んだ皇子は高い地位を占めますが、皇后以外の女性が産んだ皇子は地位が低いと考えられていました。ですから、大友皇子は唯一の皇子とはいえ、大友皇子の即位には大きなハードルがあったのも事実です。
しかも、当時は今と違い、皇位は必ずしも父から子へと継承されるのではなく、むしろ兄から弟へと継承される傾向がありました。
というのは、まだ統治機構が整備されていない時代ですから、天皇は君臨するだけでは許されず、統治者としての能力を持ち、一定の年齢に達していることが条件とされていたからです。そのため、天皇の息子よりも、天皇の弟の方が有力な候補とされてもおかしくありませんでした。
天智天皇が崩御すると、天智天皇の皇子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)の間で皇位をめぐる大規模な戦いが始まります。これが壬申の乱です。皇族同士がぶつかりあう、戦争でした。
これまで一般的には次のように考えられてきました。つまり、天智天皇の後継者は、当初弟の大海人皇子でしたが、天智天皇は自分の息子かわいさのあまり途中で考えを変え、息子を天皇にしようとし、兄弟間で深刻な対立を招きました。そこへ天智天皇が病床に就くと大海人皇子は皇位を辞退して出家しましたが、天皇が崩御すると追討の兵を挙げられたため、仕方なく戦ったことになっています。この考え方によれば、大海人皇子は潔白の皇子ということになります。
ところが、近年はこれと違った考え方が示され、壬申の乱の評価は変わりつつあります。その考え方によると、当初天皇の後継者とされたのは大友皇子の方で、天智天皇と大海人皇子の間ではそのことが盟約として交わされていたところ、皇位に目がくらんで、この約束を破ったのは大海人皇子であるというのです。これによると、大海人皇子は出家することでいったん身を引いたと見せかけて戦争の準備を進め、天智天皇が崩御すると計画とおりに内乱を起こして皇位を手に入れた、野心に燃える皇子だったことになります。
大友皇子が後継者とされていたことは、大友皇子が、大海人皇子の娘・十市皇女(とおちのひめみこ)と結婚していることで明らかです。
この二人の結婚は、少なくとも天智天皇と大海人皇子の両者が合意しなければ成立しませんから、兄弟間の意思に基づいたものであったはずです。
そして、大友皇子と十市皇女の間に生まれた葛野王(かどののおおきみ)こそ、天智天皇と大海人皇子両方の血を引く存在だったのです。
しかも、大友皇子は政務における最高位のポストである太政大臣(だじょうだいじん)に任命されていることからも、大友皇子が次の後継者とされていたことが想像できます。
『日本書紀』は大海人皇子が病床の天智天皇のところに訪れたときのことを、次のように記しています。
天智天皇は弟の態度によっては弟を殺す計画を立てていました。そのことを大海人皇子は承知した上で、大海人皇子に皇位を譲りたいという天皇の申し入れに対して、体調不良を理由に皇后が即位して大友皇子が皇太子になるべきことを述べ、自らは出家すると云ったといいます。
ところが、間もなく抗争が起きることは、重臣たちにはわかっていました。『日本書紀』は次のようなエピソードも収録しています。
大海人皇子はその日のうちに出家して吉野宮(よしののみや)に向かったのですが、途中まで見送りに出た朝廷の重臣らは、宇治橋を渡った大海人皇子の後ろ姿を見て、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言ったというのです。
『日本書紀』の編纂を命じたのは後の天武(てんむ)天皇(大海人皇子のこと)その人であり、『日本書紀』自体が天武天皇の都合の良いように書かれていると見なくてはなりませんが、その『日本書紀』が敢えてこのように書いたことは、真実であるととらえるべきでしょう。
天智天皇が崩御すると、大友皇子が即位して第三十九代弘文(こうぶん)天皇となり、弘文天皇と大海人皇子は戦争準備にとりかかり、六七二年にかつてない規模の戦争が起きました。
約一ヶ月の先頭の末、大海人皇子が勝利を収め、弘文天皇は自害し(第30回「自殺した天皇」参照)、大海人皇子は即位して第四十代天武天皇となりました。日本史上、皇位を狙った反乱は全て鎮圧されてきましたが、この壬申の乱だけが、反乱を起こした人物が皇位を手に入れた唯一の反乱となりました。
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